Australian War Memorial - About the AJRP

   
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日本軍の進攻
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)




帝国建設のための戦争 | 日本軍の進攻 | 攻撃されたオーストラリア | 日本軍の後退 | 日本軍下の豪軍捕虜 | 豪州の日本人捕虜 | 勝利と敗北

AWM P02107.004
1941年12月、ニューギニア、サラモア
日本軍によるパールハーバーでの米艦隊攻撃後、オーストラリアへ脱出するためサラモア飛行場でジュンカー31型機に搭乗する白人婦人と子どもたち。群集がこの脱出を見つめている。サラモアに残る白人の最後の脱出は、日本軍がニューブリテン島ラバウルに侵攻した直後の1月23日であった。

AWM 128121
1942年1月9日、ミクロネシア連邦トラック
ニューブリテン島とニューアイルランド島に侵攻する準備のためにトラック島に集まる日本船舶。この航空写真は、豪空軍第6飛行中隊のR.イェオワート大尉と彼の部下が操縦する特別装備のハドソン爆撃機マークⅥから撮られた。日本軍による両島の攻略は12日後に始まった。この1,405マイルに及ぶ偵察飛行は地上を基地とする豪空軍の飛行機では当時最長の飛行であった。

AWM 094652
1945年8月1日、ニューブリテン島、トル・プランテーション地区
トルで日本軍に虐殺された豪軍ラバウル防衛隊「ラーク・フォース」の兵士たちはこの墓地に埋葬された。1942年1月23日の日本軍によるニューブリテン島ラバウルの侵攻成功の後、豪軍防衛隊の一部は島の北岸・南岸に沿って脱出した。3月始め、約200人のオーストラリア人がトル・プランテーションの近くで日本軍に降伏した。この内150人が殺戮された。

AWM O69372
1942年4月12日、パプア、ポートモレスビー
戦艦「ローラバダ」が埠頭に着く際、手すりに群がるニューブリテン島を脱出した「ラーク・フォース」の兵士と民間人。彼らは1月24日の日本軍のラバウル侵攻後、海岸沿いに逃れた人々で、2ヶ月半後に南岸のパルマラルから同島を脱出した。全員で約400人のオーストラリア人がニューブリテン島を脱出する一方、約800人の豪軍ラバウル防衛隊「ラーク・フォース」の兵士が捕虜となった。後に彼らを日本へ移送する「モンテヴィデオ丸」がフィリピン沖で米潜水艦の魚雷によって沈没し、彼らの大部分が水死した。

AWM 013827
1942年12月12日、チモール島
豪第2/2か第2/4独立中隊の兵士であろう豪軍狙撃兵。チモールは「スパロー・フォース」として知られる豪軍防衛隊が日本軍に撃破された後、1942年2月23日に日本軍の手に落ちた。しかし、この第2/2独立中隊は後に第2/4独立中隊の増援を受け、1942年末から43年初めにかけて、同島から撤退するまでゲリラ戦を展開した。

AWM 127956
1942年4月、ニューギニア、ワウ
何日もの歩行の後、ようやくワウに近づいたパプアニューギニア人運搬人夫たち。パプアとニューギニアの戦闘では、連合国軍も日本軍も前線部隊への補給は原住民の運搬人夫に頼らなければならなかった。

AWM 157892
1942年5月7日、珊瑚海
珊瑚海海戦で米海軍艦上機による攻撃を受ける日本空母「祥鳳」。「祥鳳」は午前11時36分頃に沈没した。

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1942年5月7日、珊瑚海
珊瑚海海戦で連合国軍艦隊を攻撃する日本の爆撃機。この爆撃機は、豪巡洋艦「オーストラリア」の近くを掠め飛んでいる。「オーストラリア」に乗る海軍大将クレースの指揮下、東パプア沖を警戒する連合国海軍戦隊が日本軍の空襲をよくしのいだ結果、ラバウルからポートモレスビー攻略に向かう日本軍艦隊は引き返さざるを得なくなった。

AWM 025622
1942年7月、パプア、ポートモレスビー
日本機の接近を監視員が警告するや、部署に駆けつける豪軍高射砲要員。1942年7月21日までにニューギニアとラバウルの基地から発進する日本軍の戦闘機と爆撃機はポートモレスビーに70回以上の空襲を加えた。

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1942年7月24日、パプア、ポートモレスビー
ポートモレスビー空襲の際、水際の海上で炸裂する日本軍の爆弾。

