Australian War Memorial - About the AJRP

   
ホームページ | 案内 | データベース | 研究の成果 | 地図 | サイトマップ | 検索 | リンク集 | 謝辞 | 英文翻訳記事 | 最新情報 | English

攻撃されたオーストラリア
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)





AWM P02235.002
1942年2月、北部準州ダーウィン
豪第23車両運搬予備役部隊の兵士たち。彼らは日本軍のオーストラリア侵攻に備え、ライフルを持って完全武装で訓練をしている。

AWM 132532
1942年2月19日、北部準州ダーウィン
オーストラリア本土に対する日本軍最初の空襲で破壊されたストークヒルの石油タンク。

AWM 027800
1942年11月12日、北部準州ダーウィン
豪第14重高射砲部隊のF.R.ウォンビー軍曹(勲章受賞)。ウォンビー軍曹と砲手のW.T.ハドソンはオーストラリア本土での戦闘で武勲を立て表彰された最初の豪軍兵士だった。1942年2月19日、日本軍が初めてダーウィンを空襲した際、ウォンビー軍曹(当時は上等砲兵)は海軍の石油貯蔵所で軽高射砲の部署についていた。彼は日本軍の急降下爆撃機と戦闘機がこの部署を襲った時、部下に安全地帯に逃れるよう命令する一方、自分は高射砲を握り敵に発砲し続けた。

AWM 012784
1942年2月、北部準州ダーウィン
日本軍のダーウィン空襲の際、民家のそばに落ちた爆弾によってできた穴。

AWM 128107
1942年2月19日、北部準州準州ダーウィン
オーストラリアに対する最初の日本軍の空襲で炎上する二隻の船、「バロッサ」と「ネプチュナ」。この攻撃で「ネプチュナ」に積んであった爆雷が起爆し、空襲による最大の爆発となった。二度の猛攻撃で多くの建物が破壊され、10隻の海軍と民間の船舶が沈没または破損し、軍人・民間人を合わせ、243人が死亡した。太平洋戦争中、オーストラリアの主要都市でダーウィンが最も多く空襲を受けた。1942年2月から1943年11月にかけて豪州北方の諸島を基地とする日本軍の爆撃機と戦闘機はダーウィンに64回の攻撃を加えた。

AWM P01794.007
1942年2月、北部準州ダーウィン
土嚢を回りに積んだ壕の中で、日本軍の空襲に備えてヴィッカース303口径機関銃を構える豪軍兵士。彼の背後には、1942年2月19日の最初のダーウィン空襲で破壊された豪空軍司令部の残骸が見える。

AWM P01791.005
1942年2月、北部準州ダーウィン
1942年2月19日の最初のダーウィン空襲で死亡した25人のオーストラリア民間人の墓。彼らはダーウィン郵便局に落とされた爆弾で死亡した。

AWM P00913.002
1942年3月4日、北部準州ダーウィン
日本の偵察機によって高度約3,500フィート(約1,000メートル)の高さから撮られたダーウィンの航空写真。

AWM P02039.003
1942年3月、西オーストラリア州ブルーム
破壊された6機の飛行機から立ち上る煙。1942年3月3日、6機のゼロ戦がブルーム飛行場を空襲した。破壊された飛行機の大部分は蘭領東インドからの避難民を乗せて着陸したばかりであり、避難民の内70人が死亡した。日本軍が空襲したのはブルームの他、西オーストラリア州のウィンダム、ダービー、ポートヘッドランド、クイーンズランド州のタウンズヴィル、北部準州のダーウィンなどオーストラリア北岸の町である。

AWM P00022.002
1942年2月27日、北部準州メルヴィル島
オーストラリア本土に最初に不時着した日本の飛行機、日本海軍の三菱ゼロB11-1型戦闘機。空母「飛龍」から発進したこの機は豊島一(とよしま・はじめ)兵曹が操縦していた。

