Australian War Memorial - AJRP
   
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戦争の人間像
南海支隊の侵攻

日本軍はポートモレスビー攻略によって、パプアとニューギニアを完全に征服しようと計画していた。1942年初頭、オーストラリア軍守備隊は約二千五百名の陸軍兵(ほとんどが経験の浅い民兵)と空軍兵で構成されていた。クィーンズランドに駐留するアメリカ陸軍B-17爆撃機が、ラバウル爆撃に向けて燃料補給をするために定期的に着陸してくる一方で、カタリナ飛行艇とハドソン爆撃機は偵察及び爆撃任務のための飛行を実施していた。日本軍機が定期的に守備隊の基地を爆撃したが、同年3月、オーストラリア空軍第75飛行戦隊のキティホーク戦闘機が同基地の防衛のために到着した。

日本軍は海上からの攻撃を企図したが、これは1942年5月5日から8日にかけて行われた珊瑚海海戦によって頓挫した。ニューギニア・フォース司令官であったバシル・モリス少将は、陸上からの攻撃が続くかも知れない事に気付いていたが、同時に『いかなる軍団さえも、よく装備された敵の防衛軍と戦うために、十分な装備を持ったままあのオーエン・スタンレー山脈を越える事は出来ない』と結論付けていた。

この間、基地の開発は進行していた。オーストラリア軍が基幹施設を建設している一方、およそ三千名のアメリカ軍工兵が飛行場建設のために到着していた。オーストラリア・ニューギニア行政府(ANGAU)は、何百人ものパプア人の男女を労務者として雇った。

1942年6月、ダグラス・マッカーサー将軍はモリス少将に対し、パプア北岸部にあるブナを確保する事を命じた。オーストラリア軍将校及び下士官に率いられた、練度の低いパプア人二百八十名で構成されたパプア歩兵大隊は、海岸線を警戒するためにオーエン・スタンレー山脈を越えた。モリスはそこで第39大隊に対し、ポートモレスビーとブナの間における唯一の飛行場所在地であったココダの占領を命じた。

ココダ街道とは、肉体的にも精神的にも困難な場所であった。行路は狭く、ぬかるんでいるばかりか密林に囲まれており、多くの道はひどい急勾配であった。千五百フィートを登れば、次の登りに至るまでにまた千フィートも下らなければならなかった。また全ての谷において、川を渡るには丸木橋を渡るか、水の中を苦労して進まなければならなかった。八日間の行程を経てココダに到着した者達は、疲労困憊していた。

ANGAUは、ココダ街道の出発点から中継地点まで食料を運ばせるため、八百名のパプア人男性を雇っていた。ブナ近郊出身の別の千五百名は、(小形艦艇によって供給された)物資をココダに運び、さらに多くの者がココダ街道沿いで雇われた。それらの運搬作業は過酷で敬遠されていたが、パプア人たちはその作業に従事する他なかった。何故なら、この地域に敷かれた特有の厳格な雇用法によって、作業を拒否する事は告訴される事につながったからである。

ラバウルでは堀井富太郎陸軍少将が、指揮下の南海支隊を率いてオーエン・スタンレー山脈を越え、ポートモレスビーを奪取せよとの命令を受けていた。1942年7月21日、南海支隊先遣隊がブナの近くに上陸した。横山與助大佐は九百名の歩兵と工兵を率い、ココダに向かった。

ほとんどのパプア兵が逃亡したが、オーストラリア人の指揮官に付き従った者たちもいた。撤退時、彼らはココダから来た二個小隊と合流した。しかし、日本軍は数の上で優勢であり、よりよく訓練さていると共に、軽火器と「濃緑色」の野戦服などによって適切に装備されており、この部隊には彼らを食い止め得るなどという望みはなかった。

ブナ近郊出身の荷物運搬人のほとんどの者が、いまや日本軍占領下となった自分の村の家族のもとに戻るために逃亡した。この地域のパプア人らがオーストラリアの統治に対して特に協力的であった事は一度もなく、中にはそれに対して復讐を企てていた者もいた。村人たちは、撃墜された五名のアメリカ軍航空兵を殺害し、五名のオーストラリア兵、二名の男性と四名の女性宣教師、及び日本兵によって殺害された子供を含む四名の民間人を追い詰めて捕らえたりした。

7月30日までに、横山先遣隊はココダを占領した。オーストラリア軍といくらかのパプア兵が、デニキ(Deniki)における拠点に陣取っていた。彼らは疲れきって消耗し、腹を空かせていただけでなく、多くの者が病に伏せていた。第39大隊の残りがとぎれとぎれに到着していた。日本軍は、オーストラリア軍が装備していなかった臼砲と山砲で射撃し、斥候隊は衝突した。

日本軍はラバウルから千二百名のニューギニア人を連れて来ると同時に、糧食や装備品、弾薬などを運ばせる目的で村人たちを雇った。オーストラリア軍は、何百人もの運搬人を他の事業からの者と入れ替え、同時にさらなる運搬人を募るというやり方で、自軍の補給線の拡充を行った。モリス少将は同時に、補給物資の空中投下を行うため、アメリカ陸軍航空隊から何機かのダグラスDC-3輸送機を確保していた。

