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第7部 勝利と敗北 1945年8月~1945年
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)




AWM 043863
1945年8月6日、広島
 最初の原子爆弾が投下された直後の広島。きのこ型の雲が立ち上っている。爆弾は「エノラゲイ」の名で知られる米空軍B29爆撃機から投下された。広島では6万人の人が死亡したと推定されている。8月9日には2番目の原子爆弾が長崎市に投下された。二度の原子爆弾投下の結果、日本政府は降伏を決断した。

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1945年8月、長崎
 長崎の母子。長崎市で原子爆弾が炸裂した数日後に撮られた写真である。

AWM UK3128
1945年8月10日、英国ロンドン
 日本の降伏の申し出に歓喜する豪州人。彼らは豪空軍海外司令部が置かれたコダックハウスの民間人および空軍の職員である。降伏の申し出は長崎に世界で2番目の原子爆弾が投下された翌日の8月10日になされた。

AWM 113011
1945年8月14日、ヴィクトリア州メルボルン
 日本の正式な降伏についての信号を受信しようとしている情報省情報収集所の職員。東京から直接送られた降伏の通報は短波電話によって中継された。8月10日の降伏の申し出は天皇の大権を連合国が認めるという条件付であった。連合国は、降伏を受け入れる前に、連合国が任命する日本の連合国軍最高司令官に天皇と日本政府が従うことに日本が同意しなければならいと返答した。日本政府はこれに同意し、日本の降伏は1945年8月15日に発効した。

AWM P00444.098
1945年8月15日、太平洋グアム島
 連合国への日本の無条件降伏を告げる天皇の放送を聞き、涙を流す米軍の日本人捕虜。

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1945年8月30日、横須賀海軍基地
 タンノ・ユーゾー司令官から横須賀海軍基地の鍵を受け取る豪海軍のH.J.ブキャナン大佐。ブキャナン大佐は最初の英連邦軍上陸隊を率いて日本にやってきた。

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1945年9月2日、東京湾の米戦艦「ミズーリ」艦上
 豪州を代表して日本の降伏文書に調印しようとするサー・トーマス・ブレーミー将軍。ブレーミー将軍の後ろでマイクの前にいるのは在日本連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍。マッカーサー将軍の右に並んでいるのは豪陸、海、空軍を代表する3人の高官(フランク・ベリーマン陸軍中将、ウィリアム・ダウリング・ボストック空軍少将、G.D.ムーア海軍少将)。豪海軍の戦艦「シュロップシャイァー」、「ホバート」、「ワラマンガ」、「バターン」、「ニザム」、「ナピエー」が降伏の式典に参加するため東京湾に集まった。

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1945年9月2日、東京湾の米戦艦「ミズーリ」艦上
 日本を代表して降伏文書に調印する重光葵(しげみつ・まもる)日本外相。

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1945年9月、横浜 焼夷弾爆撃で破壊された横浜。
 この写真はR.ローリー中佐(南オーストラリア州アデレード出身)が撮ったものである。彼は1945年9月2日の米戦艦「ミズーリ」艦上での降伏文書調印式に参加した豪州代表団の一員であった。1944年6月から米軍の爆撃部隊は日本の主要都市と町の爆撃を開始した。日本は太平洋戦争中の戦死者を78万人と推定している。9ヶ月間の米軍のB29爆撃機による日本本土爆撃では80万6千人が死亡したと推定されている。300機のB29爆撃機による1945年3月9日から10日にかけての東京空襲では東京の4分の1の建物が焼け落ち、8万3千人が死亡し、百万人以上が住む家をなくした。1941年10月まで日本の首相であった近衛文麿は、「基本的には平和への決意をもたらした契機は長引くB29による空襲であった。」と後に語っている。

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1945年9月7日、横浜
 横浜の街路で絵を描く豪州政府任命の従軍画家ジョン・チャールズ・グッドチャイルド大尉。

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1945年9月8日、横浜
 豪州政府任命の従軍画家ジョン・チャールズ・グッドチャイルド大尉が撮った横浜の日本人家族の写真。写真の原題には、彼らの後ろの建物がこの都市の残るわずかの建物の一つであると記している。

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1945年9月8日、蘭領東インド(インドネシア)、ハルマヘラ諸島モロタイ
 多くの観衆が注視する中、豊島房太郎中将率いる第2軍の降伏文書に署名するサー・トーマス・ブレーミー将軍。この時、ブレーミーは次の一節を含む声明を出した。「君たちの降伏を受理するに際して、私は君たちを名誉ある勇敢な敵とは認めない。あらゆることにおいて、君たちは正当な、しかし、厳格な作法をもって取り扱われるであろう。私は豪州の同盟国である中国に対する卑怯な日本の攻撃を思い出す。私は1941年12月のイギリス帝国とアメリカ合衆国に対する卑怯な攻撃を思い出す。あの時、日本当局は我々との間の平和を保証するふりをしていた。私は戦争捕虜と抑留者になった豪州国民に降りかかった残虐行為を思い出す。それは、懲罰と飢餓とによって彼らの奴隷化を目的としたものであった。…」豪軍が関与した他の主要な日本軍の降伏式は、ニューギニアのウォム岬、ニューブリテン島ラバウル沖の豪海軍空母「グローリー」艦上で行われた。およそ34万4千人の日本兵がボルネオとラバウルで豪州軍に降伏した。

