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日本軍下の豪軍捕虜
リチャード・リード著 (Haruki Yoshida訳)




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1942年9月、シンガポール島セララン兵舎の病院区域
 ここに見られるひどい混雑は、逃亡をしないという誓約に署名しなかった捕虜を、人数が多すぎるにもかかわらず、兵舎に押し込めたからである。1942年9月2日、豪州兵2人を含む4人の捕虜が逃亡を図ったために銃殺された。この事件の後、豪州人1,900人を含む15,400人以上の捕虜が3ヘクタール少し超えるばかりのセララン兵舎に収容された。水道の蛇口は2つしかなく、食事は元の3分の2に切りつめられた。それにもかかわらず、捕虜は逃亡しないという誓約書に、日本軍当局の命令が出ない限り、署名しようとしなかった。まもなく日本軍から誓約書署名の命令が出され、9月5日、捕虜は元の収容地区に戻ることを許された。日本軍に対する捕虜の抵抗は「セララン兵舎事件」として知られている。

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1945年頃、ビルマ・タイ鉄道
 1942年から1943年にかけてビルマ・タイ鉄道を建設するため英国人と豪州人捕虜作業班を貨車でシンガポールからタイに輸送した。この写真はその貨車の一例。一両に30人から40人を詰め込み、幾千の男たちが北方に移送された。貨車の進行はたいへん遅く、平均で4昼夜から5昼夜もかかる苦しい旅であった。

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1943年頃、ビルマ、ロンシ
 ビルマ・タイ鉄道の線路を敷く連合国軍捕虜。これらの捕虜の内の何人かは明らかに豪州兵で、シンガポール、あるいはシンガポール経由でジャワから鉄道の北端部へ連れてこられた「Aフォース」・「ウイリアムズ・フォース」・「黒フォース」・「第5団」の隊員であったと思われる。鉄道は、ビルマ・タイ路線の両端、即ちビルマのタンビュザヤットとタイのバンポンから同時に建設工事が進められた。この鉄道を建設するために日本軍は、およそ61,000人の連合国軍捕虜(英国人31,000人、オランダ人とオランダ領の欧亜混血人やインドネシア人18,000人、豪州人13,000人)、さらに25万人以上のアジア人労働者を使役した。

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43年頃、ビルマ、ロンシ
 日本帝国陸軍の死者を弔う日本兵。ロンシはビルマ・タイ鉄道のビルマ側の起点タンビュザヤットからおよそ60キロのところにあった。日本の技術者は鉄道建設の責任があり、工事はビルマ側で1942年9月に、タイ側で同年10月に始まった。両線路は1943年10月16日にタイのコンコイタで繋がった。およそ13,000人の日本人技術者と監視兵のうち1,000人ほどが亡くなった。

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1943年頃、ビルマ、ロンシ
 ビルマ・タイ鉄道の盛り土を築く捕虜。日本の技術者は約420キロの線路の土塁を築くために土砂400万立方メートル分の土木工事が必要であると見積もった。300万立方メートルの岩が運ばれ、総計14キロメートルにわたる架橋工事が行なわれた。連合国軍の捕虜とアジアの労働者は原始的な機材と手持ちの道具を使ってすべての作業をやってのけた。

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1943年頃、ビルマ、ロンシ
 ビルマ・タイ鉄道での捕虜の葬儀。14ヶ月以上にわたる鉄道の建設工事で61,000人の捕虜の内およそ12,400人(英国人6,318人、オランダ人2,490人、豪州人2,815人)が命を失った。彼らの大多数は栄養失調、病気、日本人と朝鮮人監視人による虐待で死亡した。タイのヘルファイアー峠での切削工事の際には、68人(推計)の豪州人捕虜が殴り殺された。

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1943年頃、ビルマ・タイ鉄道
 ビルマ・タイ鉄道沿いの捕虜収容所にある病院の切断手術用病室。病院といっても竹造りの小屋である。捕虜の手足の切断は、主に鉄道建設作業中に受けた外傷が化膿し、治療しようのない熱帯性潰瘍として広がっていった結果による。

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1945年、タイ
1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の間、捕虜監視兵を務めたオカダ伍長。オカダは「死の医者」として知られた。彼の虐待方法の一つは、病気と報告した捕虜を木刀で殴ることであった。終戦後、彼はその残虐行為により戦犯として裁判にかけられ、処刑された。

