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マーク・ジョンストン著 (Haruki Yoshida訳) [註記:この講演での議論のさらに詳しい説明と証拠については拙著『敵との戦い』( Fighting the Enemy 、C.U.P.出版、2000年刊)と同『前線にて』( At the Front Line、C.U.P.出版、1996年刊)を参照。] 1942年12月、先にリビヤとギリシアでの作戦に従事し、最近サナナンダでの戦闘を経験したオーストラリアの二等兵が、遭遇した敵について次のような所感を書いている。 「私は“トニー”(イタリア人一般)には普段何の親近感も感じないが、“フリッツ”[訳者註:ドイツ人一般]には…いささか尊敬の念を抱いている。しかし、日本人については我々は皆激しい憎しみしか感じない。」[註1] オーストラリア兵はヨーロッパの敵には普通抱かない敵意を日本人に抱いていた。 日本人に対する憎悪は戦場では具体的な形で現われた。つまり、オーストラリア兵は日本兵を殺すことに躍起になったのである。「もし、イタリア兵かドイツ兵が逃走するなら、見逃してやるかもしれないが、日本兵には決してそんなことはしない。」とジョー・ガレットは書いている。[註2]中東では豪軍指揮官はオーストラリア兵の殺戮本能を呼び覚ますのに苦労したが、日本兵との戦いではその本能は自然に現れた。 そういう訳で、1943年の日本兵との戦闘について書かれた次の日記の記述は、ドイツ兵やイタリア兵についての記録に比べると、ほとんど想像もできない内容を含んでいる。 「ジャップはジャングルのいたるところから走り出してきた。そこで、我々は面白い射撃を始めた。先ず、草むらを這って逃げる奴がいたので、ブレン式機関銃で仕留めた。…背中に背嚢を背負った奴が小道を歩いてくるのが見えた。すると、皆そいつに攻撃を集中した。そいつはまもなくばったりと地面に倒れた。その日の後ほど、そいつの死体を見つけたので、我々は崖から海に突き落とした。」[註3] ワウでいかに50人の日本兵が「追い詰められ、皆殺しにされた」かを戦中の公式刊行物が記録している。[註4]「追討」と「皆殺し」の観念がその時代の雰囲気を支配していた。この観念は、基本的には同じ心を持った敵を戦争の規則によって降伏させるというものではなく、異質な敵の絶滅を求めるものであった。 非武装であっても、就眠中であっても、また、病気で臥せっていたり、負傷していても、日本兵なら殺すことが日常的であった。捕虜にすることが公式には求められたが、前線のオーストラリア兵は、前線のアメリカ兵同様、ほとんどそうしようとはしなかった。 日本兵の死者は、ドイツ兵やイタリア兵の死者とは同じように扱われなかった。フランク・レッグは、先にアラメインで豪第2/48大隊の兵士として戦い、後に太平洋地区の従軍記者になった。彼は、日本軍と交戦する豪第9師団について初めて報道した時に、次のような所感を書き記した。つまり、北アフリカでは互いの戦死者を埋葬するのが普通の習わしであったが、ここでは「奇妙な冷淡さ」があると。[註5]例えば、フォン半島の小道に横たわる日本人戦死者には両眼の間に銃弾の跡があり、「この野郎を埋めるな。君が今まで見た最高の射撃の技だぜ。」と書かれた紙切れがピンで留めてあった。[註6] 日本兵に対する侮蔑と憎悪が何に起因するのか、ここで手短に検討してみよう。最も明らかなのは、オーストラリアにとって日本軍はヨーロッパの敵よりもはるかに差し迫った脅威であったということである。 1942年1月、中東に派遣された一人の通信兵は彼の婚約者に「黄色い大群」についての懸念を、「奴等が自ら欲しがっている物に到達する前に、奴等を撃滅することで僕の頭の中は一杯だ。」と書いている。[註7] 祖国に差し迫った戦争の脅威が、脅威を与える者たちへの憎悪に繋がっている。1943年初頭、ブレーミー将軍は、家族の死と文明の終焉を防ぐためにオーストラリア兵は戦っているのだと強調した。これによって、将軍は当時の戦闘経験者の日本人に対する憎悪をかき立てようとしたのである。[註8]ココダ道を進軍する日本軍を、歴史研究家でもあった豪第2/14大隊の副司令官は、「自信過剰の大群」が「征服した白人国家の血の中で欲望と残虐性を思う存分に満たそうとしている。」と表現している。[註9] 少なくとも二十世紀初頭から、日本人は白人の前哨基地を脅かす存在であるとオーストラリア人は認めていた。