| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
恵泉女学園大学教授 内海愛子著 1. はじめに POWへの虐待。これが戦後の日本とオーストラリア関係の大きなネックとなってきた。タイ・ビルマ レールウェイ という言葉を耳にして、平静でいられない元POW たちが現在もいる。 元POWの扱いは、終生忘れることが出来ないものであろう。そのトラウマは、多くの記録が物語っている。 AWMの外に建てられた W.ダンロップの銅像は、POWたちの体験と記憶の象徴であり、仲間意識の象徴でもある。W.ダンロップは、タイのジャングルの中でオーストラリア人兵士を救っただけでなく、戦後、体と心に刻まれた傷に苦しむ元 POWたちを支えた。 元副首相トム・ユーレンも、かってW.ダンロップの下にいた POW である。 トム・ユーレンは、副首相の時に、POW の医療上の優遇措置をつくってPOWを支えた。 POW(JAPAN)と書かれた医療カード(イエローカード)をもつ元 POWの医療費の無料化を実現したのである。トムは、「戦争中に癒すことの出来ないような傷を心身に負ったPOWたちに、診察を無料にするぐらいのことをしてもいいのではないか」と語っていた。 (今、その医療費は、また一部有料となっている。) 本報告は、はじめに日本軍のPOW 取扱いの機構とその問題点について。つぎに、その関係文書について報告する。 2. POWの取扱い組織 太平洋戦争で日本軍がなぜ捕虜を虐待したのか。ここでは、制度上の問題に限定して考えてみたい。 太平洋戦争の間に、POW を扱った機関は二つある。 一つは、俘虜情報局(Prisoner of War Information Bureau)と陸軍省俘虜管理部(Prisoner of War Management Office)である。俘虜情報局は、1941(昭和16)年12月27日、「俘虜情報局官制」(勅令第1246号)によって設立された。「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約,明治45年1月13日批准公布)は、交戦国に俘虜情報局の設置を義務づけていた。 この俘虜情報局は、陸軍大臣の管理に属する臨時官衙がである。任務は、捕虜に関する状況を調査し、その結果をジュネーブにある赤十字国際委員会や敵国の利益代表をとおして、捕虜の本国に捕虜情報を通報する義務を負っていた。具体的には、銘々票とよばれるカードを捕虜一人一人に作成し、これに捕虜の名前、年齢、国籍、身分、階級、所属部隊、捕獲場所および収容場所と年月日、移動、解放、交換、死亡などを記入した。捕虜の情況の通信、死亡者の遺言、遺留品の保管なども俘虜情報局の任務であった。 しかし、実際には、捕虜のほんの僅かのパーセンテージしかこうした手続きがとられていなかった。別紙資料「ラーチ報告書」Major Genenral A.L. Lerch, “Japanese Handling of American Prisoners of War” によると、俘虜情報局は、1944年以前には、系統的に捕虜全体の名前をリストアップする試みが何もなされていなかった。 捕虜のアルファベット順のインデックスは残っているが、一人一人をただちに確認できるマスターインデックスは出来なかった。俘虜情報局には近代的な設備も機材もなかった。 まったくもって非能率だった。 1944年1月になって、俘虜情報局の高田少佐が中央カードファイル・システムを確立した。そのカードに先のような捕虜情報が書き込まれたのである。[1] アメリカは1943年2月まで、1942年第1・4半期の間に日本軍の手に落ちたかなりの数のアメリカ人捕虜の名前を受け取っていない。アメリカに送った情報は完全ではなかった。ほかの連合軍も似たりよったりの状況だった。こうした事態が起こった要因として、先の「ラーチ報告書」は、捕虜問題への日本人の関心の低さ、1944年までシステムが出来ていなかったこと、職員の恒常的な不足、そして俘虜情報局の運営が非効率で正確さを欠いていたこと、規則で要求されている捕虜の名前を報告することを現地軍司令官が怠ったことなどを指摘している。[2] 1946年2月に、俘虜情報局がまとめた「俘虜情報局ノ業務ニ就テ」によると、こうした業務を担当する俘虜情報局の編制人員は、50人内外であった。発足時には長官1名、事務官4名など合計25人である。 長官は、戦争の間に、3人が就任している。なお、俘虜情報局の任務は1952年8月に終了し、1957年8月1日に廃止された。[3]