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1945年、タイ、ナコムパットン
病院の小屋にいるやせ衰えた原地民の患者。1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の際、およそ27万人のアジア人労働者が、日本軍によってビルマ、インドネシア、マレーその他の地域からほぼ強制的に連れてこられた。彼らの収容所の環境は劣悪で日本軍から提供される医療品も無いに等しかった。その結果、彼らの内72,000人が死亡したとされるが、死者はさらに多く92,000人に上るという別の調査もある。

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1944年頃、タイ、タマルカン
 1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設の際に亡くなった人々を慰霊するために日本軍によって建てられた記念碑。台座の四隅の大理石の石板には英語、オランダ語、日本語、もう一つの不明言語で碑文が刻まれている。記念碑は石でできており、ミモザ、バラ、チューリップの紋章、さらに米国を象徴する紋章が刻まれている。この写真は、各国の捕虜、日本兵、タイ市民が参加した記念碑の奉献式の際に撮られた。式辞を述べたのは、日本の司令官(誰であるかは不明)と豪第2軍第2/3歩兵大隊のG.E.ラムゼイ中佐であった。日本軍司令官は鉄道建設の仕事を称えると同時に厳しい労働によって多くの生命が失われたことを悲しんだと伝えられている。

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 愛機の傍らに立つ豪空軍第22航空戦隊ウィリアム・エリス・ニュートン大尉(ヴィクトリア・クロス受勲)の肖像。ニュートン大尉は、1943年3月17日、ニューギニアのサラモア上空で日本軍に撃ち落とされた後、捕虜となった。しかし、捕虜の身分が保証されるべきなのに、1943年3月29日に彼を捕らえた日本兵たちによって斬首された。

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1943年10月24日、ニューギニア、アイタペ
 体を縛られ、目隠しをされた斬首刑直前のM特殊部隊L.G.シフリート軍曹。通信士のシフリート軍曹は、ニューギニアの日本軍の背後で活動するオランダ人スタヴァーマン軍曹に率いられた長距離偵察部隊の一員であった。この一隊は裏切りに遭い、スタヴァーマンは殺され、シフリートと2人のアンボン人協力者レハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行され、アイタペの日本海軍基地司令官カマダ中将の命令で斬首形に処された。この写真の元の書き込みによると、日本軍の処刑執行人は終戦前に死亡したヤスノという兵士である。シフリートは満潮線よりも低いアイタペの浜辺に葬られたので、彼の遺体はその後発見されることはなかった。日本兵によって撮られた彼の処刑の写真は、1944年、米軍がホーランジアに侵攻した際に見付けられた。日本軍の捕虜取り扱いの残虐性を例示するため、シフリートの処刑写真は、その後すぐにアメリカの出版物、さらに豪州の出版物に紹介された。豪州では長年この写真は、1943年3月29日にニューギニアのサラモアで処刑された豪空軍のニュートン大尉(ヴィクトリア・クロス受賞)を写したものと説明されてきた。

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1944年9月15日、南シナ海
 沈没した日本の輸送船「楽洋丸」から、米軍潜水艦上に救出されたオイルまみれの英国人と豪州人の捕虜。捕虜をシンガポールから日本へ移送中の「楽洋丸」は、1944年9月12日、海南島沖でこの潜水艦の魚雷攻撃を受けた。9月13日から17日にかけて、米軍の潜水艦は、80人の豪州人を含む141人の生存者を引き上げた。これらの豪州兵捕虜の大半が1942年から1943年のビルマ・タイ鉄道建設に従事しており、豪州に帰還した彼らは鉄道建設に関わった捕虜の悲惨な状況と高い死亡率についての最初の真実を伝えることになった。

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1944年9月16日、「広島捕虜収容所第9分所」(山口県小野田市)
 大浜収容所に収容される捕虜364号を写した日本軍の捕虜認識写真。この捕虜は豪第2軍第2/19大隊のチャールズ・エドワード二等兵で、彼は1942年1月22日、彼の部隊がマレーのミュアーの戦闘に加わった直後、ダリットスロング付近で捕らえられた。

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1944年8月21日、ヴィクトリア州メルボルン
 メルボルンのエリザベスハウスにある捕虜親族協会で海外放送の伝言コーナーに申し込むため、申請書類の書き方を尋ねるM.フォスター夫人。彼女の息子は、1942年3月1日にスンダ海峡の戦いで日本軍に沈められた豪海軍軽巡洋艦「パース」の乗組員であった。「パース」の全乗組員の内、357人は船とともに沈み、320人が生存して捕虜となった。生存者もその後終戦までに106人が捕虜のまま死亡し、一部の者はビルマ・タイ鉄道建設に従事中死亡した。「パース」の乗組員は公式記録には「戦闘中に行方不明」と記された。そのような状況の中で不安な親族は、彼らの愛すべき者の運命を知るべく、しばしば豪州赤十字に協力を仰ぎ、電波で伝言を送り、情報を求めた。H.D.フォスター機関士は1942年3月1日に「パース」艦上で死亡していた。