両軍ともに増援を待ち受けるばかりの状態にあった。堀井少将は歩兵第百四十四連隊を展開させ、歩兵第四十一連隊を予備部隊として充てていた。モリスは、歴戦の旅団が到着するまで(オーストラリア軍部隊として知られていた)マルーブラ・フォースが持ち堪えるのを助けるため、さらに一個民兵大隊、第53大隊を派遣した。第39大隊は一時的にココダを奪回したが、後にまたイスラバにまで押し戻された。

モリスは、アーノルド・ポッツ准将が率いる第21旅団が反撃に出られる事を望んでいた。その準備段階として、DC-3輸送機が、戦線に近い干上がった湖底であるミョーラ地区に補給物資の空中投下を行ったが、投下された軍事物資の七割以上が密林のなかに落下したか、もしくは壊れてしまっていた。

8月28日、第53大隊が側線を守備していたイスラバとアロラ(Alola)に対して、堀井陸軍少将率いる歩兵第百四十四連隊が攻撃を実施した。そこへ、第21旅団所属の二つの大隊、第2/14及び第2/16大隊が到着した。ジャングル戦には慣れていなかったにもかかわらず、彼らは四日間もの間抵抗を続けた。しかし、そこで堀井は歩兵第四十一連隊を展開させ、その結果、数において劣勢であり、しかも火器装備の劣るオーストラリア軍は撤退した。多くの者は行く手を遮られ、何人かは無事後方に辿り着いたものの、その他は密林の中で死亡するか、日本軍によって捕らえられ、処刑された。

戦闘が激化する中、両軍に属するパプア人とニューギニア人は、補給物資の運搬と死傷者搬出のために一生懸命に働いた。両軍共に、彼らに対しては十分な休養や食事、避難所や医療の給与を行っていなかった。多くの者がこれ以上働けない程に悪い健康状態にあるか、もしくは逃亡した。マルーブラ・フォースに付き従った九百名のうちのほとんどが、傷病兵を搬出するために再雇用された。その献身と配慮によって、彼らは賞賛を得ると共に、「縮れ毛の天使」というゆるぎない通り名で呼ばれる事となった。

オーストラリア軍は、負傷した捕虜を殺害するとして知られていた日本軍が運搬人と死傷者に追い付かないようにするため、一連の遅滞行動を実施していた。ポッツ准将は、撤退する度に軍需品集積所を破壊するという「焦土」戦略を発令した。堀井少将とその幕僚たちは、敵から糧食を得られるものと仮定していたが、これらの貯蔵物資が破壊されていたため、指揮下の兵らの糧食は底を突き始めた。それでもなお、彼らは作戦を続行し続けた。

村人たちは戦闘のない所に移動していた。彼らの小屋は、撤退する兵らによって焼かれるか、もしくは航空機によって掃射されるなど、軍の占拠によって破壊されていた。オーストラリア軍も日本軍も、共に農園を襲撃し、豚を殺した。部隊が駐留した地域は、兵らが下痢を含む病気に罹っていたため汚染されていた。

ポッツ准将はエフォギ(Efogi)付近において日本軍に抗戦しようと構えたが、彼の部隊配置はまずいものとなってしまっていた。頑強な抵抗にもかかわらず、日本陸軍歩兵第四十一連隊は彼の部隊を踏み越え、新たに到着したばかりの第2/27大隊をココダ街道から一掃してしまった。一方で、歩兵第百四十四連隊は、剥き出しの大地において連合軍の航空機によって釘付けにされ、地上掃射によって多くの損害を蒙っていた。しかしながら、ポッツ准将の疲弊した部隊は、いまや敵の進撃に対する遅滞行動を行い得るのみとなっていた。

9月上旬、南海支隊はオーエン・スタンレー山脈の端に近いイオリバイワにまで到達していた。同支隊はすでに戦闘と疾病によって何百人にものぼる損害を蒙っており、また残存兵らもそれらの苦難だけではなく、補給路が破壊された事による飢餓によって疲労困憊していたが、彼らの気力は山上からポートモレスビーの海を見る事によって支えられていた。

マッカーサーと、オーストラリア軍司令官トーマス・ブレーミー将軍は、ポートモレスビーが陥落するのではないかという恐れを抱いていた。新たに着任したニューギニア・フォース司令官シドニー・ラウェル中将は、日本軍は長期にわたる進出とマルーブラ・フォースの抵抗によってかなり弱体化しており、増強されていない以上、堀井の部隊はイオリバイワに新たに展開した第25旅団を打ち破ることは出来ないであろう、と判断した。このような自信にもかかわらず、ポッツ准将と、続いてラウェル中将の二人は、その指揮権を剥奪されてしまった。

堀井少将の部隊は、第25旅団に対する最後の攻撃を開始していた。そこでイーサー旅団長は、最後の分水線であるイミタ分水線(Imita Ridge)までの戦術的後退を命じた。日本軍はこの最後の防衛線を圧迫したが、それ以上前に進む事は出来なかった。ソロモン諸島ガダルカナルに上陸したアメリカ軍は、ポートモレスビーへの最終突進を意図した日本軍の増援及び補給部隊に対する陽動作戦を行った。1942年9月14日、堀井少将は遂にブナへの撤収を命じられた。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)

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南海支隊の侵攻
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作戦詳細
医療制度
久枝秋吉
高砂義勇隊
南海支隊職員
ポートモレスビー作戦(豪軍)



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