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戦争の人間像
ブナへ不許の後退

ブナからの無断撤退問題

連合軍の猛攻撃や病気と飢餓を耐え忍んだ後、とうとう日本軍は1943年1月にブナ方面から退却することを決定した。しかしこの退却に際して混乱が生じ、指揮官のなかにはこの地域から無断撤退をしたと責められた者もあった。

1月18日付で、山縣少将のブナ方面から西方のマンバレへ向けての退却せよという正式命令が出された結果、1月20日に南海支隊の生き残り部隊は、クムシ河の河口付近まで移動せよという小田少将の命令を受け取った。しかし、塚本中佐指揮下の第144連隊の主力部隊は、正式退却命令受領前に、山縣少将の許可なくその守備陣地を離れた。同様に、横山大佐指揮下の独立工兵第15連隊残留兵50名は1月17日にブナを離れ、クムシ側を目指して出発した。この地域にいた他の部隊はこの2部隊の予想外の退却に衝撃を受け、士気に大きく影響した。特に山縣少将は、自身の退却に使用するつもりだった舟艇を横山大佐が使用したことに激怒した。

公式戦史の編纂が進んでいた1959年、横山大佐は退却を決断するにいたる経過の説明を求められた。彼の詳しい回答は、その当時の状況を如実に物語っている。その回答のかなりの部分が戦史叢書に引用されている。

彼は回答の中で、ギルワ海岸での、彼と彼の部隊が直面した厳しい状況を詳しく、下記のように記述している。

当時、(横山大佐が)受領していた任務は、「横山部隊本部はギルワ海岸に到り傷病兵の輸送を区処すべし」というものであった。16日頃敵の包囲圏は逐次圧縮され、道路付近の傷病兵は皆海岸陣地に集合し掩体なき海岸にて、砲撃せられ放題にて惨状は筆紙に尽くし難し。

此位置は海岸幅狭くジャングルと水際迄3,4米にて壕を掘るには器具なく、且つ樹根起伏し、その横に伏す程度にて、足許には波打寄せ壕も掘れざる状態にして、真に背水の陣地なりき。

此処にて患者の集りしもの及び稍健康なる者も多数死傷し、又16日夕より益々砲撃烈しくなれども手の出し様なく敵の撃つままに任すのみ。

17日朝より益々砲爆撃激甚となり、時々各方面に突撃し来るも、味方は動き得るもの十数名にて、之を三方に配置し唯徒に手榴弾を時々投擲して虚勢を見せおるのみにて、支隊本部との連絡は遮断せられ居り、状況全く不明にて唯後退せる傷病兵の報告にて、「第一線は西方に退却してしまった」「敵は全部此陣地に集中し来れり」という声のみにて、時間を経る毎に、死傷続出し生存せるもの傷病兵合せて30名内外となり、此分にては逐次自滅するのみと認め、将校に「最早此陣地に集りし患者のみにて他より来るものなければ、本夜舟艇来らば此付近に誘導せよ」と命ず。(引用一部略)

当時小官も発熱40度内外にて、下痢甚しく、モヒ、カンフルの注射にて漸く耐へ居り、部下の面前にて樹根の下より海中に這い出て、30分置位に下痢し居る状態にて、17日夕方には敵益々接近し来り,砲撃は絶間なくしかも大雷雨にて壕内も海同様となり処置なき状態なり。

嵐の最中に、横山大佐は2隻の大発が海岸へ近づいてきたのを見つけた。彼は部隊の残りの将兵たち全員にこれに乗船するように命じ、その場所を出発した。過去5年間部下として従ってきた将校が、部隊を乗り込りこませている最中の横山大佐は、まるで狂人のようだったと語ったことで大佐は恥ずかしく思ったという。

横山大佐は、当時の状況説明をしただけではなく、南海支隊のオーエン・スタンレー山脈からの退却以後長期に渡った混乱状態を下記のように批判した。

本作戦にてポートモレスビー裏山より撤退を始めたる時以来、交通不便なるジャングル作戦にて、適時適切に上官の命令が部下に達すること殆どなく、数十回の陣地撤退で皆其場其場の指揮官の判断にて撤退し、一々命令を受けて処置する如きことは数十回の内一回か二回にて,皆独断にてギルワ迄転進し、支隊長とは離れ離れにて連絡とれず行動しおり、ギルワ陣地構成もバサブア占領も皆小官の判断にて実行しおり、12月20日頃小田少将着任せしも直にマラリアにかかり発熱甚しきため、「現地になれざる故,横山君然るべく頼む」と言はれ、小官の意見通り実施せられていたのが実情なり。

さらに横山大佐はマラリアや長期間の栄養不良による健康状態の悪化は、知的判断のみならず、兵士たちの士気にも多大なる影響を及ぼしたと書いている。

このような論議にもかかわらず、横山部隊や塚本部隊の撤退問題に関して正式な調査は、戦局の変転や重要関係者の戦死などで結局行われなかった。

田村恵子記

参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書南太平洋陸軍作戦2:ガダルカナル-ブナ作戦』1969年。朝雲新聞社刊。595-597ページ。

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