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1942年12月末から1943年初頭、「東京捕虜収容所第4分所」(新潟県直江津)
 豪州人捕虜によって開かれた演劇会。この演劇会は、1942年12月12日に彼らがシンガポールから直江津に到着して以後、まもなく開かれた。この写真の元の書き込みには、この演劇会について次のように記している。「日本人は、一部の場面は日本人をからかうものだと思い(実際そうだったのだが)、これ以後の演劇会を禁止した。何人かの捕虜は、演劇会の後、激しく殴られた。(この中には、ジョン・ルイスの兄弟W.C.ルイス二等兵も含まれている。)」

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無年記、「東京捕虜収容所第4分所」(新潟県直江津)
 収容所の厳しい環境の中、一息いれる豪州人捕虜。1942年12月、シンガポールからロバートソン中佐率いる「Gフォース」の豪州人捕虜300人が直江津に到着した。最初彼らの処遇は良かったが、1943年2月に収容所に新しい所長が来てから、彼らは食糧不足、殴打、虐待といったビルマ・タイ鉄道建設に従事した捕虜と同様の状況に耐えなければならなかった。1942年に到着した300人の捕虜の内、60人が死亡した。戦後、収容所所長のオオタ・ナルミ中尉と数人の監視員は残虐行為と殺人罪によって戦争裁判にかけられた。ある者は懲役刑となり、シバノ・タダオ軍曹を含む8人の監視員が絞首刑となった。

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1944年12月25日、「東京捕虜収容所第4分所」(新潟県直江津)
 クリスマスのパレード。右に見える日本人将校は収容所所長のオオタ・ナルミ中尉。シバノ・タダオ軍曹(「牛のシバノ」)を含む3人の日本兵にはラベルが貼られている。1942年12月、シンガポールからロバートソン中佐率いる「Gフォース」の豪州人捕虜300人が直江津に到着した。最初彼らの処遇は良かったが、オオタ中尉の指揮下となった1943年2月から、彼らは食糧不足、殴打、虐待といったビルマ・タイ鉄道建設に従事した捕虜と同様の状況に耐えなければならなかった。1942年に到着した300人の捕虜の内、60人が死亡した。戦後、オオタ中尉と数人の監視員は残虐行為と殺人罪によって戦争裁判にかけられた。ある者は懲役刑となり、シバノ・タダオ軍曹を含む8人の監視員が絞首刑となった。

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1943年頃、新居浜
 「広島捕虜収容所第2分所」の営倉内にある独房の一つ。

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1945年9月26日、日本沿岸
 日本の捕虜収容所から解放された後、故郷へ向かう豪海軍軍艦「スピーカー」に乗り込んだ豪州人元捕虜。日本の海岸線に向かって親指を上げて見せるのは、豪第2軍第2/20大隊のD.R.アボット軍曹。

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1945年9月15日、ボルネオ、サラワクのクーチン
 リンタン捕虜収容所内「オーストラリア・ハウス」の典型的な捕虜用ベッド。「オーストラリア・ハウス」はイギリス人捕虜を収容する施設の一角にあり、日本軍の捕虜となった豪州軍部隊の兵士が住んでいた。終戦当時、およそ150人の豪州人捕虜がクーチンにいた。彼らの大部分は1942年にボルネオに移送された豪州人捕虜集団(「Bフォース」兵士1,496人と「Eフォース」兵士500人)から分離された豪軍将校であった。

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1945年9月18日、ボルネオ、サラワクのクーチン
 クーチン付近のリンタン捕虜収容所の所員であった日本兵。後列左からサイトウ・キヨシ、タケタ・マサジ、イマガワ・マサムネ、オカムラ・ソウイチ、スズキ・ノボル、オカムラ・セイジ、前列左からイマバヤシ・タッショク、ハセガワ・タケオ、ウメモト・カネヨシ、オカムラ・ヨシアキ、ヒロタ・サダジ、トミバヤシ・テルオ。

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1945年末、シンガポール
 イギリスの従軍記者に自らの体験を語る豪軍兵と連合国軍兵の元捕虜。彼らはスマトラ島パレンバンの捕虜収容所から解放されたばかりであった。1945年5月まで、ムロとチャングワの学校と飛行場にあったパレンバンの捕虜収容所には小人数の豪州人捕虜がいた。彼らの大半は1942年初めにシンガポールから脱出し、後にシンガポール南方の諸島で捕らえられた将校である。1945年までにこれらの捕虜収容所では食事が極端に減らされた。豪州の公刊戦史には、「カタツムリ、ネズミ、猫、犬、イグアナなどみな食べた」と記されている。