AWM 068530
1942年4月9日、オーストラリア
オーストラリア本土で最初の日本人捕虜になった豊島一の捕虜識別写真。1942年2月27日のダーウィン空襲に加わった豊島のゼロ戦はメルヴィル島に不時着し、そこで彼はスネーク湾居留地のアボリジニに捕らえられた。1942年2月19日の最初のダーウィン空襲にも加わった豊島は、後にニューサウスウェールズ州カウラの捕虜収容所に収容された。豊島は、1944年8月5日の深夜、日本人の大量脱走に加わって死亡した。この時、彼はラッパを吹いて脱走開始の合図をした。このラッパは今オーストラリア戦争記念館の所蔵品となっている。

AWM P00022.001
1942年2月27日、北部準州バサースト島
日本海軍豊島一兵曹と彼を捕らえた豪州工兵隊第23野戦中隊のレスリー・パウウェル軍曹。豊島のゼロ戦がメルヴィル島に不時着した後、彼はスネーク湾居留地のアボリジニーに捕らえられた。彼らは豊島から銃を取り上げ、武装していなかったパウウェル軍曹に銃と一緒に身柄を引き渡した。

AWM P02305.018
1942年10月、北部準州メルヴィル島のスネーク湾居留地
太平洋戦争が勃発した際、アボリジニ居留地の管理人ジョン・グリブルは沿岸監視人として豪軍に採用され、RANVR(豪州海軍志願予備兵)の一員となった。2月27日、スネーク湾の監視隊がオーストラリア本土での最初の日本人捕虜となる豊島一を捕らえた。豊島のゼロ戦は、1942年2月27日のダーウィン空襲に加わった後、メルヴィル島に不時着したのだった。

AWM 306616
1942年6月、ニューサウスウェールズ州シドニー
湾内の海底から引き上げられた後、海岸に降ろされる日本の特殊潜航艇21号。1942年5月31日夜から翌月1日にかけて3隻の特殊潜航艇がシドニー湾を襲った。シドニー湾の防御を潜り抜けようとした3隻の内、1隻は防潜網に引っ掛かり、自爆した。もう1隻は湾内に潜入し、米海軍巡洋艦「シカゴ」に魚雷を発射した。魚雷は目標から外れたが、兵舎として使われた豪軍フェリーボート「クッタブル」を沈め、この結果、19人の豪軍と英軍の水兵が死亡した。3隻目は一発も魚雷を発射することなく爆雷攻撃を受けて破壊された。

AWM 012589
1942年6月8日、シドニーのローズベイまたはベルヴューヒル
日本の潜水艦「伊24」の砲撃でできた穴の周囲にに坐る子どもたち。1942年6月8日夜、ニューサウスウェールズ州海岸沿いを航行していた「伊24」は陸に向け4発の砲弾を撃った。5月31日から6月1日にかけて日本の特殊潜航艇がシドニー湾を攻撃した。「伊24」は、この攻撃に参加した特殊潜航艇を発進した母船の1隻である。

AWM 128885
1941年11月、日本海軍の船舶「龍田丸」の船上
松尾敬宇中尉は、1941年12月7日、アメリカのパールハーバー攻撃に参加した潜水艦「伊22」の船員であった。1942年5月31日夜から翌6月1日にかけてのシドニー湾攻撃で、彼の特殊潜航艇「M22号」は爆雷攻撃を受け、航行不能になった。松尾中尉は降伏することなく艦内で自らの命を絶った。彼の遺体は他の3体の潜水艦乗組員の遺体とともに引き上げられ、火葬された。遺灰は豪海軍当局によって日本に返還された。

AWM P00325.001
 1942年5月31日夜から翌6月1日にかけてのディエゴスワレス(マダガスカル)とシドニー湾同時攻撃に参加した日本帝国海軍小型特殊潜行艇攻撃隊の隊員。両攻撃と後の潜水艦作戦、または海難事故によって、1人を除く全員が死亡した。

AWM P00455.017
1942年11月頃、メルボルン
メルボルンのエキシビション・ガーデンで展示中の特殊潜航艇の船腹に署名する女性。この潜水艦は、1942年5月31日夜から翌6月1日にかけてのシドニー湾攻撃に参加した2隻の日本海軍小型潜水艦の部分を合体して1隻にしたものである。戦争の資金を集めるために、この潜水艦は東オーストラリア東部の諸都市で巡回展示された。2隻の潜水艦の鉛のバラストから作られた、小さな特殊潜航艇のモデルも資金集めのために販売された。