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1945年9月1日、シンガポール島シンガポール
 行進用のグランドで大きな整地用ローラーを引く日本人捕虜。後ろでは、豪第1落下傘大隊が9月12日のシンガポールでの日本軍降伏式の予行練習をしている。

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1945年9月12日、ニューギニア、キアリヴ
 参謀と看護兵に付き添われ、日本兵によって豪第2軍第6師団第17旅団司令部に運ばれる第18軍司令官安達二十三将軍。長距離を歩く健康状態にないと診断された安達が第18軍の降伏のためにここを訪れた。翌朝、彼は飛行機でヤミルからウエワクへ行き、ウォム岬飛行場で豪第6師団司令長官ホラス・ロバートソン少将に正式に降伏した。

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1945年9月13日、ニューギニア、ウエワクのウォム岬飛行場
 豪第2軍第6師団の将校に軍刀を手渡す第18軍の日本人将校。この日、ウォム岬飛行場で第18軍司令官安達二十三将軍は豪第6師団司令長官ホラス・ロバートソン少将に正式に降伏した。1944年10月の時点で、第18軍の日本兵は3万5千から4万人いた。1945年9月13日まで生き残ったのは13,500人であった。1944年10月から1945年8月の豪第6師団との戦闘の間におよそ9千人が戦死し、他の死者は病気と栄養失調によって死亡した。太平洋戦争の間、日本軍は2万人の軍属とともに30万人の兵士をパプアニューギニアとソロモン諸島に投入した。この内、1945年8月の終戦時に生存していたのはわずか12万7千人だけであった。

AWM P01881.001
1942年頃、中国紹興県
 真野五郎少将の肖像写真。写真の原題には、フィリピン、ガダルカナル、ニューギニアで従軍した少将は、太平洋戦争が正式終了し、日本の降伏後1年以上たった1946年10月に、ニューギニアのウエワクで降伏したと記されている。彼は1957年に亡くなった。彼が帯びていた軍刀は1450年頃に作られた名刀で、オーストラリア戦争記念館の収蔵品になっている。

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1945年9月18日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 他の日本軍傷病兵とともにヌマヌマ浜でトロキナへの移送を待つ不具の日本兵。この地域の日本軍司令官木島少将と降伏条件の交渉をするため、豪第2兵団司令部は部隊をブーゲンヴィルに派遣した。この写真は、この派遣部隊が当地に到着した直後に撮られた。1944年末期に豪軍は日本軍守備隊の兵員をおよそ1万8千人と推定した。降伏後、1944年11月には4万2千人の日本兵がこの島におり、1945年9月の降伏時にはこの内8,500人が戦死、9,800人が病気と栄養失調で死亡、23,571が生存していることが判明した。1944年11月から1945年8月にかけてのブーゲンビルでの戦闘では516人の豪州兵が死亡した。

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1945年9月19日、ソロモン諸島、ブーゲンビルのブカ島
 豪第2兵団が派遣した降伏処理隊による武器徴集を前に、日本軍将校所持の軍刀の目録を作り、名札を付ける日本海軍兵士。

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1945年9月23日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 豪第27歩兵大隊に護送され、トロキナ川南方の強制収容所に向けて行進する日本海軍兵士。

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1945年10月3日、ニューブリテン島、ラバウル
 豪第11師団司令部の周りで「豪州勝利国債」の広告板をつけて歩く日本兵。写真の原題には、彼は「豪州兵の戦争国債購入を促進している」と記されている。

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1945年10月24日、ボルネオ、ラブアン島
 ボルネオ沿岸ミリの日本軍守備隊の前司令官アイキョウ大佐の遺体。彼は1945年10月23日夜にラブアン捕虜収容所で自殺した。彼はテントの垂れ蓋を固定するのに使う針金を首に巻き、体重を増やすために折り畳んだ毛布を体に巻いて首を吊った。彼の遺体は一度降ろされていたが、この写真のために状況を忠実に復元できるよう元の場所に戻された。

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1945年10月11日、ボルネオ、ラブアン島第1捕虜収容所
 日本の第37軍補給担当将校土田少将を描く豪軍戦史局の政府任命従軍画家E.A.ダグラス・ワトソン中尉。

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1945年11月24日、ボルネオ、バリクパパン地区サマリンダ
 日本軍所属の3人の軍属看護婦。豪軍に降伏した日本軍の各種制服を例示するために豪州人が撮った一連の写真の1枚。

