オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト ニューギニアでの上陸と戦闘に備えるために、日本軍兵士はその任務に応じて各種の訓練を受けた。
戦争の人間像
訓練
ポートモレスビー攻撃のためニューギニアに上陸する兵士は、軍装に加えて、各自が米12キロを含む糧食を運搬することになった。そのためラバウルでは、背中に重い荷物を背負い行進することが主な訓練となった。輜重隊の将校だった金本林造は,兵士たちが火山灰を詰めた袋を背嚢に詰めて、何日も行進していたと書いている。
それとは対照的に、1942年11月、ニューギニア上陸のたった十日後にパパキ橋付近で捕虜になった石黒清一は、スマトラで各種の戦闘訓練を受けたと語っている。行進と兵器の操作のほかに、姿勢や射程を変えての小銃射撃訓練があった。ガスマスクの操作訓練も受け、掩蔽を使った攻撃訓練もあった。さらにスマトラで、彼の中隊は敵攻撃の各種戦術の訓練をした。それらには銃剣を使ったり、素手での格闘術、昼間突撃の訓練、擬似手榴弾の投擲訓練、機関銃の射撃訓練、そして日中や夜間の上陸作戦訓練などであった。
一等兵だった山田一夫は、駄馬担当の責任者だった。1942年5月にパラオでは、陸上訓練を受けなかった代わりに、船が潜水艦攻撃にあった場合の避難訓練を行った。1942年6月のラバウル到着後は、駄馬をともなっての付近の火山登山を訓練とした。
田村彦一は22歳の上等兵で、1942年11月11日にオイビで捕虜になった。彼は歩兵第144連隊に配属された工兵第55連隊第一中隊の一員であった。彼が受けた主な訓練は、塹壕堀りと道路建設であった。彼によると、橋梁建設はもっと経験が豊かな兵士に任せられたということである。彼は小銃と銃剣の訓練は受けたものの、主な訓練は攻撃というよりも防御に重点を置いたものだった、と連合軍の尋問官に対して答えた。
各種の訓練にもかかわらず、ニューギニアのジャングル戦にいかに適応すればいいかという知識や技能を、日本兵は十分にもっていなかった。そのため、病気や乏しい補給によって引き起こされた問題に対処することができなかった。
田村恵子記
参考資料
太平洋南西地域連合軍翻訳通訳部門 尋問報告書 第19,21,30号 (AWM55 6/1)
金本林造『ニューギニア戦記』東京:河出書房、1968年、90頁。
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