彼らが「文明」と「白人国家」に対する脅威を語ることからも分かるように、オーストラリア兵がその敵日本兵に抱く憎悪は人種差別観に基づく憎悪であった。もし、侵略されることへの恐れが憎悪の一つの原因なら、人種差別的敵意はもう一つの原因と言える。 第二次世界大戦で戦ったオーストラリア人は、特定の人種の優越性を主張することが今日よりもはるかに容認される時代に育った。1941年、カーティン首相は、「白豪主義の原則」維持を国家の義務として対日参戦を正当化した。[註10] オーストラリア人は日本人を人種的に劣っていると考えていた。ミルン湾の豪第7旅団の司令官は、日本兵との戦闘の後で、敵の撃滅が白色人種の優越性を証明する最も効果的な方法であると報告した。[註11] これに先立つ1942年初頭の戦闘の結果によって、白色人種の優越性は脅かされていた。1941年には、日本人を嘲笑する程度であったオーストラリア人の差別的人種観は、マレー、シンガポール、ジャワ、チモール、アンボン、ニューブリテンでの敗北の中で変更を余儀なくされた。 先ず、こうした日本軍の成功は日本人に対する人種差別的憎悪をヒステリックに煽り立てることになった。また、これと同時に、日本兵を「超人」、或いは「超人兵士」ととらえる見方が広まっていった。この認識はかなり根強く残ったが、1943年以降は一般的な意見ではなくなった。というのは、1943年以降、オーストラリア兵は戦闘で遭遇する多くの日本兵の貧弱な肉体を目撃するようになり、日本人に対する人種差別的軽蔑感を一層高めていったからである。 「超人」のイメージよりももっと一般的であったのは、日本人を人間以下の生き物とみなすことである。“ジョー”・ガレットは豪第2/6大隊での戦闘経験から、「(日本人は)人間的な諸特徴を持った賢い野獣のようであるが、とても万全とは言い難い。そして、これが奴らについて我々が思っていることなのだ。即ち、奴らは野獣であると。」と結論している。[註12]アメリカ兵同様、オーストラリア兵はしばしば日本人を動物、特にドブネズミや害獣にたとえた。高級将校もオーストラリア兵がこの認識を持つことを助長した。1942年、ブレーミー将軍はポートモレスビーで部隊兵士を前に日本人は「人間以下の野獣」であると語り、翌年の初めには兵士たちに日本人は「奇妙な種族―人間と猿の雑種」であると告げている。[註13] オーストラリア人にとって、このような考え方は、初期作戦での日本軍の勝利を説明するのに好都合だった。つまり、日本人の原始的な環境への適応力を説明できたからである。それはまた、日本人を残虐に取り扱うことへの言い訳にもなった。砂漠の戦争の体験者であり、普段はたいへん人情味のあるジョン・バトラー二等兵は、初めて日本兵に遭遇した時のことを次のように書いている。「今朝、食料採集に出た時、良いジャップ-つまり、奴はもう死んでいた-の首に出くわした。いまいましいヒヒのような奴だった。こんなにおぞましい格好の動物を殺すのは殺人でも何でもないんだ。」[註14] オーストラリア人が使った言葉の幾つかには、驚くべきことにナチの人種差別宣伝を思わせる響きがある。バトラーと彼の戦友にとってはナチズムはほとんどの点で嫌悪すべきものであった。しかし、同様の人種差別的軽蔑観は当時のアメリカ人の記述にも現れており、別の面では情け深い西洋の兵士も、この点に関しては、日本人に対して今日とても容認されない態度を保ったのである。既に述べたように、当時は人種差別の時代であり、日本人もまた白人に対して人種差別的態度を示していた。 しかし、戦時における対日人種差別主義の重要性をあまりに強調してはいけない。1942年の3月から4月にかけてオーストラリア政府は排日感情を煽る運動を展開した。この時、シドニー・モーニング・ヘラルド紙は、オーストラリア人は日本の侵略者と戦うために何の刺激も必要としないし、「ゲッペル…と張り合おうとするような矢継ぎ早に出る安っぽい悪口と無駄な努力」は無論必要としない、と論説している。この問題に関するギャロップ調査によると54パーセントのオーストラリア人が宣伝運動に反対している。[註15] さらに、最前線で戦うオーストラリア兵の特異な状況も人種差別を和らげる、或いは少なくとも時には抑制する理由となった。先ず、現実の問題が重要であった。オーストラリアの軍事訓練指導者は、兵士たちに日本兵より劣っていると感じさせたくなかった。