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戦争の人間像
アイタペ・ウェワク

パプアニューギニア本島における最後の作戦は、ウェワクにある日本軍基地に対するものであった。1944年4月、アメリカ軍はアイタペとオランダ領ニューギニアにあるホーランジアに上陸し、この基地を迂回した。オーストラリア陸軍第8旅団が警戒していた、アイタペとセピク川(Sepik River)の間に追い込まれていた安達二十三陸軍中将率いる第十八軍は、ドリニュモール川に沿って反撃を開始した。これにアメリカ軍が対抗した。

1944年10月にもなると、安達中将の四個師団は各々一個連隊程度の兵力規模にまで落ち込んでいた。安達中将は第二十師団をウェワクとアイタペをつなぐ海岸線の中間に位置するブーツ周辺に展開させ、第四十一師団はトリセリ山脈に、また第二十五及び第五十一師団は安達中将自身が司令部をおくウェワクに配置した。多くの将兵が糧食と医療品の不足によって、病気になるか肉体的に弱っていた。かなりの割合で、兵士らは農園作業や漁獲作業に従事しており、三千の基地部隊は郊外に出て食糧を探し回っていた。

日本軍もまた、ニューギニア人を農園作業や労務、運搬作業目的で雇っていたが、同時に彼らとの取引をも行っていた。住民らは時にこの占領者によって苦しめられたが、一般的に両者の関係は悪くはなかった。多くの日本兵らは、これら地元民が彼ら自身の生命を助け得る(そして実際にしばしば助けた)事を認識していた。

ニューギニア人らは時に、撃墜された連合軍の航空兵や、日本軍の警戒線に侵入しようとしたコマンド部隊員らを捕獲する事で日本軍を助けた。おそらく最もよく知られている事件は、1943年9月に発生した、オーストラリア人レン・シフリート(Len Siffleet)軍曹とオランダ植民地軍の二名のアンボン人兵士、M.レハリン(M. Reharin)とH.パティウェル(H. Pattiwael)が、アイタペの奥地にあるワンティピ(Wantipi)周辺で約百名の村人に襲われ、日本軍に引き渡された事件であろう。この三名は、1943年10月24日に処刑された。

連合軍情報局とオーストラリア・ニューギニア行政府からの斥候隊は引き続き日本軍の後方線での情報収集活動を行っており、特に1944年4月以降はオーストラリアの存在感を回復しようとしていた。いくつかの村では、信頼できる者たちが「哨兵」として選ばれ、ゲリラ戦の訓練を受けた。しかしながら、日本軍守備隊と密接な関係を持っている住民らは、生存を確保するためにも、引き続き食料と労働力を提供していた。

1944年の中頃、連合軍はオーストラリア軍の師団にアイタペを引き継がせるという合意に達した。アメリカ軍が基地周辺を守る事に満足していたのに対し、ニューギニア・フォースは攻勢を計画していた。1944年9月から10月にかけて到着した第6師団の兵站補給を行うため、第3基地予備区域(The 3rd Base Sub-Area)が建設された。同師団所属の第16及び第17旅団は、1942年から43年にかけてニューギニアにおける作戦活動に携わっていたが、第19旅団は1941年のギリシャ戦線以来、実戦から遠ざかっていた。しかしながら彼らは、濃い樹木の生い茂ったクィーンズランド州のアサートン台地において、集中的なジャングル戦の訓練を受けていた。

第6師団長J.E.S.スティーブンス陸軍少将は、精力的な偵察活動により作戦行動を開始した。第2/6騎兵(コマンド)連隊と第2/9及び第2/10コマンド大隊は、海岸線沿いとトリセリ山脈の中に斥候隊を派遣した。アメリカ軍の無気力は日本軍を油断されたため、オーストラリア軍の奇襲隊は日本軍の斥候隊を待ち伏せした。

11月下旬、第19旅団は海岸線沿いに前進を開始し、第17旅団も山岳地帯に入っていった。第16旅団は予備部隊として残された。抵抗する第二十及び第四十一師団は偵察活動を強化し、防衛拠点の準備をしていた。両前線で、オーストラリア軍は頑強な抵抗に遭い、なかなか成果を挙げられずにいたが、彼らのより優れた訓練と装備の質がものを言う事となった。例えば、第19旅団が1月下旬に到達したダンマップ川への進撃は、三十六名の戦死(増水した川での溺死者数名を含む)と五十一名の負傷者を出したが、一方で日本側は四百三十四名が戦死、十三名が捕虜となったのである。両軍とも数百名が熱帯病、特に「雨季」になって猛威を振るうようになったマラリアに罹患していた。

