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千田武志著 1. BCOFとの出会い 私は日本の広島県呉市からやってきました。呉市といえば、British Commonwealth Occupation Force(略称BCOF) の司令部のおかれた都市としてみなさんには馴染み深いわけですが、日本人には、軍港として、また戦艦「大和」を建造した日本一の海軍工廠があったところとして知られております。 私もある時期までは、有名な軍港、日本一の海軍工廠だった都市としての呉しか知りませんでした。 日本においては、つい最近に至るまで、1946年2月から中国・四国地方はアメリカ軍にかわってBCOF によって占領されたこと、BCOFはオーストラリア人の総司令官の下、オーストリラリア・イギリス・ニュージーランド・インド軍によって構成され、多い時には約37,000名に達していたこと、同軍は作戦上は連合国軍最高司令官の指揮下におかれながら、管理上は独立した軍団として存在したことなどは知られておりませんでした。 BCOFについて、のちに私がその解明に一役買うわけですが、その私が同軍のことを知ったのは、1978年11月に広島県史編集のために東京に出張し、防衛庁戦史部の図書館を訪れ、未整理資料の中に占領軍進駐関係文書を見つけた時のことです。当時、日本においては、アメリカ国立公文書館などの公開資料を使用して占領史の研究が盛んに行われておりましたが、全てがアメリカ軍を対象としたものであり、せいぜい、占領軍にはBCOFもいたがほとんど影響をもちえなかったと記述されているにすぎませんでした。 そうした研究状況の中で、現在から考えると非常に不充分な資料なのですが、中国・四国地方の占領を1946年2月からアメリカ軍にかわってBCOFが担当し、呉市に司令部を置いたということを記した資料の存在は、大変貴重なものでした。当然のことながら私はこれらの資料を使用して、BCOFを含む占領軍の広島への進駐について論文を書きたいと思いましたが、その部分は他の研究者が担当することになっており、実現することはできませんでした。 BOCFの進駐について触れた『広島県史』(現代編)が発行されたと同じ年の1983年4月、 BCOF司令部の置かれた呉市の市史編纂室に勤務することになった私は、近い将来、海外資料を収集し同軍について本格的な研究をすることを決心しました。それには、まず、呉市史の戦前、戦中の部分を終らせなくてはなりませんので、全力でそれに取り組み、『呉市史』第5巻を1987年、第6巻を1988年に発刊いたしました。こうしていよいよBCOFを含む呉市史の戦後編のための海外資料収集にでかけることができる機会が訪れたのでした。 2. 資料収集と研究の開始 1988年と89年の2度にわたって、私はBCOFに関する資料の調査と収集のため、オーストラリアとニュージーランドを訪問しました。そしてオーストラリアの戦争記念館(Australian War Memorial)、国立公文書館(Australian Archives)、国立図書館(National Library of Australia)、ニュージーランドの国立図書館(National Library of New Zealand)、国立公文書館(National Archives)、国防省図書館(Ministry of Defence Library)などから予想を上回る文書・写真・著書・論文・新聞・フィルムなどを入手することができました。 2回にわたる海外への資料調査は、苦労の連続でした。 特に第1回目の調査は、初めての海外旅行で英語ができない上、BCOF についての知識といえば、Hopkins の「History of the Australian Occupation in Japan」を読んだだけという準備不足もあって、戸惑うばかりでした。タクシーに乗って Archivesへ行くように言ったのに Art Museumにおろされて途方にくれたのも、10年過ぎた今となっては懐かしい思い出です。 こうした何の知識もない私がBCOFに関する多くの資料を入手できたのは、オーストラリア戦争記念館をはじめとする各館のアーキビストや各係員のお陰と感謝しております。またオーストラリア国立図書館では、偶然、館員をしていたクリフォード・フミカさんに会い、彼女を通じてオーストラリア国立大学の(Mr D.C.S. Sissons)教授とお会いすることができ、多くのアドバイスを得たことはその後の研究に大変に役立ちました。この他にも、オーストラリアとニュージーランド大使館、外務省、キャンベラとウェリントンの日本大使館やシェパード夫妻 (Mr & Mrs Shepherd) 、ノーシー氏(Mr Northey)、オーモンドソン夫妻 (Mr & Mrs Omusdsen)、コネル夫妻 (Mr & Mrs Connell) 、アーサー・ジョン氏(Mr A. John)、迫井育子さんらに大変お世話になりました。 これ以降2年間は、オーストラリアとニュージーランドから収集してきた資料の翻訳と日本に残されている関連資料の収集をしました。