オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト 1942年7月24日、辻正信中佐は第17軍司令部の一行と共に、フィリピンよりラバウルに到着した。彼は大本営によって、東部ニューギニアでの作戦指揮担当者として派遣されたのだった。当初の予定では、ポートモレスビー陸路攻撃については、先遣隊からの報告に基づいて判断を下すはずであった。しかし辻はこの調査の結果を待たず、彼の独断によって陸路攻撃実施を命令した。7月15日にフィリピンに到着した際、辻はすでに第17軍首脳部にこの指令を与えていた。この時彼は以下のように述べた。
戦争の人間像
辻正信
東部ニューギニア方面の航空消耗戦を有利に遂行するため、モレスビー攻略はなるべくすみやかに実行するを要する。本件陛下の御軫念も格別である。そこで大本営は「リ」号研究の結果を待たず、この大命によって第17軍に対しモレスビー攻略を命ぜられたものである。これに関する陸海軍中央協定は、遅くも軍の戦闘司令所がラバウルに到着すべき7月24日までには、同地及びダバオあて電報されるはずである。今や「リ」号は研究にあらずして実行である。第17軍はすみやかに現地海軍との協定を進めて、モレスビー攻略に着手されたい。これがためには、陸路及び海路を併用して、牛刀を用いて迅速なる成功を期せられたい。
後方支援の困難さにもかかわらず、大本営の大多数は陸路攻撃計画実施の方向に傾いていたので、辻の発言に当時異議を唱えるものはなかった。辻はただちに、この作戦遂行のための追加補給を手配し、工兵部隊を集め、その準備を始めた。実地の状況視察と、マレー作戦以来旧知の仲であった先遣隊の司令官を激励するために、辻は7月25日に海軍の駆逐艦でブナへ向け出発した。しかし、それから数日後、彼が乗船した艦はブナ沿岸で連合軍の爆撃にあい、辻は重傷を負い、その後東京へ帰還した。
辻の狂信的な行動と熱情ゆえに、非凡な才能を持つエリート軍人としての彼には、批判する者も多かったが、また崇拝する者も多くいた。マレー作戦で優れた戦略の立役者として有名になった辻は、アジア太平洋での各作戦において陸軍の作戦決定に影響力を持っていた。辻は、マレー半島とシンガポールでの中国人一般市民や、フィリピンとビルマでの連合軍捕虜に対する残虐行為の責任を追及されることなく、戦争終了後バンコクから逃亡した。その結果、連合軍は彼を戦争犯罪人として糾弾する機会を逃がした。
連合軍の追求を逃れ、マレー作戦での貢献を記した体験記がベストセラーになった人気で、辻は1952年国会議員に選出された。常に論議を呼び起こす存在であった彼は、軍人としての過去の影が付きまとう波乱にみちた政治家活動のあと、ラオスで1961年に行方不明になり、1968年に死亡宣告がだされた。
スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)
参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書南太平洋陸軍作戦1:ポートモレスビー-ガ島初期作戦』1968年。朝雲新聞社刊。180ページ及び195ページ。
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