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1942年7月24日、パプア、ポートモレスビー
ポートモレスビー付近の飛行場でカーティス・P40キティーホークの主翼に乗り、豪軍と米軍の整備員と話し合う豪空軍のR・A・グレイ軍曹。先にマレーで日本軍と戦ったグレイ軍曹は第75キティーホーク飛行戦隊の一員であった。この戦隊は1942年3月21日から4月3日にかけてポートモレスビーの空の防衛を担当した。この間、彼らは戦隊指揮官J・F・ジャクソンを含む12人のパイロットを失うが、およそ34機の日本機を撃墜した。

AWM 127962
1942年8月、ニューギニア、サラモア付近のヌクヌク
樹上の監視所で日本軍の動きを監視するニューギニア・ボランティア・ライフルズの要員。

AWM P00698.002
1942年8月9日、ソロモン諸島、ガダルカナルのサボ島沖
サボ島の海戦で沈没する豪軍巡洋艦「キャンベラ」。「キャンベラ」は8月7日に挙行された米軍のガダルカナル島上陸の際、上陸部隊を日本軍の海上の反撃から掩護する連合国艦隊の軍艦であった。「キャンベラ」は24発の砲撃を受け、航行不能となり、1942年8月9日に放棄され、同日午前8時頃、魚雷によって沈められた。

AWM 013286
1942年8月30日、パプア、ココダ道エオラ渓流
負傷したオーストラリア兵を運び、オーウェン・スタンレー山脈ココダ道の険しい坂を登るパプア人運搬人夫。当時、堀井富太郎少将率いる日本軍がイスラバ南方の豪軍部隊に激しい攻撃を加えており、険しい山道にもかかわらず、パプア人運搬人夫は負傷兵を迅速に前線から運び出した。オーストラリア人は負傷兵に対する彼らの介護を高く評価し、彼らを「縮れ毛の天使」と称えた。1942年8月、9月、10月のココダの攻防では、豪軍、日本軍ともに補給と負傷兵の撤退はパプアニューギニア人運搬人夫の輸送力に依存していた。

AWM 013288
1942年9月初め、パプア、オーウェン・スタンレー山脈ココダ道沿いイスラバ南方
イスラバの戦闘の後、ココダ道を撤退する豪第39歩兵大隊の兵士たち。1942年8月27日から29日にかけてイスラバで豪第39大隊と第2/14大隊がポートモレスビーを目指して山中を進む日本軍に激しい抵抗を挑み、日本軍の前進を阻んだ。

AWM 013289
1942年9月22日、パプア、メナリ
数週間にわたるココダ道での激しいジャングル戦の後、行進する第39大隊の兵士たち。堀井少将率いる南海支隊は、パプア北岸のゴナ上陸後、ココダ村に向かって進んでいた。1942年7月、この南海支隊に最初に遭遇した豪軍歩兵部隊が第39大隊とパプア歩兵大隊のパプア人兵士たちである。

AWM 026739
1942年9月、パプア、オワーズコーナー付近
豪砲兵隊第14野戦連隊の砲兵がイオリバイワ分水嶺の日本軍陣地に25ポンド砲を打ち込んでいる。1942年9月11日に日本軍はオーウェン・スタンレー山脈のポートモレスビー側に位置するイオリバイワに着いた。そこからは街の灯を望むことができたが、日本軍はさらに進むことをしなかった。9月28日にイオリバイワを攻撃した豪軍部隊は、日本軍がすでに陣地を放棄し、ココダ道に向かい撤退し始めたことを知った。

AWM 027010
1942年9月、パプア、オーウェン・スタンレー山脈ココダ道沿いの某所
ココダ道を撤退する日本軍部隊に接近しようとする偵察隊に指示を与える豪第3歩兵大隊指揮官A.G.キャメロン大佐。この偵察隊に捕らえられた日本軍兵士がココダ戦での最初の日本軍捕虜となった。

AWM 027076
1942年10月、パプア、オーウェン・スタンレー山脈ココダ道
豪軍の前進の際、メナリとエフォギの間で豪第3歩兵大隊に捕らえられた日本軍捕虜。この兵士がココダ戦で豪軍部隊に捕らえられた最初の日本軍捕虜の一人であろう。