―これは開戦後一二年間の現実的な危険であった。―しかし、一方で兵士たちに日本兵の強さについての冷静な判断を求めた。戦術を策定する前に、宣伝に毒されることは危険であった。戦場では、敵の能力について現実的な判断をすることが生死を分かつ重要問題だったからである。 日本兵との対決というオーストラリア兵が直面する生死に関わる現実は、戦闘中の日本人に対する人種差別意識を和らげたかもしれない。しかし、こうした現実はまた、日本人に対する憎悪の特質と激しさを決定付ける要因となった。兵士たちの間では、戦前の人種差別的な言葉使いが用いられた。前線の特殊事情に主に起因する彼らの感情を表現するには、こうした言葉使いが都合のよい手段だったからである。つまり、オーストラリア兵の日本人に対する強烈な憎悪は、市民生活上の偏見よりも戦闘の現実に由来しているように私には思える。 前線のオーストラリア兵による観察と経験が、彼らの日本人に対する憎悪を増大させた、と私は信じる。人種差別的な先入観や、また祖国に迫る脅威よりも、個人的な経験、或いは他の前線兵士からの報告に基づく日本人観がオーストラリア兵の感情をかき立てたのである。日本兵と交戦した多くのオーストラリア兵が、日本人を邪悪で、忌まわしく、陰険で、おぞましい戦い方をする敵と考えていた。 カナングラのジャングル戦訓練校では、日本兵は小賢しいわなや計略を多用する「狡猾な小ネズミ」だ、と訓練兵は教えられた。[註16]オーストラリア兵は日本兵を捕虜に取るのをたいへん嫌がった。というのは、日本兵は降伏すると見せかけて隠していた爆発物を起爆させ、人間爆弾になることがあったからで、このようなおぞましい経験から生まれた不信感がその主な原因となっている。カナングラ訓練校では、そこで学んだ幾千のオーストラリア兵に、手を握り締めて降伏する日本兵には発砲せよ、と教えてきた。フランク・ロールストンは、白い布を持った明らかに無防備の日本兵が撃ち殺されたミルン湾での出来事を振り返り、「欺きと裏切りの限りを尽くすと分かっている敵に対して我々はわずかな危険も犯す余裕はない。」と記している。[註17]日本人非難の主な原因となったのは、医療施設に対する日本軍の爆撃であり、また日本軍が豪軍の負傷兵や負傷兵を担架で運ぶ運搬人にも情け容赦なく銃弾を浴びせたという事実である。例えば、パプアで敵の飛行機に攻撃されたテント「病室」のことをある豪軍軍医は次のように書いている。 「煙が消えた時、12人(の患者)がまだテント内にいたが、皆死んでいた。…東条の部下の計画的で人間以下の激情に殺されたのである。」[註18] 無力な人間に対する日本人の冷酷さと残虐性がオーストラリア人の間に激しい敵意を引き起こした。非騎士道的で残虐な行為はドイツ人との戦いでも見られたが、日本人の残虐性はさらに程度の甚だしいものであった。残虐行為は、豪軍の他のどの敵よりも日本兵に多く見られた。マレー・シンガポール・チモール・ニューブリテン・アンボンでの日本兵によるオーストラリア人捕虜の虐殺をあなた方は皆承知していると私は確信している。 1942年初頭に日本軍が同胞になした残虐行為についてニューギニアで戦ったオーストラリア兵がどれほど知っていたかはよく分からないが、私の印象では彼らはあまり知らなかったようである。また、そのような情報が彼らの憎悪を特徴付けることもなかったと思われる。ニューブリテンでの惨事は広く伝えられ、情報通のオーストラリア人は中国人に対する日本人の行き過ぎた行いについてよく知っていた。しかし、オーストラリアの戦時政府は、イギリス政府やアメリカ政府同様、捕虜を取り巻く状況を悪化させることを恐れ、残虐行為についての資料の公表を差し控えた。 ニューギニアのオーストラリア兵は、ミルン湾での日本軍の非道の数々を目の当たりにし、残虐行為が自分たちにとって切迫した問題であることを痛感した。1942年初頭の戦闘に参加した兵士たちと異なり、ミルン湾で戦ったオーストラリア兵のほとんどが、日本軍の残虐行為についての体験談を外部に伝えることができた。こうした残虐行為が与えた衝撃の一例を紹介しよう。 トブルクの戦いを経験した一人の兵士は日本兵の残虐行為についての他人の話に初めは懐疑的であった。しかし、後にミルン湾で銃剣で刺され、時間をかけて殺された味方の兵士たちを目撃した時、自分は「憎悪の念が煮えたぎっており、これら残忍で、黄色の、卑怯な地獄の野良犬を呪ってやる。」と語っている。[註19] 日本軍の残虐行為は戦争の全期間を通じて続いた。