Australian War Memorial - About the AJRP

   
ホームページ | 案内 | データベース | 研究の成果 | 地図 | サイトマップ | 検索 | リンク集 | 謝辞 | 英文翻訳記事 | 最新情報 | English

近藤新治のセミナー
戦史編纂官 近藤新治著



1. 研究機関の誕生

昭和20年11月、内閣直属の「史科調査会」と復員省内に「史実部」が設立されたが、連合軍総司令部の命令で解散を命ぜられる。

次いで21年6月、マッカーサー総司令部歴史課の主唱で、マッカーサー戦史編纂のための基礎資料としての「作戦記録」の提出を求められる。そのための受け皿として復員庁内に「史実調査部」が設けられ、全軍的に歴戦者が集められ、陸軍134篇、海軍79編の戦域別の作戦戦闘史を概成し、歴史課に提出し、一応任務を終了したが、その時の関係者が「史実調査所」という民間組織を維持した。

昭和26年9月の対日講和条約の発効を契機に公刊戦史刊行の機運が高まり、防衛庁の組織内に昭和30年10月に、そのための公的機関として「戦史室」が設けられた。戦争中の陸軍省軍務局軍事課長の西浦進大佐が初代戦史室長に就任し、約30名の戦史編纂官、約70名の管理支援要員が集められた。業務の中心になる戦史編纂官は元大本営参謀、方面軍、各艦隊参謀等から選抜され、約三分の一が現役の自衛官によって構成された。

2. 研究上の諸問題

(1)研究方針上の論争

敗戦した軍隊が、いきなり戦史の編纂に取りかかれないことは、誰の眼から見るも明らかであるが、西浦室長は、まず全国的に残存する戦史資料を収集するとともに、戦場から帰った戦史編纂官たちに対して、歴史学の基礎理論を勉強することを要求した。この点、若い時から歴史学者としての基礎的勉強をしている人達を、早くから組織内に入れることができた諸国の戦史研究機関といちじるしく異なるところである。

この段階で西浦は次のような方針を示した。
第1段階史料の収集整備
第2段階編纂常務陸軍 戦史のための「基礎案」
海軍 「作戦記録」又は「資料集」

配当時間は、第1、第2段階 各10年

この第2段階で表示したように、陸軍と海軍で出来上がったもののイメージについて、完全に二つに分れた。陸軍側は公刊戦史の底本となるものを完成するという考え方、海軍側は、そこまで進めることは無理で、単なる記録集がせいぜいだ、という判断であった。西浦は、この段階では結論を出さなかったが、歴史研究の終極として、当時の海軍としては歴史的意義とか、その功罪といった結論的事項を公式に披露するまでに到っていなかったとみるべきであろう。

(2)押収資料の返還

日本政府の努力により、進駐直後、米国が押収し研究のため米本国に送った膨大な資料が、昭和33年10月米本国から日本政府に返還された。大本営命令等を含む一級資料で、陸関係約8万、海関係約3万、戦時中の刊行図書約3万、計23,313件で、この事業の終了で日本における戦史研究の基礎が出来上ったと言うことができよう。

3. 公刊戦史編纂概説

公刊戦史編纂の次官通達:
昭和40年11月(昭和41年度から10年間91巻を刊行) その後の修正:
昭和55年1月(大本営5巻、その他6巻、計11巻を追加)

102巻の内容:
大本営
34
陸軍
37
海軍
21
空軍
 
編纂途中の編纂官の死者: 24年間 9名 

4. ニューギニア、ソロモン関係の構成


陸軍1.ガダルカナル、ポートモレスビー
2.ガダルカナル、ブナ
3.サラモア、ムンダ
4.フインシュハーヘン、タロキナ
5.アイタペ、ラバウル
海軍1.ガタルガナル-初期
2.ガダルカナル-撤収
3.それ以降
空軍1.東部ニューギニア
2.西部ニューギニア


5. 豪戦史部との関係

(1) 陸軍戦史だけを、完成の都度豪戦史部に送った。 「日本語のできる人がいないので、要約を送れ」と要請があった。  (1968年、3月)  

(2) 日本側から見た豪公刊戦史の特長
a) 各ページごとの見出し
b) 各ベージごとの脚注

このb)項を見て、日本の師団級の陣中日誌、連隊レベルの戦闘詳記等の一等資料が豪側にあることを知った。日本側には、生存者がいない部隊がある。豪側の記述から、敗走した日本側の行動を推定して空白部分を補った。

(3) その結果、戦争末期のムンダ、アイタペ、ブーゲンビル等の戦闘で、日本側の中隊レベルまでの戦闘様相が浮び出た。その結果として、基本計画で4冊であったものを、上申して1冊追加し5冊とし、日本軍小部隊の戦闘状況を克明に記述することができた。

(4) 記述自体は、日本側の生存者のインタビューを豪公刊戦史で補強する手法を多くとったが、関係者がいない場合は、「豪公刊戦史」では、とことわって、その日本語訳をそのまま掲記した。 この点が、日本の公刊戦史の最大の特長である。 この点、われわれ日本の戦史編纂官は豪公刊戦史に深い謝意を述べなければならない。特に次の2冊については、負うところが多い。
  THE NEW GUINEA OFFENSIVE (by David Dexter)
THE FINAL CAMPAIGNS (by Gavin Long)

6. 公刊戦史が現代戦術へ及ぼした影響

第1戦の将兵が生命をかけて戦った「戦術」が、現代の原爆戦術に影響を与えていると思うと、心あたたまる。米陸軍のFM100という戦術教範に攻撃の型式が列挙説明されている。「包囲」「突破」「迂回」という陸軍軍人なら誰でも知っている攻撃機動の方式の他に、原爆戦下では、「浸透」という方式が新しく加わったことをご存知であろう。

英語ではinfiltration と訳されているが、日本の公刊戦史第5巻の291ページから採用したものと思われる。原文は次のとおりである。 「歩兵第13連隊は、全員特別攻撃隊を編成し、A道北側よりタイタイ北方地区に進出し、敵軍後方撹乱の任を受け、(昭和20年)7月8日出発した。」

これに対する師団長回想、「連隊を敵の背後に潜入させ、自動車連行を妨害し、かつ、数ヶ月間に自分達が作った農園の甘藷を収穫し、糧食の現地調達を図り、部隊全部が敵後方に潜入せよ。と命じた。このように敵後方を攻撃する部隊は、連隊長以下総員約400名、手榴弾1、小銃弾15発、乾パン1~2袋であった。補給、連絡は終戦まで絶えたが、兵員の栄養状態はかえってよくなった。」

以上



豪日研究プロジェクトは研究活動を休止いたしました。
お問い合わせは、オーストラリア戦争記念館の担当部門にお願いいたします。
Internet implementation by Fulton Technology and AJRP staff .
Australian War Memorial のホームページへ。
Visit the award-winning web-site of the Australian War Memorial