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防衛大学教授 田中宏巳著 はじめに 1943年のラバウルをめぐる海軍航空隊と連合軍航空部隊との航空戦について、戦争中日本国内で大々的に報道され、戦後も零戦の勇姿をラバウル航空戦に重ね合わせた著作が多く、日本人の多くは海軍航空隊および零戦の基地であったというイメージぐらいしか持たれていません。また、戦争史研究の中では、ラバウルの陸海軍がかかわったガダルカナル、ブーゲビル、東部ニューギニアにおける戦闘について取り上げられているが、ラバウルそのものについては、極めて少ないのが実情です。 今日は、戦争の後半期と戦後のオーストラリア軍の統制下にあった時期のラバウルの日本軍についてお話しします。戦争中の日本軍をテーマにすると、戦闘の話が多いと思われがちだが、今日はいかに生き延びたかという話が主になります。 1.ラバウル:供給基地から自給自足システムへの転換 日本軍のソロモン方面進出は、予定外の行動でした。アメリカ軍がハワイでなくオーストラリアに後退したので、アメリカとオーストラリア間の交通を遮断する必要を感じた結果でした。連合軍がガダルカナルで反撃を開始し、ソロモン全域で海空の激戦が始まると、後方にあるラバウルの軍事的重要性が急上昇しました。また、日本軍は、ソロモンで苦戦中であるにもかかわらず、ビルマのインパール作戦にも劣らない愚かな作戦であったニューギニア進攻を開始したことも、ラバウルの重要性を促進しました。 こうして、重要性を増したラバウルは、二つの役割を持つことになりました。第一は、良好な船の停泊地と飛行場を有しているため、ソロモンやニューギニアに対する作戦の前進基地になったことです。第二は、ソロモンやニューギニアへの兵站(補給)基地になったことです。すなわち、この方面に進攻する艦隊や上陸軍が集結し出撃する基地であり、この方面に送る軍需物資や食糧の集積所でありました。 1942年10月、草鹿任一中将の率いる海軍第11航空艦隊と司令部がラバウルに設置されました。約35,000人の兵力です。この頃、陸軍第17軍がラバウルからソロモンに進出し、この後に、今村均大将が率いる第8方面軍司令部が設置され、東部ニューギニア、ニューブリテン、ソロモンの陸軍を指揮するようになりました。ラバウルとニューアイルランドだけで、65,000人の兵力でした。 陸軍の第8方面軍司令部と海軍の第11航空艦隊司令部の指揮下の陸海軍の大部隊が、同じ場所に展開するのは、太平洋戦争において例外中の例外といっていいほど特殊な例でした。なぜなら、陸軍と海軍は、敵との関係よりもっと悪い関係だったといわれるからです。 ラバウルの陸海軍の特徴は、その役割の下で、大きな補給部門を持っていたことです。陸軍の第8方面軍経理部、海軍の第8海軍軍需部がその代表で、各部隊にも同じ部がありました。この陸軍の経理部と海軍の軍需部が、1944年から46年までのラバウルにおいて、中枢機関となって日本軍の生命を守ることになりました。したがって今日の話の中心は、この部門の活動と成果について、ということになります。 陸軍の第8方面軍経理部は、はじめ庶務科、主計科、衣糧科、建築科から構成されていましたが、43年4月に現地自活隊が追加されました。主計科は、円、ピアストル、バーツ、ルビー、ギルダー、ペソ等、おそらく今の金額にしてA$12億程度にのぼるのではないかと思われる膨大な資金を持っていた。1944年6月に、欲のない連合軍が約半分のお金を爆撃で焼き払い、残りは終戦の時に焼却しています。衣糧科は、主に被服と食糧の調達、集積、補給を任務としていたが、同科の倉庫には、10万人の1.5ヶ月に相当する補給用食糧と、3ヶ月分の予備食糧が保管されていました。 また建築科は、地上に施設を建築してもすぐに爆撃されるので、地下施設用の木材を周囲の木を切り出して板を生産し、各部隊に補給するのが主な任務でした。現地自活隊は、1943年5月から本格的活動を開始するが、詳しい内容については後で述べるとして、ここでは陸海軍の情勢判断について触れておきます。 