傷病兵らはしばしば悲惨な試練に直面する事となった。日本軍の場合、傷病兵となる事はすなわち、玉砕覚悟の抵抗をするために後方に取り残される事を意味した。オーストラリア軍においてさえも、傷病兵を病院に搬送するまでには数日から数週間かかる事があった。海岸沿いでは、彼ら傷病兵は小型艦艇や上陸用舟艇で搬出されたが、山間部における場合、でこぼこの密林の道を自ら歩くか、またはニューギニア人に担がれて海岸線に辿り着くまでに、少なくとも二週間を要した。負傷や罹病の度合いが重いせいで密林を移動する事すら出来ないため、十分に回復するまで、または命を落とすまで、野戦救急車で手当てを受ける者たちもいた。1945年4月、第17旅団は、マプリックに臨時滑走路を開設した。これにより、アウスター観測機が傷病兵を二時間で海岸線に運べるようになったため、確実により多くの人命が救われる事になった。

オーストラリア軍は補給の不足に悩まされていたが、それは圧倒的な糧食不足と、そしてこの頃には弾薬をも不足させていた日本軍のそれほど深刻ではなかった。連合軍は輸送機による物資投下に頼るようになったが、ほとんどの輸送機はフィリピンやオランダ領インド方面に廻されていた。そのため、彼らは往々にして一機か二機のダコタ機しか使用できなかった。山間部では、投下地域が開設され、ニューギニア人らが物資を前線に運んだ。一方、海岸線では、小型艦艇が物資を前方地域に輸送し、その後ジープかニューギニア人らがそれらを大隊に配送した。

オーストラリア空軍第71航空団のビューフォート爆撃機が重要な役割を演じていた。当初、彼らは爆撃任務のために毎月約五百回の出撃を繰り返していたが、1945年になると、これら航空団所属の三個(後に五個)飛行隊は、燃料と爆弾の不足のせいで飛行そのものを制約されていた。これはオーストラリアからの、需要を満たす程度の十分な輸送力がなかったためである。ある時など、この航空団はアイタペで発見した日本軍の爆弾を使用していたほどである。しばしば、彼らは地上軍が攻撃を開始する直前に日本軍の拠点を「弱体化」させた。ビューフォート爆撃機はまた、十分に配備されていなかったブーメラン戦術偵察機の穴を埋めるため、物資投下と戦術偵察任務のための飛行をも実施した。

前進しているにもかかわらず、オーストラリア兵らは高い士気の維持に困難を覚えつつあった。アイタペ-ウェワク地域が作戦上の僻地である事は明白であり、多くの将校や兵らは、アメリカ軍の日本軍封じ込め戦略は十分に機能していると感じていた。特に、彼らは自分たちの同僚が、何ら明白な戦略的獲得もない作戦で戦死していく事を見るに耐えなかったのである。

1945年5月までに、第二十及び第四十一師団はウェワクまで後退するか、または小さな集団に分裂し、オーストラリアやニューギニア人の警備隊に追撃されていた。時にこれらの警備隊は、ウェワクから脱出したインド人戦争捕虜(シンガポールで捕らえられた)を発見した。彼らの同僚のほとんどはそのウェワクにおいて、過労やただひたすら放置されていたせいで死亡していた。

ウェワクに残っていたのは、糧食も行き渡り、しっかり統率のとれた第二十五及び第五十一師団の多くの将兵たちであった。オーストラリア軍がウェワクの基地に近づくにつれて、日本軍の抵抗は熾烈なものとなったが、スティーブンス少将は新たに第16旅団を展開させ、5月11日にはウェワク東方海岸に対する上陸作戦も敢行された。オーストラリア軍はまた、戦車と火砲をも使用した。5月末までに、安達中将の部隊は内陸に後退していった。

この作戦は、終戦とともに幕を下ろした。十ヶ月に及ぶ作戦期間中、第6師団は海岸線沿いと山間部を七十マイル前進した。この進撃で、彼らは日本軍第十八軍(及びその残存将兵)を三千平方マイルに及ぶ地域から駆逐したが、同時に四百四十二名が戦死し、千百四十一名が負傷した。オーストラリア空軍は、航空機数機とその搭乗員らを被撃墜または墜落事故で失った。日本軍は捕虜となった二百六十九名の他、病気や飢餓などによる死亡者を含め、九千名を喪失した。これらの損害は、多くが「不要な作戦」と考えていたこの作戦自体がもたらした、双方にとっても受け入れがたい結末であったのである。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)

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