オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト ニューサウスウェールズ州の中部にある小さな田舎町、カウラが日本にとって重要なのはなぜでしょうか。なぜ2001年に、当時の畠中篤日本大使はカウラを日豪関係の精神的ふるさとと呼んだのでしょうか。
カウラと日本の対話
聞き手の前書き
この答えを見つけるため、今までこの関係にいろいろな形でかかわってきた16名の人々にインタビューをしました。その中には、60年間近くもそれにかかわってきた人もいました。
カウラと日本の関係について、オーラル・ヒストリー収集作業をするアイデアは、カウラに住む私の友人のトニー・ムーニー氏が、「手遅れにならないうちにのカウラの年配市民の話を録音しておいたほうがいいのではないか」と提案したことがきっかけとなりました。そこで彼に、1940年代以来のカウラと日本の活動に関与したインタビュー候補者のリストを作ってほしいと依頼しました。さらに、カウラ市開発担当員であるグラハム・アプソープ氏からも、別のリストをいただきました。さらに、この2つのリストに数名の名前が付け加えられたのです。
このアイデアを支援してくださったのがキャンベラの日本大使館で、さらにこのプロジェクトはオーストラリア戦争記念館に受け入れられ、豪日研究プロジェクト傘下の活動として実施されることになりました。
私が話してほしい考えていたことは、すべて1944年8月5日の未明に起こった事件から始まりました。その朝、何百人という日本人兵士が、町外れにあった捕虜収容所から脱走したのです。武士道的な考えで、捕虜になった恥から自分たちの名誉を回復するために取った意図的な行動の結果、そのうちの231名が死亡したのです。その後数名が、その時に受けた傷が原因で死亡しました。脱走を食い止めようとして、4名のオーストラリア陸軍の監視要員も死亡しました。
この脱走事件が、すべてのインタビューに影を落としているとは言え、事件をあえて再訪するつもりはありませんでした。私が興味を持っていたのは、別の町ならそのような事件を恥ずかしいことして隠してしまったかもしれませんが、カウラ市民はあえてこの出来事を和解のためのいろいろな活動に活用したことです。その結果、町はオーストラリア史の中でユニークな位置を獲得したのです。
まず最初に質問したのは、第二次大戦の退役軍人たちが、退役軍人会カウラ支部会員として、日本人兵士の墓地を手入れしようと決定をした経緯です。戦没者墓地は、カウラ一般霊園に隣接して設置され、退役軍人会のメンバーは、オーストラリア人戦死者の墓の整備を担当していました。彼らは、その墓地の端のほうにあり、墓標の数がもっと多い墓地が雑草で覆われているのに気づきました。何人かの元軍人が私に語ったことは、時間をかけて彼らがこの部分をも手入れをするのは、日本軍人たちも祖国のために死んだのだから正しいということです。反対はなかったですかとの私の質問に対して「反対したのは、戦闘を経験したことのない人からだけでした」という答えでした。
1964年に、戦没者墓地はオーストラリア人と日本人、そしてイタリア人の部分に区分けされました。イタリア人捕虜たちが、捕虜収容所の半分の地域に何年間か収容されていたことは忘れてはなりません。その後、イタリア人の墓はビクトリア州のマーチソンに移されました。日本人部分は、戦争中にオーストラリアで死亡した日本人軍人や一般市民の墓を含めるために拡張されました。今でも、ここは世界で唯一の日本政府の管理の下にある日本人戦没者墓地です。
すばらしい日本庭園が、死亡した日本人とオーストラリア人兵士たちの魂の象徴的なふるさととして、著名な日本人造園家である故中島健氏によって設計されたことは重要な発展です。なくなった方々の魂は、戦没者墓地から日本庭園まで桜並木を通って移動します。この桜の木々は毎年10月に開かれるサクラ祭りの呼び物になっています。
カウラの人々は1970年代の初めから始まった交換学生プログラムを非常に誇りにしています。これはカウラの十代の女学生が、奈良の一条高校に1名、そしてもう1名が東京の成蹊高校に派遣されたことから始まりました。成蹊高校との交換プログラムは今でも続いており、毎年カウラ高校と成蹊高校が1名ずつの学生を交換しています。1971年に一条高校に留学した女性はキャサリン・ベネットさんですが、日本の影響を強く受けた著名な陶芸家となりました。彼女の母であり、カウラ初の女性市長だったバーバラ・ベネットさんは日本を訪れ、元日本人捕虜で作っていたカウラ会のメンバーと会食をしたときのことを、ユーモアたっぷりに回顧しています。
他のインタビューの中では、カウラにオーストラリア世界平和の鐘が設置されることになったきっかけや、ユース・フォーラムの成功、ホログラム展示、カウラ・ブレークアウト協会、永倉ピクニック・パーク、収容所跡地の顛末、1年おきに実施される東京農業大学合唱団「コール・ファーマー」の訪問、そして、2004年に開かれるカウラ脱走60周年記念の計画について語っていただきました。
私がインタビューの中で重視したのは、カウラと日本の関係の中で築かれてきたポジティブな面を強調していく必要性です。脱走事件自体は、歴史的事実のひとつとしてみなされるべきです。もうひとつの重点は、オーストラリアと日本の若者たちが、カウラと日本の関係の中にかかわる方法を探し出すべきであるということです。そしてさらには、もっと多くの日本人観光客にシドニーからさらに内陸へ旅をしていただき、カウラの多くの見どころや、日本と特別のつながりがある場所をみてもらおうということです。
カウラの人々が、戦争中の悲劇を、日本との平和時のポジティブな関係に変えたことは誇りにして当然です。多くの日本の事業団体や個人の寛大さに、カウラの人々は感謝しています。また、カウラ在住の退役軍人たちが、かつての敵の遺体を伸び放題の雑草の下に眠らさなかったことにも、現在の市民は常に感謝の念を持っています。
それでは今からインタビューの内容を読んでみませんか。カウラが日本大使が形容した肩書きに値する町であることに、皆さんきっと同意なさることでしょう。
テリー・コフーン
2003年3月キャンベラにて
テープ起こしがされたインタビューは、少々編集されていますが、あくまでもスタイルの点だけに限っています。このファイルは個人的、あるいは貴組織内で非営利的目的のために使用されるときのみにダウンロードすることができます。インタビューのオリジナルテープはオーストラリア戦争記念館に保存されています。
Printed on 12/22/2024 11:18:20 PM