太平洋戦争を通じて、海軍は楽観的判断を下し、陸軍は指揮官によって判断が違っておりました。東京の大本営発表を見ても、海軍部の発表は敵機動部隊せん滅というものばかりでしたが、陸軍部の発表には、比較的正確なものと、デタラメなもとのと入りまじっていました。 ソロモンの戦いについてどうであったかというと、ガナルカタルで敗退したあとも、草鹿任一中将を代表とする海軍側は極めて楽観的であったのに対し、陸軍の今村均大将は悲観的で厳しい見方をしていました。今村大将は、ガダルカナル敗退直後に、ラバウルに対する補給も連合軍の海空力によって必ず遮断されると考え、その対策の必要を感じました。海軍を弁護する立場に立つと、ガダルカナルの戦いから間もなく、ラバウルの制空権をめぐる大空中戦が開始され、空中戦には海軍が当りましたので、それに忙殺され、今後のことを考える余裕がなかったという見方もできます。 こうした今村と草鹿の判断の相違によって、陸軍がいち早く現地自活の実施に着手したのに対し、海軍が大幅に遅れることになりました。 陸軍が43年4月に自給自足に関する研究に着手し、農地の開墾や栽培を指揮する機関を編成し、5月から開始しました。これに対して海軍は、44年2月以降、すなわち零戦部隊がトラック島に去ってから、ようやく取り組みはじめました。 海軍としては、最新の零戦300機がラバウルに向う途中、トラック島まで来ていましたので、その受け入れ準備のために大変だったのです。しかしこの援軍が、トラックの航空部隊とともに全滅し、逆にトラック島の空軍力を補うため、ラバウルの零戦を移すことにした。このためラバウルの海軍は攻撃力を失い,自給自足しながら生き延びるほかなくなりました。 ところで海軍は、ラバウルの強化を目指して、1943年10月から12月にかけて大量の武器弾薬と燃料を危険をおかして輸送しました。先と零戦の援助もその一環です。 したがって日本からの補給が途絶えた1944年2月以降、ラバウルの陸海軍には、対照的違いができていました。違いとは、陸軍が食糧や被服等日用品の大きな備蓄があったのに対して、海軍は武器弾薬と燃料の備蓄がありました。ラバウルでは極めて珍しく協力関係にあり、協定など結ばなくても、相互に必要なものを融通し合って自給自足を目指すことができました。 先に農耕地の開墾に着手した陸軍は、44年2月には2,500haの農耕地を獲得し、自給率50%を越えていた。連合軍の爆撃が毎日あり、他方で防備体制の構築と各種施設の地下化の工事があり、開墾に人手を割くのは容易でなかったが、結果としては計画以上の進捗でありました。 当時の日本の全人口に占める農業人口が45%を越えており、兵士の2人のうち1人は農業出身だったことが成功の一因と考えられる。また、陸軍の大部分が戦闘部隊であり、これを改編しなくても、防禦と農耕を両立できた原因であったと思われる。最も重要なのが経理部によって編成された現地自活隊のすぐれた計画と指揮であった。 海軍は、基本的に技術者集団であり、特にラバウルは飛行機を飛ばす能力を持った高い技術集団であった。したがって通信隊、航空技術廠、工作部、施設部、気象部といった組織で編成され、飛行隊のいなくなったあとの防禦ができる体制ではなかった。病院とか軍需部、工作部などの必要な機関だけを残し、後は防禦を目的とした7つの部隊に再編成した。まったく地上戦の教育を受けたことがなかったので、陸軍側から指導者を出してもらい、初歩から教育と訓練を行いました。しかし、海軍の場合、地上に上げた艦載砲、航空機用の爆弾や魚雷、航空機用の燃料を、防禦戦に役立てる方法が研究され、陸軍とはかなり異なった防禦策が推進されました。 連合軍がラバウル航空隊の移転を知ったのは、数日後のことであったと思われる。これ以後、監視飛行と日本軍が居残りをしない程度の爆撃をするだけになり、西ニューギニア、ビアク島への作戦を強化し、ついでフィリピン進攻作戦の準備を早めました。したがって大局的に見た場合、ラバウル航空隊のトラック島への移転は、連合軍の北上を早めただけであり、適切な選択とはいえませんでした。 