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オーストラリア人の日本人観

 第二次世界大戦中にオーストラリア兵士が抱ていた日本人観を概括することには注意を要する。常にそれに反した個人的意見が見出せるからである。しかしながら、オーストラリア軍退役軍人の日本人観の多数例は、(マーク・ジョンストン著『敵との戦闘』〔ケンブリッジ大学出版会、2000年刊〕が示すように)それらが戦時中の日記であろうと手紙であろうと、或いは(このサイトのように)戦後のインタビューであろうと、異なる部隊間でも、また異なる専門部署間でさえも共通する確固とした認識を明示している。このサイトでは概括が可能な六つのテーマを探求する。

 最初の節では、日本兵と戦うためにまもなく戦場に向かうオーストラリア人の戦前の典型的な侮蔑的日本人観を明らかにする。これらの典型的な日本人に対する蔑視は、1942年前半の連合軍に対する日本軍の破竹の進撃によって変更を余儀なくされる。二番目の節では、日本軍の戦闘能力についてのオーストラリア人の再評価を扱う。多くのオーストラリア兵がしぶしぶながらも日本兵の勇敢さを認めるようになったが、これはオーストラリア人捕虜や他の人々になされた日本軍の残虐行為への恐れや怒りによって醸成されたものある。こうした残虐行為がオーストラリア兵に与えた衝撃を第3節で検証する。日本軍の残虐行為への反応は、オーストラリア軍の日本人捕虜への対応にも反映されている。第4節ではこのテーマを扱う。第5節は広島と長崎に投下された原子爆弾についてオーストラリア人の反応を見てみる。最後に、第6節では戦後になってからのオーストラリア軍退役軍人の日本人観を見る。

 このサイトで扱う全ての証言(英文)は、1980年代末から90年代初頭にかけて行われた退役軍人とのインタビューの口述記録から取られており、キース・マードック音声記録の一部としてオーストラリア戦争記念館に保存されている。

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Click images to enlarge.  1942年1月22日、マレー。ジャングルの中を日本の部隊が四十一式(口径75ミリ)山砲を運んでいる。日本軍は過去の10年間中国で戦争をしつつ、満州でソビエト軍と戦う準備をしていたので、熱帯での戦闘の装備は全く不十分であった。それにもかかわらず、忍耐と訓練と決意に勝る日本兵は1942年初頭の二三ヶ月で同様に戦闘の準備が整っていなかった英米軍を撃破した。
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1942年2月19日、ダーウィン。日本軍の最初の空襲によって爆発したオイルタンク。発火したタンクから流れる濃い黒煙を縫って火の玉が吹き上がっている。停泊中のバサースト級コルベット艦「デロレイン」が前景に小さく見えることからも爆発の規模の大きさが窺える。オーストラリア本土に対する日本軍の攻撃は、遠方のヨーロッパの敵ドイツとイタリアからは決して受けることのない脅威となってオーストラリア国民を不安に陥れた。1942年の年間を通じてオーストラリア人は日本の侵略を本当に恐れていた。
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 1943年9月、ラエ。ラエの占領の際に捕獲した日章旗を広げるオーストラリア兵。この時期までに、前年のミルン湾の戦いに始まる連合軍の一連の勝利によって日本兵は「スーパーマン」であるという神話は崩れ去っていた。
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