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防衛大学教授 田中宏巳著 はじめに ドイツは1945年5月、日本は同年8月にそれぞれ降伏しました。両国の降伏について、最も大きな相違点は、ドイツでは、連合軍がベルリンまで進撃し、ドイツ軍の戦力が完全に消滅したのに対して、日本では、連合軍の日本上陸作戦が開始される直前に、天皇の命令で突然降伏したことです。この降伏の特色が、陸海軍および戦争に関する資料の運命を大きく変えることになりました。 ドイツでは、連合軍のドイツ国内への進撃が速かったために、処分する前に接収された資料が沢山ありました。これに対して日本では、1945年8月15日に降伏の受け入れを発表し、連合軍の日本占領が始まるまでに、たっぷり時間がありました。 その上、よく統制された250万の日本軍がまだおりました。 この大軍が、連合軍が来る前に資料の大焼却作戦をやったのです。いや上陸した連合軍も、日本軍の焼却中止を命じた形跡がないのです。焼却が中止させられたのは、あとで説明するWDC(Washington Document Center)が、日本に入った1945年10月末にGHQに強い勧告を行った時でした。 降伏受入れから焼却中止命令が出される2ヶ月半の間に、どれだけの資料が焼却されたのか見当がつきません。以前、この問題に質問されますと、私は99%と答えましたが、最近は99.9%と答えるようにしています。しかし残された0.01%の資料についても、従来政治学者がこの時代を担当してきましたので、十分な調査がなされてきませんでした。最近ようやく私のような歴史学者が、この分野に進出できるようになり、資料の行方について明らかになってきました。 1.戦時資料に関して:種類と場所 連合軍が占領した時、日本国内にあった資料は、次の三つに大別できると思われます。第一は、戦争中、爆撃を避けるために安全な場所に移されたもの、第二は、焼却直前であったもの、第三は、個人が非公式に持ち出し、自宅等に隠したもの、です。 第一と第二の資料の接収に当たったのが、アメリカ陸軍のWDCでした。 WDCは、MDC(Military Document Center) から発展した情報機関ですが、1945年には、ドイツと日本で、戦犯追求に必要な資料の収集を目的としたBlack List作戦を行う計画を立てていました。WDC が日本で活動を開始するのは、1945年11月はじめからです。 アメリカ陸海軍の連合軍通訳翻訳局(ATIS), JICPOA, SEATIC, SHAEF等の協力を得ながら、1946年3月末までの5ヶ月間、徹底的に収集を行いました。 アメリカ陸軍の記録である “Operation of MIS”には、 Item の総計477,894となっていますが、アメリカへの発送を担当したATIS の伝票番号は、704,583となっています。 私はATIS の伝票の方が正しいと思いますが、“Operation of MIS”の数字も決して少ないものではありません。 WDC以外にも、アメリカ陸軍の The Map Service, マッカーサーの私的歴史家といわれたプランゲ博士、アメリカ海軍の公式な太平洋海戦史であ“History of U.S. Naval Operation World War Ⅱ“ の編纂を命じられたS.Morrison のグループも、資料の収集に当っていましたが、詳しいことは不明です。 さてWDC が収集した資料は、戦犯裁判に使われることなく、official document 、主に陸軍の「大日記」、海軍の「公文備考」などは、NARS(National Archives Record Service) に移管され、情報性の高いものはCIG(Cnetral Intelligence Group)に、また文献類(printed matter) はLC(Library of Congress)に、それぞれ移管されました。 CIGは、その後、CIAに吸収され、資料も一時期CIAの所有になりました。 この資料の中に、関東軍が調査したシベリアのソ連軍、満州の中国軍に関するものがあり、朝鮮戦争の際、大いに利用されました。 朝鮮戦争の終了後、CIAの資料はLCに移管されましたので、Itemの数から申しますと、WDC 資料の80~90%はLCに引渡されたということになります。 