帝国建設のための戦争 | 日本軍の進攻 | 攻撃されたオーストラリア | 日本軍の後退 | 日本軍下の豪軍捕虜 | 豪州の日本人捕虜 | 勝利と敗北 |
AWM 073669 | 1941年2月、ドイツ、ベルリン
ワルター・フォン・ブラウヒッチ独陸軍元帥に日本刀の鞘に書かれた銘文を翻訳する山下奉文将軍。山下は戦略を研究するためにドイツに派遣された日本陸海軍使節団の一員であった。8ヶ月後の1941年12月8日、山下は日本陸軍を率いてマレーに侵攻した。日本軍のマレー占領は1942年2月15日のシンガポール陥落で完了した。 |
AWM 005456 | 1941年2月、ニューサウスウェールズ州、シドニー
シドニーの船着き場に到着する豪第2軍第2/18大隊の兵士達。第2/18大隊は第8師団第22旅団の一部で、万一の敵の攻撃に備えて現地の防衛を補強するようマレーへの移動を命ぜられていた。第2/18大隊は2月4日に「クイーン・メリー号」に乗船し、シドニーからシンガポールに向かった。大隊は1942年1月にマレー南部で日本軍と交戦し、2月にシンガポールの防衛戦に従事することになる。 |
AWM 007748 | 1941年9月、シンガポール島、英海軍基地。
基地内の浮きドックで再装備中の英戦艦。シンガポールの海軍基地は極東における英国海軍力の象徴であった。1941年当時のオーストラリア人にとっては、同基地は、オーストラリアに接する北方海域が万一アジアの軍船に脅かされた場合、英海軍が防衛に使う楯としての存在意義があった。 |
AWM 006091 | 1941年3月14日、キャンベラ総督府
総督ゴウリー卿に信任状を見せる新任の河相日本公使。河相公使は1941年11月11日に開催されたオーストラリア戦争記念館の開館式典に参加した。この後4週間にも満たない1941年12月8日に、日本軍はオーストラリア及び他の英帝国軍とマレーで開戦する。河相は戦後もオーストラリアに愛着を持ち、横浜の戦争墓地で行われたアンザック記念日の式典にしばしば参加したそうである。 |
AWM 006647 | 1941年?、マレー
マレーで訓練中の豪空軍のロッキード・ハドソン爆撃機。1941年12月7日、偵察飛行中のハドソン機がマレー侵攻のためにシンゴラ南方のシャム湾を航行中の日本船団を発見した。この機はマレー北東のコタバルを基地とする第一飛行中隊所属のハドソン機であった。別のハドソン機は、日本の巡洋艦から砲撃を受けており、この事件が第二次世界大戦における日本軍と豪軍の最初の衝突と考えられている。 |
AWM P00618.001 | 1942年年初?、マレー、コタバル
日本の第22航空戦隊の偽装したゼロ戦(A6M)。この戦隊のゼロ戦は、1941年12月10日、マレー沖で英海軍の軍艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」を沈めた日本軍空襲部隊の護衛を勤めた。 |
AWM P02018.055 | 1941年12月10日、マレー東岸の沖合い
日本軍の空襲後、沈み始めた英軍艦「プリンス・オブ・ウエールズ」の舷側から脱出しようとする乗員。「プリンス・オブ・ウエールズ」、巡洋艦「レパルス」、及び豪軍の「ヴァンパイアー」を含む4隻の駆逐艦から成る「Zフォース」は、1941年12月8日の午後にシンガポールを出港し、コタバル沖で日本の侵攻艦隊と交戦した。「Zフォース」には護衛の飛行機が付いていなかった。12月10日の午前11時過ぎ、日本軍の第21・第22航空戦隊の魚雷攻撃を受けた「プリンス・オブ・ウエールズ」と「レパルス」は、800名を超える乗員とともに沈没した。これにより日本軍と交戦する能力を持つ英軍の主要艦はこの地域から消え去った。 |