AWM 013615
1942年11月19日、パプア、ココダの村落
ココダ地区で捕らえられた日本軍捕虜に語りかける豪軍将校。捕虜は多くの署名が入った日の丸の国旗を持っている。こうした国旗は出陣を祝う送別会で兵士に与えられた。署名は送別会に参加した人々が書き加えたものである。

AWM 013609
1942年11月19日、パプア、ココダの村落
立ち並ぶ日本軍兵士の墓標。その前には、子どものおもちゃの車が見える。これは、1942年7月、8月の日本軍進攻の際、一家が避難した時に捨てられたものである。

AWM 026629
1942年9月、パプア、ミルン湾
飛行場に着陸する豪空軍第75か第76飛行戦隊のキティーホーク戦闘機。傍らでは豪砲兵隊に所属する第2/9軽高射砲部隊要員がボファーズ40ミリ高射砲の部署についている。ミルン湾の戦闘の際、豪軍のキティーホークはこの飛行場を離陸し、湾北岸の日本軍陣地を攻撃した。進撃してくる日本軍との距離が時としてあまりに接近していたため、キティーホークは周辺の椰子の木の上に出るや否や射撃を始めなければならなかった。

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1942年10月1日、パプア、ミルン湾北岸の某所
使用不能となった日本軍の上陸用舟艇を調べる豪軍兵士。この舟艇は、1942年8月25日の夜から26日未明にかけての日本軍のミルン湾上陸の際に使われた。日本軍の上陸用舟艇と陣地は、8月26日の朝から湾南方の飛行場を基地とする豪空軍第75、第76飛行戦隊のキティーホーク機によって激しい攻撃を受けた。

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1942年9月、パプア、ミルン湾
日本軍の小型戦車を調べる豪軍兵士。この戦車は、1942年8月25日の夜から26日未明にかけての日本軍のミルン湾侵攻の際に使われた。日本軍は湾北岸沿いに第3滑走路周辺まで進み、そこで豪軍の反撃に押し返された。日本軍は9月4日、5日、6日の夜にミルン湾から撤退した。総勢2800人の日本の上陸軍の内、約750人がミルン湾で戦死した。豪軍は373人が戦死、または負傷した。ミルン湾の戦闘は太平洋戦争の陸上戦では日本軍最初の敗北であった。

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1944年2月12日、パプア、ミルン湾
ターンブル飛行場北側の中程に置かれた石塚を調べる2人の豪軍兵士。この石塚は、1942年8月30日夜にミルン湾を攻略中の日本軍が進んだ一番西側の地点を示している。石塚にかかる表示板によると、この石塚はターンブル飛行場を守って戦死した豪第7と第18歩兵旅団の兵士を慰霊する記念碑として建てられたという。さらに、石塚は飛行場攻撃の際に戦死した85人の日本海軍陸戦隊戦士の墓であることも示している。

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1942年9月、パプア、ミルン湾
パプアニューギニアの豪州行政当局から表彰されるミルン湾の原住民の一団。1942年8月25日から9月6日にかけてのミルン湾の戦闘では、彼らは豪軍のために忠実に働いた。左にいる女性は、キリスト教伝道団で訓練を受けた看護婦のマイオグ。彼女は豪空軍の上等兵J.F.ドネガンの命を救った。深い傷を負ったドネガンを見つけた彼女は、彼を看護し、日本軍の目から彼をカヌーの下に隠したこともあった。報奨として彼女は、自転車、サングラス、パプアの伝統的スカート「ラミス」を作るための7ヤードの布地、1箱のアスピリンを選んだ。

AWM 013814
1942年12月11日、パプア、ゴナ
傷に包帯を巻いてもらっている豪軍将校。彼は日本軍陣地からわずか数メートル離れた地点で負傷したまま8日間横たわっていたが、日本軍から見つかることなくようやく安全地点まで這い出ることができた。

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1942年12月、パプア、ゴナ
1942年12月18日、ゴナの日本軍拠点陥落後、傷の治療を受ける日本兵。彼らは、1942年12月18日に行われた豪軍最後のゴナ攻撃の際に負傷した。11月19日から12月9日にかけて豪軍は頑強に守られたゴナの日本軍陣地に攻撃をしかけた。この結果、双方に多数の死傷者が出た。ゴナ陥落の後、戦死した638人の日本の防衛隊員の遺体がこの地に埋葬された。