2.WDC資料の日本返還 1953年頃から、日本政府はアメリカ政府に対して資料の返還を要求しはじめました。返還要求の内容を調べてみますと、NARSが管理していたofficial document だけを求めています。当時このdocument は、Washington郊外のポトマック川に面した魚雷の倉庫に、ほとんど箱詰の状態で放置されていました。 なぜLCにあった資料の返還を要求しなかったのか謎です。 手書き文書は資料的価値が高く、印刷されたものは低いという誤った先入観が原因であったかもしれません。 4年間におよぶ交渉の末、ようやく日本に返還することが決りました。この間、日本への返還を予想してdocumentのマイクロフィルム化をすることが計画され、フォード財団(Ford Foundation) の援助を得て、アメリカの著名なアジア研究者であるDr. Wilbur、 Dr. Reishauer、 Dr. Morley、 Dr. Beal らがlist up しました。 これ等の研究者たちは、同一内容と思われるdocumentがあると、自分の研究室へ持って帰ったと伝えられており、マイクロフィルム化の過程でなくなったものがありました。 返還は、1958年3月に行われました。Itemの総数21,926、日本側が予想したものより30%以上も少ない量でした。資料を受け取ったのは、交渉中に設立された防衛庁戦史室でした。第二次世界大戦を編纂するために設立されたこの機関は、返還資料の中にあった戦争中の諸外国の雑誌、技術関係資料を不必要として他機関に移管し、事実上廃棄処分しています。 その後の調査で、まだdocumentがアメリカにあることを知った戦史室は、1965年に2度目の返還請求を行いました。しかし67年に返還された時、その直前に法律改正があり、document類は国立公文館に引き取られてしまいました。 3.資料タイプ(1):WDC資料とその内容 返還されたdocumentの多くは、陸海軍が戦後まで残そうと考え、戦時中、安全な場所に避難させていたものです。つまり秘密度が低く、連合軍に接収されても、日本の戦争責任には影響しないと判断されたdocumentであるというのが、重要なポイントです。このdocumentには、将兵の年金計算の根拠となるものが相当数ある。中には軍備増強計画や予算に関係するものがあるが、多くはありません。これらのdocumentから見える歴史は、極めて限られた部分のみである点に注意しなくてはなりません。 WDC によって接収された資料のうち、今日確認できるのは、日本に返還された分と、LCの Japanese Section が管理している約7,000のItemである。特にLCに移管された分の行方不明が余りに大きい。 アメリカの主要な大学に分配されたものもあるが、図書館に入った分は追跡できるが、研究室に入ってしまうと、ほとんど明らかにできない状況です。 またWDCの資料のうち、飛行機関係の資料は、OHIO 州Dayton のアメリカ陸軍実験航空隊Rightfield 基地で整理され、マイクロフィルム化された。German-Japan Air Technical Documentと名づけられたマイクロフィルムは、全部で340 Reels に達する。 この中、ドイツのものは303Reels になるが、日本のものは、わずかに37 Reels でしかない。内容も、ドイツのものは実用実験資料が大部分を占めるのに対して、日本のものは基礎実験資料が圧倒的に多くを占めています。 4.資料タイプ(2):WDC以外の資料とその内容 WDC以外に、戦争中、アメリカの情報機関が収集した資料についても触れておきたいと思います。アメリカ海軍の潜水チームが、沈没した日本の艦船を捜索し、引揚げられた資料である。巡洋艦「那知(なち)」の資料が最も有名で、我々はこれらをNachi Documentと呼んでいます。ワシントンのNavy Yard 内にあるNavy Historical Centerが保管している。 アメリカ海軍が最もほしかったのは、暗号表であったはずだが、それに類するものは一つもありません。 ATIS は、創設当初、オーストラリアで活動し、連合軍の反撃に必要な重要な情報を提供した機関である。