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日本軍の後退 ニューギニア、ボルネオ、南西太平洋
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)




AWM P01275.015
1943年3月3日、ニューギニア、ビスマルク海
連合国軍の空襲の直撃を受ける日本商船。この船はニューブリテン島ラバウルからニューギニアのラエまで第51師団の約7,000人の兵士を護送する増援軍船団の1隻であった。3月1日に米軍機が船団をビスマルク海で発見し、3月2日から5日にかけて米豪連合軍の飛行機が船団を攻撃した。この攻撃により全ての輸送船と護衛の8隻の駆逐艦の内4隻が沈没した。ビスマルク海の海戦の結果、連合国軍側にこの地区の制空権があることがはっきりとし、以後日本軍はニューギニアへの援兵輸送を潜水艦か舟艇で行うようになった。

AWM P01054.004
1943年3月22日、クイーンズランド州タウンズヴィル
豪軍第1無線部隊の隊員。彼らの任務は日本軍が仮名で送る無線を傍受することであった。

AWM 127971
1943年7月、ニューギニア、サラモア地区
豪雨の中で負傷した戦友ウィリアム・ジョンソン二等兵を支える第58・59大隊のゴードン・エアー軍曹(勲章受賞)。二人は連隊救援署に向かいアランズ渓流を渡るところであった。7月13日の日本軍の攻撃でジョンソン二等兵は手榴弾によって負傷したばかりであった。デミアン・パラーの映画「サラモアの攻撃」からのスチル写真で、ニューギニア戦に関する戦争記念館の収蔵品の中で最も有名な写真の一枚である。

AWM 015487
1943年8月10日、ニューギニア、タンブ山麓
タンブ山地区で日本軍陣地を攻撃中にミサの儀式を執り行うテオ・オキーフ神父(ヴィクトリア州キャンパーダウンの聖パトリック教会所属)。儀式はライフル、大砲、迫撃砲の騒音の中で執り行われた。

AWM 015517
1943年8月11日、ニューギニア、タンブ山地区
わずか55メートル先の日本軍陣地に向けて銃を撃つレズリー・グリーンウッド二等兵(クイーンズランド州ブリスベン出身)とケン・パンネル二等兵(クイーンズランド州ロックハンプトン出身)。

AWM 015834
1943年9月28日、ニューギニア、サラモア地区
サラモア背後の山奥で3人のオーストラリア兵士の葬式を執り行う豪従軍牧師イングリッシュ神父。戦死した3人はティンバードノールの日本軍陣地に向って進攻中であった。

AWM 015933
1943年9月、ニューギニア、ラエ付近
豪軍のラエ進攻中、放棄された日本軍の壕に入り、戦闘態勢を取るR.パーセル上等兵(ニューサウスウェールズ州グリーブ出身)とG.ビアードモア二等兵(ニューサウスウェールズ州バンクスタウン出身)。

AWM 015776
1943年9月、ニューギニア、ラエ
ラエの日本軍基地陥落の後、休息を取る西オーストラリア州とヴィクトリア州の部隊兵士。彼らが囲んでいる日章旗は、ラエの日本軍司令部に懸かっていた旗である。1943年9月、ニューギニア戦で豪軍は日本軍相手に多くの勝利を収め、サラモアの町(1943年9月11日)とラエの日本軍主要基地(1943年9月15日)を取り返した。

AWM 067336
1943年9月、シンガポールへの途上
「ジェイウィック作戦」の際、発動機船「クレート」に乗り込んだ「Z特殊部隊」の隊員。「クレート」は西オーストラリア州エックスマウス湾から出港した。9月26日から27日にかけての夜、攻撃隊を乗せた3隻のカヌーがこの母船を離れ、シンガポール湾に潜入した。そこで、攻撃隊は7隻の日本の船に吸着爆薬を仕掛けた。この写真で分かるように、隊員たちは出撃に備えて体に炭を塗っている。

AWM 127654
1943年11月2日、ニューブリテン島ラバウル、ヴナポポ沖
豪空軍爆撃機から落とされた爆弾によって沈没する日本軍の小型砲艦。

AWM 127618
1943年11月2日、ニューブリテン島ラバウルのシンプソン港
豪空軍の爆撃を受けるラバウル停泊中の日本船舶。この写真は、この攻撃の際、同軍の飛行機から撮られた。