そして、1991年にBCOFに関する最初の論文、「英連邦占領軍の日本進駐-宥和政策の推移を中心として-」を発表、BCOFの日本への進駐について概観するとともに、日本人にとって最も関心の高い同軍兵士と日本人、特に日本女性との交際を禁止するために制定された フラタニゼーション・ポリシー(Fraternization Policy)が立案、適用、廃止される過程を具体的に考察しました。この論文の作成には、1989年に遠藤雅子さんによって発刊された『チェリー・パーカーの熱い冬』や各地の県史や市史が参考になりました。 これ以降、1993年に BCOF兵士と日本人女性との結婚、BCOFの形成と関係国の外交交渉、1994年にBCOFの指揮(command)と管理(administration)についての論文を発表しました。この頃になっても、日本における BCOFの研究は、1992年に東京経済大学の竹前栄治教授が『占領戦後史』を発刊、その中で日本に進駐した軍隊の名前を少し具体的に記述している程度にしかすぎませんでした。しかしこのような状況でも、私には海外から収集した膨大な資料があり、オーストラリアの論文や資料については、オーストラリア国防大学のJ.レイ(Mr Grey)教授をはじめ田村恵子さん、キャロライン・パーマーさん(Ms C. Palmer)、O.シモンソン (O. Simmonson)氏ら若い研究者を通じて、またイギリスについては、ロンドン大学のI.ニッシュ (Mr I. Nish) 教授とW.アルドリッジ(Mr W. Aldridge)氏から入手することができ、困ることはほとんどありませんでした。資料の解釈に苦しむ時には、オーストラリア国立大学退職後、広島修道大学に赴任されていたシソンズ先生を訪ねることができたのもとても幸運でした。 1994年から、呉と進駐軍(占領軍と日本独立後の駐留軍を含めた広い意味で使用)の全体像を明らかにすることを目的として、『呉市史』第8巻第2編の執筆を開始、1995年に発刊いたしました。 そして、1997年には、『呉市史』第8巻第2編を一冊の著書にまとめた『英連邦軍の日本進駐と展開』の発刊へとこぎつけたのでした。この結果、これまで日本においては、進駐状況とフラタニゼーションについてしか知られていなかった英連邦軍(BCOFとBCFKを含む意味で使用)について、その形成と任務、進駐・再編成と撤退、組織と活動、朝鮮戦争との関係、日本人との交友などを総合的に解明できたのでした。 私は、自分の著作の中で、BCOFの形成に際しての外交交渉がオーストラリアの資料に偏っているので、アメリカ・イギリス等の資料を入手して修正をしたいと述べて反省点の一つとしておりました。ところが今年になって竹前栄治教授により、BCOFの形成に際してのアメリカ・イギリス・オーストラリア3国の外交交渉に焦点をあてた新たな論文が発表されました。また国立国会図書館がオーストラリアの資料調査をしたり、山口県史編纂室がニュージーランドで資料と証言を収集してまとめた『山口県史』も近く発刊されるなど、日本の研究もようやく本格化してきました。 3. BCOFに関する日本資料 これまでBCOFの研究がどのようにしてなされてきたかということをみてきたわけですが、私の一連の著作のもとになった資料の80パーセント以上は、海外、特にオーストラリアから収集したもので占められています。日本の資料は20パーセント以下ということになりますが、特に、1945年、1946年のものがほとんど見当たらないというのが現状です。 この少ない日本関係資料の中で、比較的文書が残されているのは、司令部の置かれた呉市ということになります。呉市役所の占領軍に関する初期の文書としては、1945年10月から1946年5月までの関係書類がとじられた「終戦連絡ニ関スル書類綴」がありますが、これはアメリカ軍時代のものがほとんどで、 BCOFに関するものは2点に過ぎません。 初期の資料として比較的まとまっているのは水道関係のもので、1947年の「連合軍給水工事設計書」や48年の「呉濠軍刑務所給水工事に関する件」などの綴が残されております。その他1947年5月の資料として、「呉国際親善協会設立趣意書」など、呉市が比較的早い時期に BCOFとの親善関係を保とうとしていたことを示す資料があります。 呉市役所の資料が多くなるのは、日本の独立が日程にのぼった1951年以降のことになります。日本の独立後、国連軍として駐留しているBCFKの取り扱いをめぐる国連軍協定や、独立後の労働協約をめぐる争議に関する文書が数多くみられます。また、接収施設の返還要求、国連軍引揚に伴う失業問題、軍と市民との友好関係や、反対に軍の起こした事件に対する賠償要求に関する文書もかなり多く残されています。 東京に目を移すと、防衛研究所に1945年から46年にかけて呉地方復員局が作成した BCOFの進駐に関する資料が残されています。また外交資料館には終戦連絡事務所が作成した同様の文書がみられます。これらは日本側の残したBCOFの進駐に関する数少ない資料として貴重なものですが、情報が少なく誤りが多いという欠点があります。