そのため北上した連合軍の関心をラバウルに引きつけるため、海軍の軍需部が、飛行場の周囲に残された飛行機の残骸から、使用可能な部品を集めて十数機を完成させた。そこで連合軍に攻撃を加え、ラバウル航空隊がまだ存在していることをアッピールしましたが、流れを変えることはできませんでした。 ラバウル航空隊のトラック島移転を命じたのは、トラック島にあった連合艦隊司令部でした。連合艦隊は、1905年5月の日露戦争中における日本海海戦で大勝利を上げ、以来、日本人は連合艦隊の響きに強い信頼感と安心感を持つようになりました。日露戦争中の連合艦隊は、わずか三つの艦隊から構成され、したがって一戦艦に設置された司令部で統制されることが可能でした。 しかし太平洋戦争中の連合艦隊は、日本海軍の約85%もの艦艇と、80%近い飛行機を指揮下に置く巨大なものでした。しかもこれらの艦艇や飛行機は、西太平洋および南太平洋の広大な海域に展開されていました。こうした巨大な艦隊と広大な海域に展開する艦艇を指揮する連合艦隊司令部は、多くは移動する戦艦の中に設置され、時々、トラック島やパラウ島に設置されました。 ニミッツ大将のアメリカ太平洋艦隊の司令部がハワイから動かなかったのに対して、山本五十六の連合艦隊司令部は、絶えず移動していました。艦艇が多数にのぼり、戦闘海域が広大な場合には、グローバルな視野と判断が必要であり、そのためには司令部は動かない方がいいと考えられます。 トラック島にいた連合艦隊司令部が、ラバウル航空隊のトラック島への移転を命じたのは、グローバル的判断を欠き、自己中心的な判断に基づくものといわねばならない。 島に配置された部隊の飛行機や艦艇を破壊してしまえば、羽を切断された鳥や蝶と同じになる。その口先に手を出せば、かみつかれる危険があるが、何もしなければ害がなくなる。連合軍のために羽を切られ、太平洋の島々に放置された日本軍は多い。広大な戦線の割には、ドイツ軍に比べ死者が3分の1ほどでしかなかった理由の一つは、羽を取られた島に放置された部隊が多かったことにあると思われます。 島々に配備された飛行機を破壊すれば、そこにいる地上部隊は無害かつ無能の存在になるというのが、太平洋戦争が残した教訓といえるかもしれません。 東部ニューギニアからソロモンにかけての日本軍の中枢であったラバウルには、兵器関係の技術者だけでなく、農業技術者や漁業関係者も多数おりました。兵士の半分近くが農家の出身であったことは前述したが、残りの都市出身者は、数人または10人から20人の零細企業の出身者が多くを占め、1人で何でもできる器用さを持っているのが普通でありました。 海軍も、1944年3月頃から、部隊の再編成と教育訓練のかたわら、自給自足体制に入りました。 陸海軍の協力関係を背景に、ラバウルでは何でも生産されました。主食のタピオカ、タロイモだけでなく、豆類、とうもろこし、野菜等が栽培されました。こうした食糧は、基本的に部隊の周囲に開墾された農地で栽培されました。これに対して、塩、椰子油等は条件が揃った部隊;陸軍の現地自活隊や海軍の軍需部が生産しました。 また自活に必要なマッチ、紙、味噌、醤油のほか、バッテリー液にする硫酸、インク、布等まで製造され、当時の日本国内より物資が豊富であったかもしれません。さらに火薬や75.5cm砲の製造も行い、火力もむしろ増強したとさえいえます。こうした製品を製造するには、多量の電力を必要としましたが、発電には、海軍工作部が担当し、豊富な燃料によって常時電力の供給に成功しています。成功しなかったのは、マラリア剤の製造で、シマソケイと呼ばれる植物の樹液が効果があるといわれ、その精製まで行っていますが、実際には効果がありませんでした。そのためマラリアには苦しむことになりました。 ラバウルにおける自給率は、45年8月には85%を越えるレベルに達しています。 したがって備蓄食糧も、2ヶ月分程度を残したところで終戦を迎えることができました。 この間、1943年に瀬戸内海から回航してきた小型機帆船を利用して、ニューアイルランド島やヨーク島等に食糧の補給を行ってきたのは驚くべきことです。 