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1945年11月15日、ニューブリテン島、ラバウル
 日本兵の識別をするインド兵。彼は捕虜として日本軍のための労役に服していた。豪第11師団司令部戦争犯罪調査委員会は戦争犯罪容疑者を見付けるために特別に日本兵に行進をやらせた。容疑者の確認はこの際に行われた。

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1945年11月15日、ニューブリテン島、ラバウル
 日本兵の戦争犯罪容疑者の写真を撮る豪第11師団司令部戦史局の政府任命カメラマンR.ライス軍曹。これらの写真は、この地域の日本軍のために強制労働させられたインド人元捕虜が日本人犯罪者を確認した後に撮影された。

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1945年11月27日、ボルネオ、ラブアン島
 豪州兵士に銃剣術(剣道)の模範演技を見せるため防具を着た2人の日本人捕虜。

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1946年1月12日、蘭領東インド(インドネシア)、ハルマヘラ諸島、モロタイ
 この写真はハマナカ・キョウホ海軍少将の戦争犯罪裁判の際に撮られた。1945年6月19日にセレベス諸島北方のメナド付近で、豪空軍の一等兵1人と豪海軍の兵士1人の処刑を命じた罪で、ハマナカは起訴され有罪となった。判決後、減刑のために申し述べることはないかと聞かれた際、ハマナカは「この判決は自分と日本に対する陰謀に思える。」と熱弁した。

AWM 099844
1946年2月19日、ニューブリテン島、ラバウル
 豪州兵の監視下、弾薬を海に捨てる日本兵。

AWM NWA1047
1946年3月1日、北部準州ダーウィン、エマーリー岬
 ダーウィンの豪州戦争犯罪法廷に出席するW.コール大尉(ヴィクトリア州オークレー出身)。コール大尉は戦争犯罪で起訴された日本人捕虜の弁護人であった。ダーウィンの戦争犯罪裁判は豪州本土で行われた唯一の戦犯裁判であった。

AWM 125966
1946年3月4日、北部準州ダーウィン、エマーリー岬
 捕虜から情報を引き出すために使う「丸太責め」と呼ばれる拷問法を豪州戦争犯罪法廷で説明するサイキ日本陸軍大尉。

AWM P01420.001
1945年頃、ヴィクトリア州メルボルン
 豪陸軍女性軍務局のドリス・メリー・ヒース軍曹のスタジオ写真。ヒース軍曹はニューブリテン島ラバウルと東京で開かれた日本人戦犯裁判の際に通訳を務めた。

AWM P02289.002
1946年12月19日、東京
 東京戦争犯罪裁判でアメリカ人検察官T.F.E.マーネーン中佐の質問を受ける豪陸軍第8師団業務団のウィリアム・ヘクター・スティチプウィッチ准尉。スティチプウィッチ准尉は1942年2月15日にシンガポールで日本軍の捕虜となり、後に北ボルネオのサンダカン捕虜収容所に入れられた。終戦間際に、サンダカン捕虜収容所の捕虜はそこから260キロ離れたラナウへの移動のため、強制的に行進させられ、この間に大多数の捕虜が死亡した。1945年初期に生存していた2,500人と推定される豪州人と英国人捕虜の内、終戦まで生き残ったのはわずか6人の豪州兵だけで、スティチプウィッチ准尉はその1人である。東京戦犯裁判の際に、彼は日本軍による捕虜の虐待と拷問について、サンダカン捕虜収容所内で、またラナウへの行進の間とラナウ到着後に彼が目撃したことを証言した。彼の証言によってサンダカン捕虜収容所の元日本人監視兵数人が有罪と確定された。

AWM P02310.004
C1946年、シンガポール島チャンギ刑務所
 死刑執行直前に目隠しをされた日本人戦犯の首に縄をかける死刑執行人。豪州戦争犯罪裁判で宣告された判決の結果、148人の日本人戦犯が絞首刑か銃殺刑で処刑された。

AWM 306748
1948年頃、ニューギニア、アドミラルティー諸島マヌス島
 豪戦艦「タランガウ」の海岸基地で豪海軍戦犯収容所の建築土台を作るため、シャベルで穴を掘る日本人戦犯建設隊の隊員。戦犯を統率する豪海軍兵士とパプア警官隊隊員の姿が見える。戦争犯罪裁判で有罪となった644人の日本人戦犯の内、496人が豪州当局によって投獄された。

AWM 131649
1946年6月27日、宇品
 宇品引揚援護局の門をくぐるシンガポールからの日本人復員兵。門の両脇で英連邦占領軍(BCOF)の兵士が復員兵を監視している。豪軍が日本軍の降伏を受理した戦地からの日本の旧軍人と軍属の本国帰還については豪州が監督をしていた。門柱には「しっかりやりませう」(左)、「引揚者皆様御苦労でした」(右)と書かれている。

AWM 131485
1946年9月2日、東京
 靖国神社の鳥居の外で監視する英連邦占領軍(BCOF)の番兵。靖国神社は19世紀中期以来、国内国外の戦争で天皇のために戦い、戦死したすべての日本人の英霊を祭る神社である。



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