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1945年9月16日、タイ、バンコク
 バンコク赤十字病院の階段に坐る豪第2軍第2/20大隊のR.C.クイントン二等兵。クイントン二等兵はタイで日本軍の捕虜となっていた時に片足を失った。彼の義足は、ナコムパトンの戦争捕虜病院で豪第2/12野戦中隊のR.ウィルストンクラフト軍曹が作ったものである。

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1945年9月18日、タイ、バンコク
 「ジャップのオムツ」とあだなされた褌を見せる豪第2軍第8師団の3人の元日本軍捕虜。捕虜が作業班にいる間、日本軍から支給された唯一の衣服がこの下着であった。捕虜はしばしば素足で働き、もし元の豪州兵の帽子をなくしたなら、米袋を使って帽子らしい物を作らなければならなかった。

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1945年9月13日、ニューサウスウェールズ州シドニー
 日本から帰還後、まもなく家族に別れを告げる豪陸軍看護部の4人の看護婦(左からケイ・“ツッティー”・パーカー大尉、ローナ・ホワイト中尉、デイジー・キースト中尉、メイヴィス・カルン中尉)。彼女らは健康診断のために豪第113総合病院へ向かう途中である。1942年1月22日にニューブリテン島ラバウルが陥落した際、看護婦は進攻してきた日本軍に捕らえられた豪州陸軍要員の最初のグループであった。もう2人の豪陸軍看護局部の看護婦とともに、7人の民間人看護婦、4人のメソジスト伝道団の看護婦、1人の民間人主婦が1942年7月に日本に移送された。

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1945年8月27日、中国、海南島バクリ湾
 ハイチョー付近の日本軍捕虜収容所で汲み取り桶を空にする豪第2軍第8師団第2/21大隊の2兵士(写真の原題ではこの2人を兵籍番号VX2700のD.T.ヌーナンとVX20199のR.フィシュフィックと身元を確認している)。彼らは、1942年2月にアンボン島で日本軍に降伏し、1942年10月にそこから海南島に移送された263人の「ガル・フォース」の隊員である。海南島の捕虜収容所の環境は劣悪で、81人の豪州人捕虜が栄養失調、過労、殴打によって死亡した。

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1945年9月8日、インドネシア、ハルマヘラ諸島のモロタイ島
 豪海軍戦艦「グレネルグ」によってアンボン島からモロタイへ移送され、担架で岸に運ばれる豪州人元捕虜。彼らは1942年2月に日本軍に捕らえられた「ガル・フォース」の隊員である。終戦までアンボンの捕虜収容所にいたこれら捕虜の内、77パーセントが栄養失調、疾病、残虐行為によって死亡した。また、中国の海南島に移送された他の「ガルフォース」隊員の内、31パーセントが死亡した。

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1946年1月3日、アンボン島タントエイ
 タントエイ捕虜収容所で死亡した豪州人捕虜の墓。最初は新しい墓の標識として十字架が立てられたが、終戦に近づくにつれ、アンボンで生き残った捕虜は余りにも体が衰弱し、きちんとした墓を掘ることができなくなった。これらの浅く掘られた墓には、木の棒が立てられ、亡くなった捕虜についての詳細を刻んだブリキ板が付けられた。

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1946年12月12日、ボルネオ、パギナタン
 “ブレイ未亡人”のついての話を記録する英豪連合功労審査会の面々。日本軍がボルネオを占領していた1945年、サンダカンとラナウ間の死の行進の途上にあった豪州人と英国人捕虜をブレイは助けた。この行進の間とラナウ収容所に到着後に数百人の捕虜が死亡した。また、サンダカンの捕虜収容所でも数百人がすでに死亡していた。1943年の中期に生存していたおよそ2500人の豪州人と英国人捕虜の内、終戦まで生き抜いたのはわずか6人の豪州兵であった。

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1917年頃 写真館で撮ったレイモンド・ホラス・コーカー兵長(1900年~1945年)の写真。
コーカーは16歳で1917年2月17日に豪第1軍に入隊し、第2軽鉄道運営大隊の兵士としてフランスで従軍した。彼は1940年7月20日に40歳の年で、今度は豪第2軍に入隊し、第8師団第4自動車輸送予備隊に属して戦った。彼は1942年2月にシンガポールで日本軍の捕虜となり、ボルネオのサンダカン捕虜収容所に送られ、1945年5月7日にそこで亡くなった。1943年の中期にサンダカンで生存していたおよそ2,500人の豪州人と英国人捕虜の内、終戦まで生き抜いたのはわずか6人の豪州兵だけであった。