日本の産業水準の低さや、軍隊の組織的行動力が、自給自足の成功につながったというのは皮肉なことです。ラバウルにおける自給自足の成功は、むしろ産業水準の低さを証明したわけだが、他方で高い性能の飛行機や航空母艦を建造し、大規模な作戦を実施するというアンバランスが、太平洋戦争時代の日本社会および日本軍の特徴ということができます。 2.降伏後の自給自足とキャンプでの生活 戦後、日本の戦争関係者の間に、ラバウルが自給自足に成功し、独立国のような様相を呈していたという話が広がったことがあります。日本からの補給が断たれて1年半近く、何も困らずに生活していたことや、終戦後、日本政府の送金を受けなかった特別な例であったことが、こうした話の起源になったと思われます。 ラバウルでの自給自足の成功は、ラバウルの陸軍関係者や海軍関係者の手記や回顧録によって誇らしげに明らかにされてきた。しかし、降伏から帰還までの間については僅かに触れるのみで、具体的なことは、ほとんど伝えられてきませんでした。降伏を認めない日本軍の思想のためもありますが、この時期の歴史的価値を認めない姿勢によって、積極的に評価せず、したがって調査の対象にされなかったのが主要な原因です。さらに、降伏からキャンプ生活の間の文書類が全くないことも大きな理由でした。キャンプで発布された文書は、復員船に乗る際に手荷物検査を受け、連合軍によって没収されるのが普通です。したがって日本国内に持ち込まれことはほとんどなく、連合軍が保存してくれない限り、残る可能性がありません。キャンプ生活の研究にとって、これが最大の障害でした。AWM82は、この障害を大幅に解決してくれる大きな意義を有しています。ここで改めてAWM82の価値について論じたいと思います。 AWM82は、ATISが1943~44年にニューギニア戦線で収集した日本軍資料と、ラバウルの日本軍が敗戦直後からキャンプ生活を送った46年5月頃までの間に作成した文書類の系統の異なる二つのグループから構成されています。ATIS が日本軍から収集した資料はアメリカに残っていませんので、AWM82 がATIS 資料の唯一のものです。そしてまた降伏した日本軍が日本に帰還するまでの間にキャンプ内で作成した文書としても、AWM82は唯一のものです。この事実から、AWM82は極めて貴重な資料といわねばなりません。 AWM82 には、ラバウルの日本軍が降伏する以前に作成したものが一つもありません。規則に従ってすべて焼却したと思われます。 降伏後の文書は、帰還の際に焼却するか、日本に持って帰るつもりだったかもしれませんが、オーストラリア軍の監視の下では不可能で、逆に復員船に乗る際に没収されたものと考えられます。しかし、豪側が大切に保管してくれたおかげで、キャンプ中の文書としては唯一のものになっただけでなく、従来まったく関心を持たれることのなかったキャンプ生活を、はじめて本格的に取り上げることができるようになりました。この結果、従来漠然とマイナスに評価してきた姿勢を改めて考え直す必要が出てきました。 ラバウルの日本軍は、オーストラリア軍第1軍司令官スタディー中将に降伏し、イーサー将軍の監視下に置かれることになりました。といっても従来の編成は何も変更ありませんでしたので、豪軍の命令を日本軍を代表する今村が受け、命令系統を通じて全軍に伝達されました。 スタディー中将が、ラバウルに10万人近い軍人軍属がいると聞かされて、仲々信じなかったのは有名な話ですが、当時国内や国外にいる兵力を合計しても約100万の豪軍としては、ラバウルに10万、周辺の島々に4万と聞いて頭をかかえたにちがいありません。監視とともに、補給の困難がすぐに理解できたはずです。 45年9月10日、スタディー中将は少々珍しい命令を出しています。日本軍に自分達が入るキャンプを建設すること、そして必要な食糧は自分で生産すること、の二つです。当時世界中で捕虜に供給する食糧が問題になり、やむなく自活した例がありますが、最初から司令官が命令を出し、自給自足させる方針を出した例は、大変珍しいものと考えられます。ヨーロッパと太平洋の各地に展開する軍に補給するのに手一杯であった豪軍には、ラバウルおよび周辺の日本軍に補給する余力がなかったのです。 