AWM 010690 | 1941年12月
豪州が日本帝国と戦争状態にあることを布告する宣言文に署名する総督ゴウリー卿。周りで見守るのは豪州戦時内閣の閣僚たち。左から右へ、フランク・フォード陸軍大臣、ジョン・カーティン首相、フランク・ストラハン総理府次官、総督ゴウリー卿。 |
AWM 012126 | 1941年末、シンガポール
マレー北方の戦線よりシンガポールに到着した最初の日本軍負傷兵の一人。 |
AWM 011486 | 1942年1月、マレー
マレー半島を急進する日本軍を目前にして、橋を爆破する豪軍工兵部隊。 |
AWM 127895 | 1942年1月17日、マレー
マレー南西部のゲマス付近において木の葉で偽装した九七式小型戦車。1942年1月14日、ゲマス地区で太平洋戦争における豪州と日本の間で陸軍部隊の最初の大きな戦闘が起こった。豪州の第2/30大隊の一部がゲメンチェ橋で進攻する日本軍に奇襲をかけようとした時、ギャルガン中佐は次の伝言を送った。「マレーの豪陸軍だけでなく、豪州全体の評価がこの部隊の手にかかっている。」豪軍の攻撃は成功し、あまりに興奮したシンガポールラジオのレポーターは、「豪軍は恐ろしい洪水を止める防波堤のよう」であり、マレーの戦闘の潮流も豪軍有利に転じた、と宣言した。しかし、日本軍の進攻は続いた。 |
AWM 011302 | 1942年1月18日、マレー、バクリ
1942年1月18日午前6時45分、日本軍戦車5両がマレー南西のバクリへの道を進んだ。日本軍戦車はここで豪第2/4対戦車連隊の2基の2ポンド砲による砲撃を受けた。豪軍は、後に加わった日本軍戦車3両を含め、戦車8両を破壊し、その乗員を倒した。同時期の北方のゲマスでの豪軍の勝利とともに、この戦闘での勝利によってそれまで勝ち進んできた日本軍のマレー半島での進攻も止まるのではないかと思われた。 |
AWM 011303/33 | 1942年1月、マレー
英軍の戦線に撒き落とされた日本軍に宣伝チラシを面白がって笑う豪軍砲手A.D.ラング(ニューサウスウェールズ州ハーストヴィル出身)。太平洋戦争の間、両軍によって採用されこの種の宣伝チラシは、通常敵軍に降伏を勧めるものであった。 |
AWM 011304/18 | 1942年1月、マレー
豪軍の狙撃兵とトンプソン軽機関銃で武装するもう一人の兵士。彼らはゴム農園で日本軍の進攻を警戒している。 |
AWM 012468 | 1942年1月、シンガポール島、シンガポール
シンガポール島北岸の英海軍基地の火災による煙が約9キロ離れた町の中心街のビルから見える。英軍は1942年2月11日にこの基地を放棄した。3日後に日本の海軍部隊が進入した際には、同基地が無人で無防備であることに驚かされた。 |
AWM 011529/22 | 1942年2月3日、シンガポール島、シンガポール
日本軍のシンガポールへの空襲は、軍がコタバルに上陸した後の1941年12月8日午前4時直後に始まった。続く2ヶ月半の間、町は定期的に爆撃され、1942年1月末までには爆撃は日に2・3度に及ぶようになった。中華系とインド系市民が爆撃によって大きな被害を受けた。 |
AWM 012457 | 1942年1月、マレー
戦列から切り離れされた後、英軍の戦線に戻った豪州兵がミュアーの戦闘の記事を読んでいる。1942年1月18日から22日にかけて、豪州及び他の英帝国軍はマレー南西のミュアーから進攻する日本軍と激しい戦闘を繰り返した。この間に一度、豪第2/19大隊は「ワルシング・マティルダ」を歌いながら進軍した。 |