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1945年10月26日、ボルネオ、サンダカン捕虜収容所
 サンダカンの元日本軍捕虜収容所で半ズボンのベルトに書かれた名前と連隊番号を、E.K.ロバートソン中尉に対して読み上げる第3豪州捕虜連絡調査隊のG.M.クックス大尉。彼らの周りにある物品はこの捕虜収容所で見つかったもので、どれも収容所内やサンダカン・ラナウ間の行進中に、またラナウ到着後に死亡した豪州人と英国人捕虜の身元を示す名前と番号が記されている。

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1945年9月17日、ニューブリテン、クルライヤマ
 戦中、日本軍が営むニューブリテンのインド人捕虜収容所にいた元捕虜H.K.ダス中尉。ダス中尉は、捕虜であった時に運ばされたのと同様の大きな丸太を運んでみせている。この将校は、部下が食料を盗むのを日本兵に見つかった時、いつもかばおうとした。このため、彼はしばしば日本兵に殴られ、監視兵に蹴られた時は足首の骨が折れたこともあった。

AWM 044480
1945年10月、シンガポール
 豪第2/10と2/13総合病院、及び第4負傷兵応急手当所に所属する豪陸軍看護局の看護婦。彼女らはスマトラからシンガポールに着いたばかりである。看護婦たちは1942年2月に汽船「ヴァイナー・ブルーク」に乗船し、シンガポールを脱出したが、「ヴァイナー・ブルーク」はインドネシアのバンカ島沖で日本軍に沈められた。船の沈没とそれに続く日本軍の虐殺を経て、32人の看護婦が生き残った。彼らは終戦までを環境の著しく劣悪な幾つかの日本軍捕虜収容所で暮らした。その内、8人が病気で死亡した。シンガポールに到着した時、彼女らはまだ元の看護婦の制服を着たままであった。

AWM P01662.013
1945年10月、福岡県大牟田
 大牟田の福岡第17捕虜収容所に収容されていた連合国軍将校のために三井男爵が開催したパーティー。大牟田は九州地方の製造業の町である。左から三井男爵、豪軍医療隊のリチャード・パーカー大尉、オランダ軍のC.ハメル従軍牧師、米軍医療隊のテオドール・ブロンク中尉、豪軍のスコッティー・ホーウェル、オランダ軍医療隊のゲリット・ブラス中尉。三井男爵は三井財団の頭首であり、豪州人、オランダ人、米国人、英国人からなる連合国軍兵捕虜は三井の所有する炭坑で働かされていた。

AWM 099926
1946年3月16日、ニューブリテン、ラバウル
 ラバウルで日本軍の捕虜となっていた間に亡くなった中国人強制労働者の墓。死亡した653人の中国人の内、259人がこの中国人墓地に改葬された。

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無年記ながら、1945年8月15日の日本軍降伏の数週間後、バタビア
 カンポン・マカサー病院で死にかけている子ども。この写真の元の書き込みは、カンポンマカサーについて「一万人の[日本軍に捕らえられた]女子どもの収容者が0.5平方マイル以下の敷地に閉じ込められたバタビア最悪の捕虜収容所」と記している。この写真が撮られのは、これらの女子どもがここから解放されるのを待っている時であった。彼らの多くは重体であった。この7歳の女の子は、医師が不十分な医療品でこの子の命を救おうとしている間、数週間ただ天井を見つめて横たわったままであった。

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1945年10月11日、ニューサウスウェールズ州シドニー
 ウールームールー埠頭で日本軍から解放された豪州人元捕虜の帰還を歓迎する群集の一部。元捕虜はシンガポールから汽船「ラーグスベイ」に乗船してシドニーに着いた豪第2軍第8師団の兵士たちである。彼らの大部分は1942年2月15日のシンガポール陥落の際に日本軍の捕虜となった。第2/10野戦救急隊のレン・デイ二等兵の友人と家族は旗を振って彼を迎えている。

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1945年10月19日、ヴィクトリア州メルボルン
 豪州への帰還後まもなく、自宅で最初の夕食を楽しむ豪第2軍第8師団のB.R.フランシス二等兵。フランシス二等兵は日本軍の元捕虜で、1942年2月15日にシンガポールで捕虜になったものと思われる。彼は終戦の1945年8月15日に解放された。



豪日研究プロジェクトは研究活動を休止いたしました。
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