豪軍の命令には、矛盾がありました。 11~12ヶ所のキャンプに日本軍部隊を集中すると監視は容易になりますが、部隊の周囲に開墾された農耕地を放棄しなければならないため、自給自足体制が崩壊することになります。キャンプの周囲に新しい農地を開墾し、収穫ができるまでに6~8ヶ月のブランクが生じるためです。 日本側の抗議に対して、実質的に第一号の命令を引っ込めるわけには行かなかった豪軍側は、この実施を強制し、10月末までに10ヶ所のキャンプが建設されました。 この後、ココポキャンプを台湾・朝鮮出身者に明け渡し、立地条件の悪いタウリルキャンプを廃止し、最後に高級将校用のタリリキャンプが完成しました。 キャンプの建設は、最優先事項としてほぼ予定通りに進みましたが、肝心の農耕地の開拓と食糧生産の方は困難に直面しておりました。第6キャンプの46年2月18日から21日までの人員調査表を見ると次のようなことがわかります。主にマラリアによる病人が3分の1を占めていますが、戦争中もこの程度であったとみられます。違っているのは豪軍を援助する作業員と、急造のキャンプ内の整備作業に従事する者とが、高い割合を占めている点です。戦争中も全員が農耕に従事していたわけではなく、何割かが戦闘配置についていましたが、しかしこれほど農業従事者が少なかったことはありません。このため自給率が減少しはじめ、戦争中の85%から60%を割る水準まで落ちてしまいました。 昨年私は、毎月10万部程度販売されている日本の「This is 読売」という月刊誌に、AWM82を使ってラバウルのキャンプについて一文を載せました。間もなく20人近い体験者から手紙や電話をもらい、直接会って話を聞くことができました。一人だけ嫌な思い出があったらしく、豪軍について批判的なことを言っていましたが、それ以外の人は、大体次のような趣旨のことを話してくれました。「あなたはどこかで公文書を探してきて書いているらしいが、上層部が危機感を持っていたにしても、自分達のような若い者はちっとも心配していなかった。豪軍が公式に食糧援助を与えなかったとしても、豪軍の兵士がいつも何かをくれた。それに豪軍が何もしないわけではなく、時々砂糖やハムの配給のあったことを覚えている」といった内容です。 AWM82は、公文書であるので、その性格を心得て読む必要があります。公文書は間違ったことを伝えていないが、ニュアンスまで伝えないことが多いので、読み手が様々な方法で補う必要があります。公文書とインタビューを合わせて考えると、自給自足の原則は崩れかかっていたが、その時は豪軍が何とかしてくれるという楽観論がキャンプ内に流れていたように思われます。 こうした情況を考慮しないと、ラバウルの日本軍がこれから話すように、どうして前向きでいられたか理解できないのであります。指揮官にとって、緊張状態にあった戦争期には、軍の統制にそれほど困難を感じなかったと思われます。しかし戦争が終ると戦地にいる目的が失われ、上下関係がゆるんで統制がききにくくなりがちです。今村大将をはじめ幹部が苦心したのは、この点でした。 まず今村は、日本国内の被害状況を説明し、早く帰国するとかえって迷惑になることを説明した。ついでラバウルにいる目的を明らかにして、戦後の復興に貢献するため、勉学につとめ高い職業能力を身につけること、特に科学技術の分野における知識を高めることが重要であるとしたのです。なぜ科学技術の教育を重視するかといえば、戦後の日本は軍備をやめ、科学技術に精力を傾ける国家に変る、この結果、日本の科学技術は非常な進歩を遂げ、やがて優秀な日本製品が世界中に流通することになるからだとしています。 つい最近までは、この展望どおりに日本の歴史は進んできました。アメリカの軍事力のカバーの下で、科学技術の発展と、経済の発展に集中することが可能でした。長い間南太平洋の孤島に取り残され、戦争と自活に明け暮れていた今村が、こうした展望を持っていたのは驚くべきことです。こうした展望に立ち、ラバウルのキャンプ生活を日本復興に貢献する科学技術に重点をおいた能力を身につける準備期間と位置づけたのです。 