例えば、1945年3月、ブーゲンビルのある豪軍通信兵は、豪軍の憲兵たちがジープで走行中に日本軍に捕らえられ、ジープに括り付けられた後、焼き殺された、と報告している。アイタペ・ウエワクでの戦闘では、「バラバラに切断され、はらわたが抜き出された」豪第2/3機関銃大隊の隊員の死体が発見された。この死体には「腰から下の左足と右足の一部が欠けており、臀部の肉は全て取り去られていた。」[註20]パプアでの戦闘でも起こっているが、この種の残虐行為、即ち、人食いがオーストラリア人を最も恐れさせた。 もちろん、そのような光景は加害者に対する強烈な憎悪を生み出した。例えば、豪第2/1大隊のある中尉はココダ道を前進する間、片方の腿肉が切り取られた若いオーストラリア兵の死体を目撃して、「部隊全員が激怒し、敵に対する憎しみの感情は爆発しそうだった。」と述懐している。[註21]1945年にアイタペ・ウエワク地区でそのような死者を出した大隊の将校は、次のように論じている。「度重なる日本兵による残虐行為の証拠が部隊に多大な影響を与えた。それは我々の嫌悪感を増大させ、より確固たる敵殲滅の決意を持った兵士を戦場に駆り立てた。」[註22]連隊所属のある明敏な歴史研究家は、宣伝用の逸話ではなく、日本兵による残虐行為の具体的証拠が、イタリア人やドイツ人を憎んだのとは全く異なる形でオーストラリア人が日本人を憎むようになった決定的要因だと語っている。これは日本人に対するオーストラリア人の態度を理解する上で最も重要な点である。 また、残虐行為を「嫌悪する感情」によって、オーストラリア兵の尋常ではない殺人行為の大部分は説明することができる。早くもミルン湾の戦闘の際に、フィールド准将は、「黄色い悪魔は情け容赦など毛頭もないので、我々からも情け容赦を受けないのである。」と日記に記している。[註23] オーストラリア兵が日本兵を捕虜に取らないことは残虐行為への憎しみに大きく起因しているのである。豪第2/5大隊のカム・ベネットは、日本軍の捕虜虐待に対する憎しみが原因で、日本兵を殺す機会がある時は、オーストラリア兵も「日本兵に対していかなる思いやりもかけなかった。」と論じている。 ジャングル戦の実状も日本兵捕虜を取ることを妨げた。ココダの戦いではどちらの側も捕虜を取ることが皆無に近かった。この事実は、極端に険難な土地で戦争捕虜をいかに移送するかという問題を部分的に反映している。敵はジャングルに潜んでおり、待ち伏せに会う危険性が常にあったので、降伏を勧める余裕などはほとんどなかった。どうこう思い悩むよりも、先に発砲することが必要であった。このジャングル戦の論理も敵への憎しみを増大させる要因となった。自分たち同様、敵も道義に則って自分たちを捕虜にしようとする余裕などなかったのである。 ジャングルのどろ、腐食した草木、どしゃ降りの雨、湿気、不気味な物音も、この土地への不快感を敵のイメージに重ね合わせる形で、敵への憎しみを増大させた。ここでは兵士たちは少人数の部隊で孤立して戦った。喜んで死んでいくように見える恐るべき敵と険悪な環境に身を置くことが、兵士たちが遭遇する特異な敵、日本兵に対する個人的な憎しみを助長した。 それではここで、オーストラリア兵が日本人を兵士としていかに評価したかに議論を移そう。オーストラリア兵は日本兵の特定の戦闘能力にしばしば感服させられた。彼らは日本兵の戦闘技術、待ち伏せの技能、抵抗力と粘り強さに敬意を払った。サナナンダで戦ったあるオーストラリア兵は、遭遇した日本兵を「あいつは手強い相手だ。いつも軽蔑される小さな黄色い奴なのに。」と表現している[註24] オーストラリア兵は、敵によって作られた守備陣地についてしばしば恨みながらも敬意の念をもって記述している。例えば、豪第22大隊の記録はフィンシハーフェン近くの土地について次のように記している。 「ここが日本人の領土であることは明白だ。小道の両側に武器を隠したたくさんの壕がある。壕はうまく場所が選ばれており、奇麗に掘られている。これらはコンパスで描かれたように完全な円形で、側面は鉛直である。そして、巧妙な偽装で完璧に仕上げられており、側に近寄るまで全く気付かない。」[註25] ジャングル戦のためにオーストラリア兵を訓練する時に使われた覚え書きでは、日本兵の地面を掘ったり、或いは丘の側面に穴を掘ったりする「非凡な」能力を認めている。 日本参戦後の数ヶ月間に広まった日本兵を超人兵士とする考えについては既に述べた。