ATISの活動の一つは、日本軍が戦地に残したあらゆる資料を収集し、日本部隊の戦歴や指揮官の経歴を分析して、能力や戦意を読み取り、以後の作戦指揮に貢献したことである。そのため ATIS資料には、預金通帳、軍人手帳、手紙など、何でもあります。こうした情報の収集は、次の敵の行動にだけ関心がなかった日本軍では全く行われませんでした。 ニューギニアでは1618件、サイパンでは27トン、テニアンでは約20万件、フィリピンでは34万件という膨大な資料が収集されました。 戦後、ニューギニア関係資料はこの地域を管轄することになったオーストラリア軍に引渡され、現在の AWM82 になっている。しかしAWM82の中、ATIS関係は Item;585であり、1618に遠くおよびません。その他の ATIS 資料の一部が、1955年頃から数年間、ワシントンのLCの Japanese Sectionに持ち込まれたが、 LCもあまりに多いこの資料の処置に困り、1962年頃、陸軍のトラックで運び出してもらったといわれています。しかし、その後の行方はわかりません。LC の関係者の話では、ハワイに持って行って焼却したそうですが、焼却するだけなら、ワシントンでもよかったのではないかと思います。私はまだあきらめていませんが、目下のところ、ATIS 資料はAWM82 が唯一のものといわねばなりません。 5.歴史の編纂:日本における資料と聞き取り このようにdocument やprinted matterは、ほとんどが焼却された上に、焼却をまぬがれてアメリカに接収されたものも、アメリカ国内で多くが行方不明になりました。このため、第二次世界大戦後、戦争や陸海軍の歴史を編纂しようとする場合、どうしても資料不足に直面することになります。文書の資料が足りない時には、軍人たちにインタビューをして、聞き取り記録をつくり、これによって不明の部分を補うほかありません。 最近日本でも、oral historyの重要性が認識されるようになり、いかに客観的で正確な聞き取り記録を残すかについて、活発な議論が行われるようになってきました。 さて、戦後に行われた聞き取り調査は、二期に分けることができます。 第一期は、戦後すぐに戦地から帰還軍人に対して行われた調査で、復員省が担当しました。1945年秋から1949年にかけて、日本に上陸したばかりの軍人を港の施設に拘束して実施されました。将校や下級の兵士にも、同じように行われました。 第二期は、防衛庁戦史室が戦争史編纂の必要上から行ったものです。1960年から75年頃にかけて、主にかって高級将校であった人を対象として実施されました。戦争史でさえ、決して若かったとはいえない人達で、さらに戦争から15年から20年以上も過ぎてインタビューしたのですから、聞く側の苦労が想像できます。 二つの聞き取り調査を並べて説明しましたが、すぐに第一期の重要性が理解できると思います。そこでもう少し詳しく第一期について論じることにしましょう。 第一復員省史実部と第二復員省史実調査部は、GHQと日本政府の両方から調査活動を命じられています。 GHQの戦犯担当部門からは、戦犯行為を立証できる資料の収集を命令されました。他方日本政府からは戦犯の無罪を証明できるような資料の調査を命じられています。戦犯の裁判中、裁判官から無罪を証明する証拠の提出を求められたとき、資料を全部焼却し、何も残っていないために、日本政府は何度もくやしい経験をしたからです。 第一復員省史実部と第二復員省史実調査部をfull nameで呼ぶのは大変ですから,ここで復員省と呼ぶことにします。 復員省は、まだ日本国内に残されていた文書資料の発見につとめるとともに、戦争中、国内で重要な政策や作戦の立案、重要なプロジェクトの指導などに従事した人達に手記の提出を求めたり、質問書に対する回答の提出を求めました。 そして最も大規模に行われたのが、海外から帰還する将校に対する調査活動でした。 6.復員省による聞き取り調査 帰還兵に対する調査活動は、二つの方法で行われました。 まず一つは、帰還船の航海中に調査用紙に記入させる方法です。現在、日本で公開されている資料には調査用紙は一つもなく、AWM82の中にある4枚1組の調査用紙が唯一のものです。大切に保存していただき,心より感謝します。 