教育が重視され、各種作業の合い間に授業時間をくり入れています。高級幹部が入った第12キャンプの資料は、若干授業時間が少なくなっています。他のキャンプの資料がありませんが、インタビューでは1日3時間、多い時には4時間の日があったという証言があります。 2年~3年間の授業計画表がありました。「進学のための教育」というのは、大学入試に備えるための授業です。高級将校は高い教育能力を持っていましたので、教科書の編纂をはじめ、高校程度の授業まで行いました。 敗戦のショックで虚脱感に苦しんだ例が他の地域では少なくありませんが、ラバウルではそうした例はありませんでした。ラバウルでの実質的終戦が、航空隊がトラック島に去った1944年2月であったことと関係しているかもしれません。あるいは自給自足に忙しく虚脱感に陥る余裕がなかったかもしれません。日本にいる時には勉強大嫌いな兵士達も、ラバウルでは、一生懸命勉強しています。また、机に向う勉強だけでなく、電気製品の整備や電気工事、自動車の整備、施盤の使い方、木材製品の作り方など、デスクワークが嫌いな生徒に合った職業別教育もあり、教える側も学ぶ側も、充実した教育が軌道に乗りつつありました。 ところが、予想外に帰国が早まりました。当初、日本政府からの連絡で、食糧に恵まれたラバウルからの復員は、1948年頃と伝えられておりました。戦地にいる日本軍の管理は連合軍の担当ですが、復員船の派遣は日本側の担当です。 どういう地域から先に復員させるか方針があったはずですが、記録が発見されていません。おそらく政情の不安定で港に日本人が殺到して混乱した地域や飢餓状況にある島々が優先されたものと思われます。したがって日本に帰って貢献できるようにと勉強に励むラバウルは、後回しになるのが当然です。ところが、1946年2月に復員を開始する旨の連絡が入りました。実際には、第1陣の帰国は4月下旬になりましたが、それでも予想より大幅に早まりました。 その原因として、三つ考えられます。一つは、日本軍の管理に負担を感じ、自軍の兵士を早く郷里に帰したかった豪軍が、GHQを通じて復員船の早期派遣を日本政府に強く求めた可能性である。二つ目は、復員船は通常いくつもの場所を回り、少しずつ兵士を載せて帰国する方法を取っていましたが、ラバウルの近く、たとえば西ニューギニア方面の兵士が飢餓状態にあり、この兵士を急ぎ引き取るため、ラバウルに立ち寄る時期が早まった可能性です。第三は、朝鮮や台湾、インドなどの出身者をできる限り早期に送還する方針を決定した連合軍が、日本政府に優先的配船を命じ、朝鮮、台湾出身者の多いラバウルへの配船が早まった可能性です。 一隻の復員船に乗れる人数には限りがあります。第一キャンプからという案もありましたが、復興に役立つ者を優先することになり、まず技術者が選ばれました。復員船が入港するたびに、日本国内の詳しい実情が伝えられ、その度に日本側の豪側に対する要求がエスカレートし、豪側を悩ませることになります。復員船に持ち込む手荷物は、連合軍によって厳しく制限されておりましたが、国内の食糧難を知った日本軍は、ラバウルで生産した食糧や農耕具を日本に持ち込みたいと豪側に要求しています。 どのような経緯で許可が下りたか明らかでありませんが、第3~5次の復員船だけで、1,850トンの食糧と8,000点の農具が、日本救済のため積込まれました。 またラバウル製の被服類と紙も積込んでいます。他にまったく見られない例です。 つまり、ラバウルからの復員は、敗れた兵士達が元気なく日本に帰るのではなく、日本の復興を助けるため、技術と救援品を携えたクルセーダーの日本帰国といってもおかしくありませんでした。帰国後の彼等の活躍については、目下研究中です。また戦争中、ラバウルと同じように自給自活をしていた日本軍については、これから調査を開始する予定にしています。いつかまた報告できる機会のあることを希望しながら、私の話を終りにします。 | ||||
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