AWM 060615
1943年11月17日、ニューギニア、サテルベルグ地区
前線包帯所に運ばれる第2/48大隊の豪軍負傷兵。この間、豪軍はこの地区の日本軍陣地に進攻していた。1943年9月のラエ陥落の後、フィンシハーフェンとサテルベルグを取り巻くフォン半島東端の日本軍陣地に対し、豪軍部隊は上陸作戦を展開した。日本軍の頑強な抵抗は、山中と半島北岸に沿って日本軍が完全撤退した1943年12月まで続いた。この戦闘で約3,000人の日本軍兵士が死亡し、5,000人以上が負傷した。

AWM 060259
1943年11月7日、ニューギニア、マーカム渓谷のファリア川地区
シャギーリッジの日本軍陣地に対する砲撃の戦果を見る豪軍砲兵隊の将校。

AWM 064260
1944年1月23日、ニューギニア、フィニステル山脈
シャギーリッジの攻防戦で日本軍が撃退された後、グリーン・スナイパーズ・ピンプルで穴を掘る豪軍第2/9歩兵大隊所属A中隊の兵士。1943年9月のラエ陥落の後、豪軍はマーカム渓谷まで進攻した。1943年10月から1944年1月にかけて、豪軍はマーカム渓谷上流と、歓喜嶺とシャギーリッジに沿うフィニステル山脈で日本軍の部隊と戦闘を重ねた。激しい戦闘の結果、1944年1月31日までに豪軍は日本軍をフィニステル山脈から撤退させ、山上からニューギニア北岸とマダンの日本軍基地を見下ろすようになった。

AWM OG0606C
1943年頃、ニューギニア
ニューギニア上空を飛行する三菱G4M爆撃機(連合国側では「ベティー爆撃機」と呼ばれた)の編隊。この写真は沿岸監視人によって撮られたと考えられている。沿岸監視人は、パプアニューギニアと近隣諸島の沿岸において豪海軍が指導する隠密作戦の要員であった。彼らの主な仕事は日本軍の動きを監視し、報告することであった。

AWM 306809
1943年3月、ソロモン諸島ニュージョージア島
目隠しをされ、カヌーでセギ沿岸監視所に連行される日本軍のパイロット。エンジン不調によってニュージョージア島に不時着したこのパイロットは、「ケネディーの偵察員」として知られる沿岸監視隊によって捕らえられた。この捕虜に同行する隊員は英国ソロモン諸島保護領防衛軍のドナルド・ケネディー大尉に訓練され、指揮された。

AWM 059285
1943年10月30日、ニューギニア、ホポイ
日本軍がニューギニアで使用する軍票に価値が無いことを示すため、軍票でパイプに火をつけるホポイ地区の首長ダフ。

AWM 053360
1943年7月1日、ニューギニア、ビシアタブ
木に描かれた日本軍兵士の像に向かってなたで攻撃訓練をする第1パプア歩兵大隊のマライサ伍長。この画像の日本軍兵士は、日本首相の名を取って「トージョー・ヒデキ将軍」と名づけられていた。

AWM 070744
1944年3月4日、ニューギニア、ケラノアー
第1パプア歩兵大隊A中隊のサラ伍長(勲章受賞)。この写真の原題には、「A中隊は1人の戦死者に対し、500人以上の日本兵を倒したジャングル戦の名手」と書かれている。サラ伍長自身も36人の日本兵を倒した功績が評価された。

AWM 071539
1944年3月19日、ニューギニア、シンゴルカイ
パプア歩兵大隊偵察隊の指揮官C.E.ビショップ中尉によって尋問される4人の日本人捕虜。

AWM OG0976
1944年4月頃、ニューギニア北東岸アイタペ地区
輸送を待つ間、裸でうずくまる日本人捕虜の一団。彼らはカロカ村に上陸した米軍部隊に捕らえられた。写真の原題は、「武器や手榴弾を隠す習慣があるため」、裸にされたと伝えている。

AWM 073489
1944年7月、ニューギニア、アイタペ
日本軍陣地を砲撃する豪海軍戦艦「アランタ」。

AWM 141757
1944年9月28日、ヴィクトリア州カールトン
攻撃をかけようと身構えている日本兵に扮した豪陸軍兵士。プリンセス運動場での軍隊祭の一幕。

AWM OG3366
1945年1月20日、ニューギニア、ウエワク地区
日本軍の燃料庫と武器集積所を攻撃するためウエワクに向かう豪空軍第100飛行戦隊のボーフォート爆撃機。