AWM 013952

AWM 013965

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1942年12月28日、パプア、ブナ
これら3枚の写真は、椰子の木に隠れる日本軍狙撃兵を射撃する豪ブレン銃の射手、射撃を受けた後の椰子の木、椰子の木の根元に倒れる日本軍狙撃兵の死体を写している。ブレン銃の射手の攻撃法は、先ず椰子の木の上から2メートル程の場所に数回弾を撃って木の幹を弱めておく。すると、狙撃兵の体重で木が折れ、狙撃兵は18メートル下の地上に墜落して死ぬことになる。

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1942年1月2日、パプア、ブナのギロパ岬
ブナの日本軍陣地に最後の攻撃をかける豪軍。「スチュアート将軍」型戦車が日本軍の防御陣地を砲撃している。豪軍は、1942年12月18日、日本軍のブナの拠点に攻撃をしかけた。米軍のそれまでの攻撃は失敗に終わっていた。先の豪軍のゴナ攻撃同様、ブナ攻撃は敵味方双方にとって多大な損失を出した。わずか16日間で、豪第18旅団は55人の将校、808人の兵士の死傷者を出し、内22人の将校、284人の兵士が戦死した。日本軍のブナ防衛隊で生存したものは、捕虜となったわずか9人だけであった。

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1942年1月14日、パプア、ブナのギロパ岬
破壊されたブナの防御陣地の前に横たわる日本軍戦死者。地面を掘ってココナツ材で覆った日本軍の防御陣地は、守備隊員の最後の1人が倒れるまで敵の攻撃を持ちこたえた。

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パプア、ブナのエンダイアデラ岬
日時の記載は無いが、1943年1月の最初の数日中にブナで撮られた写真であろう。5枚の写真は脱出中に自殺した日本軍兵士を写している。豪軍が日本軍陣地に侵入した際、4人の日本兵が一目散に駆け出し、海中に入っていった。彼らは降伏を勧告されたが、3人はそのまま泳いで逃げようとしたので射殺された。4人目の日本兵は水中を歩いて浜側に戻り始めた。しかし、この日本兵は波打ち際から10メートル程の所へ来た時、手に握った手榴弾を見せた。手榴弾を頭に当てるや、彼は粉々に吹き飛んだ。

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1943年1月、パプア、サナナンダ道
水浸しの壕にいる豪第2/7騎兵連隊の兵士。敵陣地に向かって進む彼らと敵陣地との距離は30メートルもなく、この写真を撮ったカメラマンは日本軍兵士の話し声が聞こえたという。

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1943年1月、パプア、サナナンダ
髭剃り用の鏡を見せるクイーンズランド州ブリスベーン出身の騎兵フレッド・ビール。サナナンダ付近の戦闘の際、日本軍の銃弾がこの鏡に当って弾道が外れたため、彼は命拾いをした。

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1943年1月、パプア、サナナンダ地区
サナナンダの戦場から負傷した連合国軍兵士を担架で移送するパプア人人夫。1942年11月から1943年1月のパプア北岸ブナ、ゴナ、サナナンダでの日本軍に対する攻撃で、連合国軍、豪軍、米軍の兵士は補給品の搬入と負傷者の前線からの移送のためパプア人運搬人夫の力に大いに依存した。

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1943年1月、パプア、サナナンダ地区
射殺したばかりの日本軍兵士を調べる2人の米軍兵士。この日本兵は豪軍の弾薬輸送部隊に発砲を続け、降伏するよう求めれても従わなかった。

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1942年11月から12月、パプア、ゴナ付近
豪州情報局のカメラマン、ジョージ・シルク。1942年11月から1943年1月にかけて、シルクはココダ村とパプア北岸のブナ、ゴナ、サナナンダの戦場で豪軍と日本軍の戦闘をテーマとした多くの写真を撮った。

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1943年初め、パプア、ポートモレスビー
豪第2/9総合病院のテント張りの病室。1942年7月から1943年1月にかけてのココダの戦闘とブナ、ゴナ、サナナンダでの戦闘で負傷した兵士の多くがこの病院で手当を受けた。瀕死の重傷を負ったものはこの病院で死んでいった。ここは豪軍看護局の看護婦が勤務する場所としては最もパプアの戦場に近かった。 特別な病室では同じ戦場から運ばれた日本の負傷兵も豪軍看護婦と医師の手当を受けた。1942年と1943年のパプアの戦闘で13,000人以上の日本兵が戦死または病没したと推定されている。この戦闘で2,165人の豪軍兵と671人の米軍兵が死亡している。



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