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第6部 豪州の日本人捕虜 1943年~1946年
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)



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1944年7月1日、ニューサウスウェールズ州カウラのカウラ捕虜収容所
 第12捕虜収容所日本人地区の食堂の外にある野菜畑。組写真の中の1枚であるこの写真は、豪州極東連絡局が日本軍占領下の太平洋諸島と、日本本土にばら撒くための宣伝ビラ用に撮られた。1944年中期には、およそ1,100人の日本人捕虜がこの収容所に収容されていた。

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1944年8月、ニューサウスウェールズ州カウラのカウラ捕虜収容所
 B区域第12捕虜収容施設そばの鉄条網に掛けられた毛布。日本人捕虜が脱走の際に使用した。1944年8月5日の深夜、集団脱走を図った日本人捕虜は、にわか仕立てのこん棒やナイフで武装し、収容所を囲む塀に殺到した。脱走に成功した捕虜の多くは次の数日間に再び捕らえられた。1,104人の日本人捕虜の内、234人がこの脱走事件で死亡し、108人が負傷した。豪州人の衛兵4人もこの時死亡した。(参照:AWM所蔵写真、番号068530)

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1946年2月21日、ヴィクトリア州メルボルンのメルボルン港
 日本船「弘栄丸」の窮屈な船内にいる日本人家族。「弘栄丸」は元日本海軍の機雷敷設船で、この当時も旧海軍の船員が乗務員として乗り込んでいた。この船は、太平洋戦争中に豪州国内に抑留された約2,800人の日本の民間人を本国へ帰すためにメルボルンに来航していた。

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1946年3月2日、ニューサウスウェールズ州シドニーのバルメイン
 1941年12月に日豪が戦争に突入して以後、最初にシドニー港に入港した日本商船「大海丸」。この船は第1埠頭に停泊するところで、およそ3,000人の日本の民間人と戦争捕虜を乗船させ、日本に帰還させることになっていた。

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1946年3月6日、ニューサウスウェールズ州シドニーのバルメイン
 台湾人抑留者を日本への帰還船である駆逐艦「宵月」に押し込もうとする豪州の憲兵。この抑留者は「自分は中国人で、日本人ではない。」と叫んでいる。

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1945年12月、南オーストラリア州バーメラ
 第14収容所(ラヴデイ収容所)14C居住区内にある日本人の納骨堂。納骨堂内には日本人抑留者がこの収容所で亡くなった同胞から取った髪の毛と爪を納めていた。棒の上に設けられた箱型灯篭は両面に麻布が取り付けられており、中に蝋燭が灯された。

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1945年12月、南オーストラリア州バーメラ
 第14収容所(ラヴデイ収容所)14B居住区内の簡易宿舎の外に置かれた下駄。日本人抑留者はいつも室内に入る前に履物を脱いだ。

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1945年12月、南オーストラリア州バーメラ
 第14収容所(ラヴデイ収容所)14C居住区内の円形演壇。毎日数人の日本人抑留者がここで竹笛や弦楽器を演奏していた。この写真の原題には、風に打たれてりんりんと心地よい音を奏でる長さの異なる竹とガラス片でできた吊り物(風鈴)のことを記している。

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1943年3月、南オーストラリア州バーメラ
 南オーストラリア州にある豪第14戦争捕虜及び抑留者収容所(ラヴデイ収容所)で亡くなった中山マツジローの遺霊に供え物をする日本人捕虜。



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