ミルン湾とココダ道での日本軍の敗退はこのイメージを傷つけたが、超人兵士の概念はなかなか消えなかった。1945年になっても、カナングラ訓練校の訓練概要には、訓練二日目に日本兵を「超人兵士」とする考えは神話であると訓練兵に伝えるべきだ、と書いてある。[註26] どの軍隊でもそうだが、日本軍も部隊によって戦力、経験、能力が異なった。しかし、個々の日本兵の資質の差異はオーストラリア兵が戦った他のいかなる軍隊よりも甚だしかった。特に顕著なのは、オーストラリア兵が1942年に交戦した日本兵とその後に交戦した日本兵との資質の差異である。 1943年から戦闘に加わった多くのオーストラリア兵が日本兵について軽蔑した調子で書き記している。例えば、豪第2/15大隊のキーズ二等兵は1943年10月に妹に宛てた手紙で次のように書いている。 「僕らがここに来た時、どんなに戦況が悪いかとか、ジャップがどんなにすばらしい戦士であるかを聞かされた。まあ、ミン、ここの戦況は砂漠より百パーセントいいよ。(ジャップは)高地に陣地を設けたり、すべての点で有利だけれど、僕らは奴らに出会う度に、奴らを打ち負かし、奴らは逃げていったよ。」[註27] 終戦に至るまでの戦争の後半期、日本軍は初期の戦闘より一般的に容易に打ち負かされるようになっていた。日本軍の戦死者の割合がオーストラリア軍に対して10対1以上の状況の中で、日本兵を軽蔑する雰囲気が増大していった。 1945年3月、豪第2/3大隊のある中尉は、今回彼らが遭遇した日本兵たちは彼らがオーウェン・スタンレー山脈で遭遇した兵士たちにはるかに劣るが、それもそのはず、この敵は東京との通信が途絶え、食料がほとんどか、或いは全くないのだから、と指摘している。[註28] ニューギニアでの日本兵の戦い振りは次のような点で批判された。下手な射撃術、劣った武器、前線近くで大声でしゃべったり笑ったりする不注意な性向、攻撃の単純さ、戦術における柔軟性の無さ、不必要な自己犠牲を払う性向などの問題点である。 つまり、オーストラリア兵の目には、日本兵の死を覚悟した勇気も日本軍の戦力を必ずしも高めていないと映ったのである。喜んで死んでいこうとする日本人の態度も多くのオーストラリア人には奇妙に思えた。一つの例を挙げると、アイタペ近くで捕虜になった日本兵は、撃ってくれるように願って胸をはだけたが、オーストラリア兵の捕獲者が撃たなかったので、「悔しさと屈辱感で泣いた」という。代わりに、オーストラリア兵は「目を覚ませ、このばか野郎。おまえは今どれほど恵まれているのかも分かっていない。」と言ったそうだ。[註29]オーストラリア兵にとっては、死にたがるのは「ばか野郎」だけの行為であり、生きていることこそが「恵まれた」ことなのである。日本人の態度は理解し難かった。彼らの戦場での勇気は、伝統的な軍人の英雄的行為というよりも、しばしば狂信的行為、或いは狂気と見られた。 中東での戦闘を経験した兵の多くが、自然と日本兵とヨーロッパの敵を比較した。 豪第9師団のある歩兵は1943年10月に「戦士としては日本人はイタリア人より少し優れている。」と認めているが、同時に「ジェリー(訳者註:ドイツ人一般)たちとは比べ物にならない。」と述べている。[註30]一方、ギリシアで豪第6師団に所属したあるオーストラリア兵は、ココダとサナナンダで日本軍と戦った後、「日本兵はフリッツより優れた戦士だと思う。」と述べており、先に豪第6・第7師団で中東の戦争に加わった兵士で1942年に日本軍と戦った者の共通の感想だったのかもしれない。[註31]カナングラ訓練校では、「ジャップは我々が戦い慣れたドイツ兵とは異なる。奴らはそれほど優れた兵士ではない。」と訓練兵は教わった。[註32] トブルクとアラメインで後の日本軍との戦闘よりも激しいドイツ軍の抵抗を受けた豪第9師団の戦闘経験者は、大多数がこの判断に同意したであろう。特派員のアラン・ドーウズは、フィンシハーフェンの上陸作戦後、西部砂漠での戦闘経験者の多くが次のように言ったのを聞いている。 「もし、奴らがドイツ兵だったなら、絶対に我々を浜辺に上陸させなかっただろう。絶対にだ。…もし、我々が奴らの場所にいて、奴らが侵略者だったとしても、ジャップは決してこの場所を取っていなかっただろう。」[註33] この結論は意義深い。というのは、オーストラリア人による各国軍隊の等級付けでは、当然オーストラリア軍がその頂点に位置するからである。 