例えば、1946年1月23日に呉地方復員局にもたらされた情報によると、アメリカ軍とBCOFとの交替は1月下旬ないし2月中旬と曖昧であり、占領地区を広島・島根、司令部を広島市または江田島と想定するなど、その後の結果とかなりの相違がみられます。同じく東京の全駐留軍労働組合には、労働運動関係の資料があります。この他、占領地の福山・岡山・鳥取などにも、断片的ではあるが文書が残されています。 印刷物の中で最も注目される新聞については、中国新聞、中国日報、朝日新聞、毎日新聞に目を通しました。残念ながら占領初期の記事は、プレスコードのため当り障りのないものが多いのですが、それでもその時々の記事からBCOFの活動の一端を知ることができます。特に、BCOF 兵士と日本人との交流や労働運動の状況を知る上では、最も適した資料と思われます。アメリカのメリーランド大学のプランゲ文庫の新聞を収集できたら、さらに詳しい情報が得られるでしょう。 著書としては、先ず、各地の県史や市史そして、警察史があげられます。また施設に関しては、『防衛施設庁史』『呉市水道史』などがあります。個別的問題を扱った著書としては、『全駐留軍労働組合史』(全3巻)や、BCOF兵士と日本人女性の結婚を扱った遠藤雅子さんの『チェリー・パーカーの熱い冬』、川内康範氏の『かくて愛と自由』(1952年)などがあります。 この他個人資料として、BCOFに物資を供給する調達局につとめていた元山清人氏の7冊の国連軍施設返還関係の綴があります。またBCOFの日本人労働者の労働運動関係の文書・写真・手記なども残されています。さらに日本の資料といえるかどうかわかりませんが、呉市史編纂室には約150通の元 BCOF軍人(イギリス人中心)の手記が保存されています。 このようにみてくると、数量的に少なく断片的ではあるが、日本にもBCOF関係の資料が残されていることがわかります。ただそれらの大部分は、日本の独立が日程にのぼった1951年以後のものでした。占領期にはプレスコードで思いきったことが書けなかったこと、日々の生活に追われていたこともあると思いますが、独立を前にしてはじめて日本人は自分たちの将来について考えることができるようになったのだと思います。 4. 一応の結論 約10年間にわたってBCOFの研究をつづけた結果、日本の占領政策や占領地の中国・四国地方の歴史を解明するだけでなく、戦後の太平洋・アジア外交の動向を知る上でも、BCOFについて研究することが必要ではないかと思うようになりました。 また、複数の国の軍隊が1人の総司令官のもと統一軍を形成し、その軍隊が占領地日本において、作戦上は連合国軍最高司令官の指揮下におかれながら管理上は独立した軍団として存在した BCOFと連合軍との関係が、朝鮮戦争時の国連軍の最高司令官とBCFKの関係に引き継がれたという点は、国連軍の存在が注目を集めている現在、占領史研究の枠を越えて今日的意味があるように思われます。その他BCOFの形成に際し、かっての宗主国イギリスに論争を挑み、自国中心の BCOF軍の編成を勝ちとったオーストラリア政府の作戦をはじめ、何事においても論争を繰り返すアングロサクソン人の手法は、日本人の私にとっては驚きであり、大いに感心させられた点でした。 こうしたこと以上に私が感動させられたのは、占領軍と被占領国の国民という立場の相違をこえて、BCOF軍人と日本人との交流が生まれ育まれたということでした。両者の関係は戦争を通じての出会いということもあって、当初は憎しみと敵対心に満ちていたといわれております。ところが、実際に1人の人間対人間として交際してみると、相互に信頼でき尊敬できる人間であることがわかり、多くの友情や愛情が生まれました。その中には、フラタニーゼーション・ポリシーという大きな障害がありながら、それを乗り越えて結婚するカップルもあらわれ、その後の国際交流に大きな途を拓くことになったのでした。確かにフラタニゼーション・ポリシーの採用は不幸なことでしたが、それを乗り越えて愛情を貫こうとした若者の勇気、そのことに対してオープンに論争をつづけ、その結果、政策の変更がもたらされたという一連の流れは、非常に感動的であり、私がオーストラリア人を尊敬する理由であります。 ここでもう一つ強調しなければならないのは、私の研究をはじめ日本のBCOFの研究は、オーストラリアを中心とする海外資料にその多くを依存しているという事実です。この点はみなさまに感謝するとともに、日本の文書館制度の遅れを強く反省するものであります。と同時に、日本に残された資料の調査・収集を進めなければなりません。BCOFの研究は占領した側の資料からだけでなく、占領を受けた側の資料を加味してこそ正しいものとなると思われるからです。そういう意味で、オーストラリアと日本の双方の協力により BCOF関係資料の調査・収集・分析を進めるという今回のプロジェクトは、大変有意義なことと思います。今後、仕事を進める上で、用語や考え方の相違が生じてくると思いますが、50年前の両国民の出会いに学び、友情を深めつつ良い成果をあげたいと考えております。 | ||||
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