AWM 128897
広島県江田島
海上自衛隊構内、参考館に展示された小型潜水艦の写真や記念の品。1942年5月31日夜から翌6月1日にかけて日本軍の小型潜水艦がシドニー湾を攻撃した。展示品はこの攻撃に関連するものである。潜水艦の残骸から引き上げられた4人の日本人乗組員のために豪海軍は懇ろな葬礼を行った。ケースの上に展示された写真は、シドニーでの葬礼の模様を写している。その後、彼らの遺灰は日本に返還された。ケース内には特殊潜航艇の指揮官であった松尾敬宇中尉が着けていたベルトの複製が見える。松尾中尉は潜水艦が爆雷で破壊される前に艦内で自殺した。長年、このベルトの実物はオーストラリア戦争記念館の収蔵品であったが、1968年、松尾中尉の母、松尾まつ枝氏(当時83歳)が戦争記念館を訪れた際、彼女に返還された。この時、彼女は彼の遺骸が丁重に取り扱われたことに対し、オーストラリア国民に感謝した。その時また、彼女は数首の和歌を詠んだ。この内の1首が次の歌である。

君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ

AWM 027454
1942年11月1日、メルボルン
空襲防火訓練でホースを繰り出す空襲警戒隊の女性隊員。5,000人以上の空襲警戒隊の隊員がこの訓練に参加した。1942年の最初の数ヶ月間、オーストラリア本土に対する日本の侵略は有り得ると考えられ、豪州諸都市への空襲が予想された。結局、恐れられた侵略は起こらなかった。日本の空襲を受けたのはダーウィン・ブルーム・タウンズヴィルなど幾つかの町だけであった。

AWM P02018.091
1942年頃、オーストラリア
手製の焼夷弾を使って消防訓練をする防衛義勇軍(VDC)の隊員。VDCの隊員の大部分は第一次大戦時フランス、ベルギー、ガリポリ、中東で戦った豪第1軍の兵士であった。VDCは、万一日本がオーストラリアを侵略した際、ゲリラ戦を展開するつもりであった。

AWM 136772
1942年9月8日、オーストラリア、ヴィクトリア州
日本軍飛行機の木製モデル。このモデルは、空襲警戒要員が敵機認識の訓練をするために使われた。豪州の主要都市に対する日本の空襲が結局おこらなかったため、空襲警戒にかかわった数千のオーストラリア人にとって敵機に接触するのはこれらモデルを通じてだけであった。

AWM 128144
1943年2月10日、ニューサウスウェールズ州ポートマックォリー沖
日本の潜水艦の魚雷によって沈められた米国籍船輸送船「スターキング」。太平洋戦争中、オーストラリア東岸で作戦行動をした日本の潜水艦は19隻のオーストラリアと連合国の船を沈めた。

AWM 044428
1943年5月、ブリスベインのグリーンスロープ陸軍病院
豪軍病院船「セントー」が沈没したおよそ8日後、病院のベッドでインタビューを受ける豪陸軍看護局のエレン・サヴェージ看護婦。「セントー」は病院船であることをはっきりと表示していたにもかかわらず、1943年5月14日夜、クイーンズランド南部の沖合いで魚雷攻撃を受け、沈没した。この攻撃を行ったのは、中川少佐が指揮する日本軍潜水艦「伊177」である。船の定員332人の内12人が看護婦で、生存したのはサヴェージ看護婦を含め、わずか64人であった。非武装の船を沈没させたことにオーストラリア人は憤激し、「セントー」は彼らの戦争勝利に対する決意の象徴となった。沈没する「セントー」の絵と「看護婦の復讐を」という標語を書き込んだポスターがオーストラリア中に出回った。



豪日研究プロジェクトは研究活動を休止いたしました。
お問い合わせは、オーストラリア戦争記念館の担当部門にお願いいたします。
Internet implementation by Fulton Technology and AJRP staff .
Australian War Memorial のホームページへ。
Visit the award-winning web-site of the Australian War Memorial