1943年から45年にかけて、日本人を軽蔑する態度が広がっていった。オーストラリア軍の勝利は間違いなく、食料と物資の欠乏で半死半生の日本軍には到底勝ち目はなかった。豪軍にとっての惨事が集中した1942年代の大半を通じて、オーストラリア人も優越感を保つことが困難であった。しかし、この時期でも、一人一人比べると、自分たちの方が敵よりも優れた兵士であるという信念に多くのオーストラリア人がしがみついていた。シンガポールで投降した時でさえも、「自分たちより劣った軍隊」に降伏するのだ、と彼らは感じていた。[註34] 1942年代の対日戦の敗北を論じる時、オーストラリア人はいつも数量的な劣勢と航空支援の欠如を嘆いた。彼らの敗北は、自分たちの戦闘技能とは関係のない外的要因で説明された。不合理なことには、後の戦闘の勝利は彼ら自身の戦闘技能によって説明される傾向にあり、数量的優勢、制空権の優位、日本軍の物資の欠如といった外的要因は忘れ去られる傾向にあった。 日本人を取るに足らぬ相手と見下していた時でさえも、実際の戦闘ではオーストラリア兵は非常な警戒心を持って日本兵に対処した。ニューギニアでの日本軍との戦闘には凄絶な悲惨さが付きまとっていた。生きていようと死んでいようと、日本軍の手に落ちるかもしれないという恐怖がこの態度を確実に維持させた。 最後に、私は、本論の題名に使った引用文が提起する問題を論じて、この講演を締めくくりたい。 1945年3月、ニューブリテンで戦闘中のある砲兵は故郷への手紙に次のように書いた。 「あなた方が戦争は本当にくだらないことだ、とじっくり考えるいる間、ここで我々は日本兵を粉々にすることを願いながら、彼らに砲弾を撃ち込んでいる。そして、我々は彼らを小さな黄色人と呼ぶが、しかし、彼らも同じ人間だ。」[註35] オーストラリア人がこのように超然とした態度で日本人について書くのは珍しい。しかし、超然とした物の見方や同情心でさえも時にはオーストラリア人の意識に現れたのである。連合国軍の兵士は、日本人を自分たちと同じような人間ではなく、超人と考えたり、または人間以下、非人間的ととらえていた、とダウワーは指摘している。しかし、この指摘は全くその通りであるとはいえない。時には、オーストラリア人も敵に共感を寄せたからである。彼らは、日本人と同じように、自分たちも赤痢になることがどんなにつらいことか知っていると言ったり、豪軍の銃火にさらされた日本兵の不安を想像したり、上陸部隊が日本兵に向かっていく時の日本兵の反応を思い浮かべたり、また、日本兵がしたように、アイタぺ・ウエワク地区でジャングルに3年間暮らすことは「全く地獄にいるようなものだ」と言ってみたり、と日本兵に同情を示した事例もあるのだ。 捕虜として生存した日本兵は、中東で捕虜となった敵兵ほどオーストラリア人の同情を引かなかったが、時には彼らの心中に怒りや軽蔑以外の感情を触発することもあった。飢えた兵士たちの格好を見て、オーストラリア人は「かわいそうな奴」という言葉を発することもあったし、食べ物、水、或いは衣服を与えようとさえした。 さらに、日本兵捕虜を残虐に取り扱うことは道義上全てのオーストラリア人に受け入れられるものではなかった。一例を挙げよう。J.J.メイ大尉は、1943年1月のワウでの激しい戦闘のさ中、ワウ飛行場から負傷兵を移送する飛行機の搭乗手配を担当していた。ある日、彼は一緒に縛られた6人の日本人捕虜が間もなく来るので、飛行機の席を取っておくよう指示された。日本人捕虜は尋問のためにポートモレスビーへ移送されることになっていた。しかし、彼らは予定の時間に来なかった。結局、次のような顛末であった。ここで、メイ大尉の言葉を引用しよう。 「肩にライフルを吊り下げた兵士が現われ、地面の見ながら、彼らは来ない、と私に言った。席を空けておくように頼んでおきながら、今更必要ないとは、一体どういうことなんだ、と私は怒りを爆発させた。何かおかしいと感じたが、たいへん恥ずべき事件が起こっていたのだ。彼らは殺されていた。一人の兵士がトミー銃を彼らに発砲し、皆殺しにしていたのだ。仲間と私は、このことに全く愕然としてしまい、彼らは縛られていたんだぞ、と言うと、哀れな使い走りの兵もまた衝撃を受けており、どのように事が起こったのか説明しようとした。発砲した兵士は、前夜に戦友が彼の側で殺されたということだった。我々にこの話をしなければならなかった哀れなBも含め、この事件は我々に暗い影を投げかけた。」