私が行ったインタビューの中に、船中で調査用紙に記入していたとき、上官から「詳しく書くと、戦犯になるかもしれないから気をつけろ」と注意されたことを覚えている人がいました。英軍から逮捕状が出されていた日本兵が、この調査用紙から部隊と氏名が発覚し、日本に上陸した2日後にマレーシアに向う船に乗せられ、再び帰って来なかったという話もあります。正しい名前を書かなければ日本に上陸できないし、書けば逮捕されるというジレンマで苦しんだ日本兵が沢山いたと考えられます。 二つ目の方法は、日本兵が上陸した港で行う聞き取り調査です。上陸後、2~3日、部屋に拘束して調査し、かなり詳細な記録を作成したといわれています。 しかし復員省の調査官は、合計しても100人になりませんし、他の省の協力を得ても、専門知識と経験を有する者は限られていましたから、上陸地で聞き取り調査のできる者は、せいぜい数十人であったと考えられます。したがって海外から帰還した将校約250万人のうち、聞き取りを受けたのは、ほんの一部の将校、すなわち1万人~2万人の間と推測しています。 聞き取りを受けた者のうち、戦犯の不安のない者は、実によく“しゃべった”と伝えられています。軍による厳しい監視がなくなり、アメリカ式の民主主義の導入の下で、自由に話ができる喜びに、つい何でもしゃべったのです。 天皇を批判する者もいれば、陸海軍の指導者、作戦計画を痛烈に非難する者、自分の指揮官を糾弾する者もおりました。驚くべきことは、帰還船に乗り込む際に連合軍によってメモや文書を取り上げられたにもかかわらず、実に正確に記憶していたことです。たとえば、部隊が戦闘した日時と場所、その際の死者や負傷者の人数、消耗した弾薬量やガソリンの容量、弾薬や食糧の残量を0.1の単位まで覚えており、それをスラスラと紙に書き出すことができたといわれます。彼らは、日本に帰国して戦闘経過を報告するのを軍人の義務と考え、連合軍にメモや文書を取り上げられる前に必死で暗記したと回想しています。 しかし復員省の調査官に分厚い報告書を出した将校は、長い緊張状態から解放された結果、20年後に報告書の提出について質問しても、まったく覚えていない者が多い。それほど緊張した中での記憶の放出であったわけで、その内容の客観性、信頼性はかなり高いと判断しています。 7.復員省による戦史 こうした聞き取り調査の記録を、GHQは戦犯裁判に利用しなかったと思われます。他の証拠が見つかったためか、あるいは確かな証拠なしで裁判したためか、はっきりしたことはわかりません。記録を戦犯裁判に利用したのは日本側だけでした。 GHQは、1948年頃、復員省に対して、200近い subject を選び、日本で発見された文書や聞き取り記録に基づき報告書を作成するように命じました。誰が、何のために、このような計画を思いついたのかわかりません。 報告書は、いずれも150頁~200頁に達し、私はこれを「復員省戦争史」と呼んでいます。豊富なdata を掲載し、記述も細部にわたっており、信頼性の高い内容です。「復員省戦争史」は、1950年に第1号が完成し、1954年に全部が完成しました。すべて日本語で記述されています。 「復員省戦争史」は、GHQ の命令によって編纂されましたので、完成するごとに、連合国に配布されたと思われます。アメリカ国務省に提出されたこの戦争史は、現在LC のAsian Division に所蔵されています。また英国に提出されたものは、最近、「Imperial War Museum, Dept. of Document」にあることが判明しました。オーストラリアにも配布されているはずですが、まだ確認していません。もしご存知の方は、教えて下さい。 今日までのところ、「復員省戦争史」が研究に利用された例はほとんどありません。 今後の課題として残されています。 ところで復員省が作成した膨大な聞き取り記録は、その後、厚生省に移管されたものの、行方不明になります。 98年に外務省が保有する戦犯関係資料が公開されましたが、その中に、最後の戦犯が釈放された1958年に、厚生省の戦犯関係資料が法務省に移管されたことを示す記録が出てきました。復員省の聞き取り記録も、元来、戦犯裁判に必要な証拠をつくるために作成されたものですから、戦犯関係資料として法務省に引き渡された可能性が大きいと考えられます。 