AWM 092600
1945年4月23日、ニューギニア、ウエワク地区
日本軍から逃れ、豪軍野外炊事場に整列するインド兵。英国インド軍の多くのインド兵が1942年2月のシンガポール陥落で日本軍の捕虜となった。日本軍はこれらインド兵捕虜を労働者とするためニューギニアと近隣の諸島に移送した。この写真のインド兵は、1944年12月から1945年8月にかけてニューギニア北岸のアイタペからウエワクに進軍した豪第2軍第6師団によって日本軍から解放されたと思われる。日本軍の過酷な処遇によって幾千のインド兵がニューギニアで死亡した。1943年5月にウエワクに移送された3,000人のインド兵の内、わずか210人だけが終戦後生還した。第6師団に救済されたインド兵の1人は、「我々はひどい病気に苦しみ、生きる望みを失っていた。我々の惨劇の渦中に現れた豪軍師団は我々にとって天使のようであった。」と書いている。

AWM 093237
1945年6月17日、ニューギニア、ウエワク地区
 コイギン道沿いの日本軍神社で発見された骨壷を調査する第2/4歩兵大隊の豪軍兵士。この神社からは4,000個の骨壷が発見された。これら骨壷は白檀で作られ、どれも日本兵の遺骨を収納していた。また、壷には戦死者の姓名、兵籍番号、階級、所属部隊名、死亡日が記されていた。

AWM 093459
1945年6月27日、ニューギニア、ウエワク地区
 シバラング山の坂道を進軍する際、火炎放射器で日本軍の掩蔽壕を攻撃する豪第2/8歩兵大隊のA.W.ビショップ二等兵。戦争末期のこの時期でさえ、ある豪軍兵士は次のように書いている。「砲兵隊は20分間に2000発の砲弾を日本軍陣地に打ち込んだ。私は一体全体誰がこの攻撃で生き延びられのるかと思った。しかし、集中砲火が止み、兵隊が攻撃を始めるや否や、奴は威勢良く戦いを挑んできた。奴が生き延び、我々の戦わねばならない相手がいかに手強いかを知らしめたことは、我々には驚きであった。」

AWM 093448
1945年6月27日、ニューギニア、ウエワク地区
 シバラング山の日本軍陣地攻撃の際、前線包帯所に避難させられた豪第2/8歩兵大隊のV.ライリー二等兵。1944年12月から1945年8月にかけてアイタペ・ウエワク間のニューギニア北岸と奥地で豪第2軍第6師団は日本の第18軍と交戦した。この戦争の最後の数ヶ月間に起こった戦闘で、1939年に設立され、中東、ギリシャ、クレタ島、パプアの戦闘に参加した第6師団は440人の戦死者と1141人の負傷者を出した。さらに145人が病没し、16,000人をはるかに超える兵士が熱帯病で入院した。

AWM 088062
1945年4月5日、クイーンズランド州カナングラ
 第3補強訓練大隊(ジャングル戦部隊)司令部の情報室内部。左側には日本軍の装備と武器の写真が見える。右には完全武装をした実物大の日本兵の人形がある。

AWM 079738
1943年3月9日、ブーゲンビル島パールリッジ
 25ポンド砲弾に厚紙の容器を入れる砲手R.ワーナー。容器には付近の日本兵に降伏を勧告する宣伝ビラが入っている。宣伝ビラは極東連絡局によって制作された。

AWM 077303
1944年11月28日、ソロモン諸島、ブーゲンビル島トロキナ地区
 掲示板上のホルダーに宣伝ビラを入れる豪第9歩兵大隊のD.L.ビルベック軍曹。この掲示板は豪軍偵察隊によって前線の日本軍地区に立てられた。掲示板の短文には次のように書かれている。「日本兵への知らせ。下の容器には降伏するためのビラが入っている。一枚取りなさい。それを小枝の端に付け、連合国軍の兵士なら誰に見せても、君は人間的な取り扱いを受けるだろう。」

AWM 079827
1945年3月23日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 日本兵捕虜を連行する第1ニューギニア歩兵大隊A中隊第5小隊の兵士たち。この捕虜はバララ東方の畑付近の小屋で捕らえられた。

AWM 090380
1945年4月26日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 集団墓地に日本兵の遺体を埋葬する豪第25歩兵大隊の兵士たち。これら日本兵はスレーターの丘の豪軍陣地を奪取しようとして失敗し、戦死した。

AWM 092543
1945年5月24日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 ブーゲンビル島北部ルリ川地帯のクナイ草が生える草原を移動する豪第26歩兵大隊D中隊の偵察隊。これら兵士はブカ通路地区から日本軍を掃討するための戦闘に加わった。