[註36] という訳で、日本兵を同じ人間と見るオーストラリア兵もおり、彼らは日本兵を殺すことは時には道義に反すると信じていたのだった。 日本兵を殺した者たちも感情が揺らぐことがあった。サナナンダで戦ったあるオーストラリア兵は、歩く骸骨に成り果てた一人の日本兵を殺した直後、この日本兵の死骸を「かなり哀れな人間の標本」と表現している。[註37]たとえしぶしぶとは言え、このような告白は敵の人間性を認めるものであり、日本兵を殺した兵士たちはこの点に関して通常より深く考える傾向にあった。サナナンダの別の場所で待ち伏せによって2人の日本兵を殺したオーストラリア兵は、「それは全くの殺人だった。」と述懐している。[註38)メイ大尉は、負傷した一人の軍曹との会話を報告している。この軍曹は、ワウ付近を偵察中に刀を振りかざす日本人将校に出会ったことを話し、明らかに悔恨の念を込めた調子で、「奴を軍医か、その類の兵に違いないと思いましたが、私はこの哀れな野郎を撃たなければなりませんでした。」とメイ大尉に語った。[註39] 日本兵の死体を調べ、遺留品を見たオーストラリア兵は、敵にも民間人的側面があることを時折見出した。ファーンサイドは、1945年にニューギニアで起こった出来事について書いている。ここで彼の小隊は孤立した一人の痩せ衰えた日本兵を殺した。彼らはこの殺人行為について良心の呵責は感じなかったが、死体を調べるにつれて心に焼き付く衝撃を受けた、とファーンサイドは語っている。彼らは二つの品を見つけた。一つはオーストラリアの初歩的な地図で、もう一つは美しい日本の少女の色褪せた写真である。このような画像類が、敵もまた民間人としての平和な生活背景を持ってるという事実をオーストラリア人に思い知らせた。[註40] しかし、そのような同じ人間だという感情も差し迫った現実の前では消え去ることがあった。1945年1月のある日、豪第6師団の一人の歩兵は、どのようにして彼の部隊が捕虜に食料を与え、怒った原住民から彼らを保護したかを日記に書いている。しかし、次の日、彼の部隊が待ち伏せ攻撃を受けた直後、「捕虜として我々の手にある野獣の一団に対して、昨日持っていたわずかばかりの哀れみも、今日は消えてしまった。」と彼は書いている。[註41]ジャングル戦ではあまり同情心を持つ余地はなかったのである。 この講演の準備をするに当たって、ある一つの逸話がしばしば私の脳裏をかすめた。それはオーストラリア人の下士官スティーブ・サリバンについての逸話である。1945年3月、ブーゲン ビルのスレーターの丘で日本軍と交戦中、彼は部下を連れて戦場を見回っていた。彼らは負傷した一人の日本兵を見つけた。部下の何人かはサリバンに彼を殺すよう進言した。しかし、サリバンは反対した。「私はジャップについても、奴等の捕虜に対する待遇についても全て知っていたが、私の考えではそれは一人の人間を冷酷に殺す十分な理由ではない。我々は日本人ではないのだから。」と彼は当時の事件を回顧している。[註42]サリバンは、日本人がすることと彼が認めている行為、即ち、無防備の人間を殺すことができなかった。しかし、この戦争では、それはオーストラリア兵が日本兵にする行為でもあった。我々は日本人ではないという事実によって、サリバンはその日本兵を殺さなかった。しかし、他のオーストラリア人にとっては、この事実こそが日本兵を殺す正当な理由になったのである。奴等は行動も容貌も自分たちと同じでない。だから、奴等を殺してもいいのだ。こう彼らは考えた。皮肉にも、互いに対する残虐行為に ノおいて、オーストラリア人と日本人には共通点があったのである。 この逸話が示すように、オーストラリア兵の日本人観を一般化することは難しい。しかし、日本兵に対する彼らの感情については厳しい結論を出さざるをえない。日本兵の戦闘能力については彼らの評価も様々であるが、彼らは大抵は日本兵を恐れたし、ほとんどいつも憎んでいた。その結果、彼らは日本兵を殺すことに情熱をたぎらせたのだ。 Notes 1. Pte R. Robertson, 2/2 Bn, Letter 15/12/42. 2. Gullett, Not as a Duty Only, p. 127. 3. Cpl J. Craig, 2/13 Bn, Diary 28/12/43. 4. Battle of Wau, p. 50. 5. Legg, War Correspondent, p. 54. 