AWM 012449 | 1942年2月始め、シンガポール島、クランジ地区
ジョホール海峡に伸びる連絡道路を見下ろす豪軍対戦車砲の砲手。連絡道路はシンガポール島とマレー本土ジョホールバルの町を繋いでいる。マレーに残る最後の英帝国軍は1942年1月31日にシンガポール島に退き、連絡道路には爆破によって穴が開けられた。シンガポール島北部のクランジと北西岸の前線の防衛は豪第27旅団と第22旅団にそれぞれ割り当てられた。 |
AWM 129751 | 1942年2月8日または9日、シンガポール島、ジョホール海峡
この写真の原題では、1942年2月の日本軍のシンガポール島上陸となっている。もし、この写真が日本軍の侵攻の際に撮られたものなら、2月8日の北西岸での上陸か、2月9日のクランジでの上陸に相違ない。この両度の上陸作戦で日本軍と対戦したのは豪州の部隊である。 |
AWM 127903 | 1942年2月15日、シンガポール島、ブキット・ティマーのフォード社工場
日本帝国軍の山下奉文中将に対し、シンガポールの英帝国軍総司令官アーサー・パーシヴァル中将は無条件降伏をした。山下は写真の左端に坐り、パーシヴァルは右下に坐っている。シンガポール島の防衛戦は丁度7日間続いた。降伏文書調印の際に使われた机はオーストラリア戦争記念館に展示されている。 |
AWM 127902 | 1942年2月15日、シンガポール 日本軍に降伏する英軍部隊。
1941年12月8日から1942年2月15日にかけてマレーとシンガポール島の戦闘で英帝国軍の死傷者数は138,708人にのぼり、内約13万人が捕虜となった。豪州兵の死者は1,789人、負傷者は1,306人にのぼり、約1万5千人が捕虜となった。同じ時期の日本軍の死傷数は約9,800人で内1,714人がシンガポール島で戦死した。豪州の公式戦史は、「…シンガポール陥落は英国(とオーストラリア)の歴史における最大の惨劇の一つとして世界中を震撼させた。」と記している。 |
AWM P02100.001 | 1942年2月14日、南シナ海
スマトラ島沖で日本軍に撃沈された中国軍小型砲艦「シュー・クウォン」の生存者。乗組員の中には32人の豪軍技術者がいた。彼らは、その技能が他地域で有用と判断されたため、シンガポール陥落以前に同地から離脱するよう命令を受けていた。沈没する砲艦から12人が生還し、その内の一人アルフレッド・ハロウェイがこの写真をオーストラリア戦争記念館に寄贈した。1942年2月15日の英軍の降伏の後、シンガポール南方の海域にはシンガポール島脱出を試みる大小の船舶が点在していた。豪第8師団司令官ゴードン・ベネット中将もシンガポールを脱出した一人である。 |
AWM P1021/01 | 豪軍看護婦エレイン・バルフォア-オギルヴィの肖像
豪第8師団の第2/4患者輸送隊に所属していたバルフォア-オギルヴィ看護婦は、1942年2月12日に他の63人の豪軍看護婦とともに蒸気船「ヴァイナー・ブルック」に乗船し、シンガポールを脱出した。1942年2月14日、「ヴァイナー・ブルック」はスマトラのバンカ島沖で日本軍の空襲を受け、沈没した。この襲撃で2人の看護婦が死亡し、救命いかだで脱出した9人の看護婦はその後消息不明となった。救命ボートに乗った22人の豪軍看護婦の一団はバンカ島北岸に上陸した。そこで、彼女らは他の生存者とともに日本軍に捕らえられた。彼女らは日本軍に海中に向かって歩くよう強制された後、機銃掃射を受けた。バルフォア-オギルヴィ看護婦はこの虐殺で死亡した。豪第2/13総合病院に所属していたヴィヴィアン・ブルウィンクル看護婦が唯一の生存者である。 |