AWM 091961
1945年4月18日、ソロモン諸島、ブーゲンビル
 豪第2/1総合病院で負傷兵の傷に包帯を巻く豪陸軍看護局部のE.E.S.リセッ看護婦。この豪州兵は砲弾の金属片によって負傷した。

AWM 109146
1945年6月10日、ボルネオ、ラブアン島
 豪第2軍第2/43歩兵大隊の兵士に撃たれた日本軍狙撃兵の死体。ボルネオのタラカン島、ラブアン島、ブルネイ、バリクパパンを基地とする日本軍に対して、豪第2軍第7師団と第9師団が展開した攻撃は日本軍に対する豪軍最後の大作戦であった。ブルネイ湾沖ラブアン島の作戦はこの大作戦の一部で、1945年6月10日に第9師団の一部がラブアン島に上陸し、6月21日直後に日本軍の抵抗が止まるまで戦闘は続いた。

AWM 109139
1945年6月13日、ボルネオ、ブルネイ湾ラブアン島
 豪軍のラブアン島進攻の際、日本軍狙撃兵によって殺された豪軍兵士の墓。

AWM 109316
1945年6月13日、ボルネオ、ブルネイの町付近
 ブルネイの町を占領後すぐに、日本兵の死体から文書類を探す豪第2軍第2/17歩兵大隊の兵士。豪第2/1大隊と第2/15大隊は6月10日にブルネイ付近に上陸した。

AWM 109536
1945年6月17日、ボルネオ、ブルネイ付近
 川の向こう岸の原地民の村落にある日本軍陣地を銃撃する豪第2軍第2/2機関銃大隊B中隊第2小隊の兵士たち。村には400人の日本兵がいたと伝えられている。ラブアン島とブルネイ西方の上陸作戦後、豪軍の北ボルネオ攻略で日本軍はおよそ1,234人、豪軍は114人の戦死者を出した。

AWM 109216
1945年6月7日、ボルネオ、タラカン島
 旧日本軍占領地域から日本軍占領を思わせるすべてのものを取り除こうとしている豪軍第8戦争墓地部隊の兵士たち。彼らは日本の神社を壊し、道路の穴を埋める材料とするために神社の土台をばらばらにしている。豪第2軍第9師団の一部は1945年5月1日にタラカンに上陸した。タラカンでの日本軍の抵抗は激しく、豪軍の掃討作戦は8月15日の日本の降伏まで止まなかった。タラカン作戦で豪軍は225人の戦死者を出し、日本軍の死者は1,540人を超えた。わずかに252人の日本兵が8月15日の公式の降伏までに投降し、300人がそれ以降に投降した。

AWM 110987
1945年7月9日、ボルネオ、バリクパパン
 マッフル・フィーチャーの丘で捕らえられたばかりの日本人捕虜を連行する豪第2/2機関銃大隊C中隊の2人の兵士。太平洋戦争最後の大規模水陸両用作戦で、豪第7師団の一部は1945年7月1日、ボルネオ島バリクパパン付近に上陸した。8月15日の日本軍降伏までに、バリクパパンでの戦闘でおよそ1,783人の日本兵と229人の豪州兵が戦死した。

AWM 111060
1945年7月3日、ボルネオ、バリクパパン
 「戦車道」の傍らの丘に設けられた掩蔽壕に火炎を発射する豪第1機甲連隊の火炎放射戦車。この陣地の日本軍守備隊は一時豪第2/10歩兵大隊A中隊の進攻を食い止めた。

AWM P00043.019
1943年頃。ボルネオ、バリクパパン
 2人の日本人の子ども。この写真を含む一連の写真は、1945年7月1日、豪軍がボルネオのバリクパパンに上陸した後、日本兵から取り上げられたものであろう。

AWM 306770
1945年7月、豪重巡洋艦「オーストラリア」艦上
 日本の特攻機のプロペラと他の部品を運ぶ船員。1944年10月21日、フィリピンのレイテ湾の作戦中、「オーストラリア」は神風特攻隊員が操縦する戦闘機に体当たりされた最初の連合国軍船となった。「オーストラリア」艦上で30人が死亡または致命傷を負い、60人が負傷した。 後に「オーストラリア」は1945年1月6日から9日にかけて、フィリピンのルソンの作戦に従事した。その時は、5機の神風特攻機の攻撃を受け、44人の乗組員が死亡した。

AWM 121199
1945年8月8日、日本本土沖の海上
 日本沿岸の作戦中、豪戦艦「ニザム」艦上でボフォーズ40ミリ砲の部署につく就く豪軍水兵。



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