6. Wells, 'B' Company Second Seventeenth Infantry, p. 159. 7. Sig T. Neeman, 17 Bde Sigs, Letter 16/1/42. 8. G. Johnston, Toughest Fighting in the World, p. 228. 9. Russell, Second Fourteenth Battalion, p. 123. 10. 'Japanese Threat', Oxford Companion to Australian Military History, p. 323. 11. In report: 'Operations Milne Bay 24 Aug-8 Sep 42, Lessons from Operations', p. 11. 12. Not as a Duty Only, p. 127. 13. Johnston, Toughest Fighting in the World, p. 207. Dower, War without Mercy, pp. 53, 71. 14. Diary 20/9/43. 15. Charlton, War Against Japan 1941-1942, p. 34. McKernan, All In, p. 141. 'Japanese Threat', Oxford Companion, p. 324. 16. AWM 3DRL 6599, 'Aus. Trg. Centre Jungle Warfare Canungra Training Syllabus Precis & Instructions', Serial No. 29. 17. Not a Conquering Hero, p. 83. 18. Robinson, Record of Service, p. 99. 19. O'Brien, 'A Rat of Tobruk', p. 21. 20. Australian Archives (Vic): MP742/1, File No. 336/1/285. 21. Givney, First at War, p. 288. 22. Long, Final Campaigns, p. 342. 23. Brig J. Field, 7 Bde, Diary 31/12/43. 24. Tpr B. Love, 2/7 Cav Regt, Diary 12/1/43. 25. Macfarlan, Etched in Green, p. 123. 26. AWM: Canungra Training Instructions, Serial No. 62. 27. 4/10/43. 28. Lt B.H. MacDougal, 2/3 Bn, Letter 20/3/45. 29. Bentley, The Second Eighth, p. 186. 30. Pte Keys, Letter 4/10/43. 31. Robertson, Letter 15/12/42. 32. AWM: Canungra Training Instructions, Serial No. 19. The lecture continued: 'but is, as has often been described, "a cunning little rat".' 33. Dawes, 'Soldier Superb', p. 44. My emphasis. 34. Walker, Middle East and Far East, p. 520. 35. Gnr.G. Chapman, 2/14 Fd Regt, Letter 10/3/45. 36. Diary 30/1/43. 37. Love, Diary 14/1/43. 38. Quoted in ibid, 31/12/42. 39. Diary 4/2/43. M.O.- Medical Officer. 40. Half to Remember, p. 195. 41. Pte Wallin, 2/5 Bn, Diary 20/1/45. 42. Shaw, Brother Digger, p.136. | ||||
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