法務省は、私の質問に対して、「あるともないともいえない」という、いかにも日本的、もしくは世界共通の官僚らしい回答を寄せています。 8.防衛庁による戦史 防衛庁が発足して間もなく、日本側の手で第二次大戦の戦争史を編纂する計画が持ち上がりました。「太平洋戦争史」としないで、「大東亜戦(争)史」と名づけられたことからも、この計画に対する姿勢がうかがわれます。 復員省と異なるのは、アメリカからofficial document を返還してもらい、これを核として編纂を始めようとした点です。しかし返還された「大日記」「公文備考」は、陸海軍のadministrate document であり、これによって1870年代から1930年代までの陸海軍のMilitary Historyは書けても、1941年から始まる戦争の歴史を書くのは困難でしたが、悪いことばかりではありません。 たとえば海軍関係では、海軍の功績調査部が横浜に避難させてあった艦艇の大戦中の「戦闘詳報」「航海日誌」等が返還された中に含まれていたため、艦艇の行動を followするのは比較的容易でした。 また編纂作業が開始されたのが、1950年の講和条約成立後で、やっと占領から解放されたという意識が広がった時期というのも幸いでした。それまで隠されていた資料が、予想外に多く出てきたのです。国防政策の基本方針を定めたのもあれば、動員計画案もいくつか出てきました。 戦争指導の核心に迫る資料の出現によって、陸海軍がどのような姿勢で戦争に臨んだか、かなりの程度まで明らかにすることが可能になりました。 しかしこれで十分であるはずはなく、ことに個別の戦闘経緯については、どうしても関係者に対する聞き取りが不可避でした。防衛庁側から係官が出向いて聞き取り調査をする場合と、質問事項を渡して回答を提出してもらう場合とがありましたが、すでに高齢になっていたため、後者の方が多かったといわれています。戦争から20年以上も経た回答文には、日本の正当性を主張し、自己に責任がないことを弁明する内容のものも少なくありません。したがってこれらの聞き取り記録および回答文には信頼性が低いと判断しています。 なお個人の記録で、どうしても触れる必要のあるのは日記やメモです。 戦争中、国内にいた軍人は、かなり詳しく日記やメモをつけておりました。終戦前に亡くなると、陸海軍の係官がやってきて、official document や国の機密を書いたものがないか家中を調べ回り、見つかれば直ちに没収されました。したがって終戦までに戦地で死亡したり、国内で死亡した高級軍人の家には、何もないのが普通です。 もし運良く戦後まで生きのびれば、家に隠し持っていた資料のほか、個人の日記やメモも無事ということになります。これらが、防衛庁の戦争史編纂に一定期間借用され、編纂業務を助けました。編纂事業は、1978年に102巻を刊行して終了しました。借用された日記やメモは、一部を除き、本人や家族に返還されました。 9.日本におけるプライバシー問題とその影響 最近のプライバシー至上主義の風潮の下では、これらの日記やメモを再び見るのは、ほとんど不可能です。防衛庁側に寄贈された日記やメモも、家族の同意がなければ閲覧できない状態です。 最近の風潮の影響によって、個人の資料ばかりでなく、official documentの中にある個人の名前や行為については、家族の同意を必要とする方向に動いている。いつか法務省が保管していると思われる復員省の聞き取り記録が公開されても、このプライバシー問題が解決されない限り、記録の研究は困難である。 戦後の50年間、アメリカ式民主主義の導入と軍部の監視がなくなった1945年から60年頃の自由な雰囲気が次第に変化し、「大東亜戦争」を正当化しようとする風潮、何でもプライバシー侵害と騒ぎ立てる風潮とによって、研究がやりにくくなっているのが実情である。 10.おわりに 最後、戦争に関する資料を探し回っている間に、戦後の日本の歴史に関する資料が少ししか残っていないことを知り唖然としています。大量生産、大量消費の現代の風潮が資料の世界に浸透し、記録の大量作成、大量処分が趨勢となり、気づいてみたら“ちょっと”だけという結果になっています。貴国には、こうした日本の失敗がないことを祈念して、終りに致します。 | ||||
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