俘虜情報局の職員数は戦争初期にはほとんど増えていないのが、1944年後半から45年に増加した。 敗戦真近い1945年8月5日現在では117名を数えた。 連合国からPOWに関する問い合わせ件数は、42年52件、43年112件、44年340件、45年122件、46年122件となっていることから、これへの調査・回答のために増員されたものと思われる。[4] 戦後、俘虜情報局がまとめた俘虜に関する抗議とその回答集には、83件の連合国からの抗議とそれに対する俘虜情報局からの回答が収録されている。抗議は44年31件、45年27件とこの二年に58件が集中している。[5] 俘虜情報局職員が急増したのは敗戦直後である。俘虜管理部長をして「吾人ノ予想外トスルト所ナリ」といわせしめるほど、連合国が日本の捕虜業務に関心をもっていたことから、情報局業務の重要性が認識されたことによるだろう。[6] 1945年9月には、「俘虜関係調査委員会」(委員長陸軍次官若松只一中将)が設置され、俘虜情報局の業務の重要性が増した。このため、1945年10月3日、東京で俘虜収容所長合同が開かれた。 田村長官は、今後、俘虜の取り扱いに関する連合国の査問はますます厳しくなることを予測し、残務整理の大綱を示している。 俘虜情報局業務の重要性が増した理由として次の点が考えられる。[7] 1. 戦争中の残務は、遅くとも講和条約までには完了するように要求されたこと。 2. 連合国側からの捕虜情報の請求が集中したこと。 3. 捕虜業務の処理の適否が外交関係においても大きな影響を及ぼしたこと。 4. 俘虜収容所保管の書類が敗戦後ほとんど焼却されたこと。また、俘虜収容所長以下職員の大部分が戦争犯罪者として巣鴨に収容されたため、捕虜に 関しては俘虜情報局に調査が依頼されたこと。 5. 捕虜関係の諸資料の大部分は俘虜情報局が持っていたこと。 第5は、本プロジェクトの関連で注目すべき点である。 POW関係の資料は、戦後も焼却されないで俘虜情報局が保管していたのである。 3. 俘虜管理部の業務とその権限 1942年3月31日に、POW 取り扱いのもう一つの組織である陸軍省俘虜管理部が設立された。戦場が広大であり、捕虜数が膨大に上ったため、陸軍軍務局の一部局として俘虜管理部が設立されたのである。取り扱い業務を迅速にする目的であった。陸軍省の一部局である俘虜管理部の部長は捕虜管理に関する計画・政策の発布と俘虜収容所の監督の両方に責任をもっていた。[8] だが、俘虜管理部の職員は全員、俘虜情報局職員と兼務している状態であった。組織は二つだが、一人の職員が二つの部局をかけもちするといった実態だったのである。途中までかけもちでなかったのは、保田治雄中佐のみだった。[9] 俘虜管理部の仕事の内容は、次のようなものである。 1. 捕虜の収容、取締り、交換、解放、利用(労役、宣伝等)懲罰待遇など、捕虜取扱上の一般的計画に関する事項 2. 捕虜の労役に関する事項 3. 捕虜の通信に関する事項 4. 捕虜の懲罰に関する事項など 捕虜数が多く、業務内容が多岐にわたるにもかかわらず、陸軍省内で俘虜管理部は軽視されていた。山崎茂大佐(俘虜情報局・俘虜管理部の高級部員)の東京裁判における証言によると、俘虜情報局と俘虜管理部は、「軍務局の指令下において仕事を続けました」「俘虜情報局並びに管理部の部長に決裁権を与えられることは、あまり重要でない事柄であって、極めて重要なる事柄は、悉く軍務局の指令を仰がねばならんことになっておりました」と証言している。[10] しかも、陸軍省の伝統である軍務局万能主義が横行したため、管理部が「実質的には独立性」を失い、あたかも「軍務局の一付属事務室たるの奇現象」を生じたため、管理部は「自主溌剌たる活動をなし得さりき」といった状態であった。 俘虜管理部は上村幹男中将、軍務局長は武藤章中将のちに佐藤賢了少将である。東京裁判の席上、清瀬一郎弁護人は階級の上の人に命令を与えることは日本の陸軍組織ではありえないことであると証人に迫っている。だが、山崎証人は「階級上からいうと、軍紀上そういうことは成り立たないのでありますが、仕事の上では軍務局長は大臣の参謀格として、指令を伝えておったように思います」と述べている。また、陸軍大臣に直属していた俘虜情報局も「仕事の実際の上では、軍務局長を経すしては仕事はできない状態にありました」と反論、軍務局長が俘虜情報局・俘虜管理部に、事実上の命令をあたえていたと証言したのである。捕虜問題は「軍務局に照会するのが慣例」だったのである。[11] 俘虜管理部には、俘虜収容所に直接命令を下す権限もなかった。改善すべき点があった場合は、陸軍省の責任ある局に通報し、各局がこれを陸軍大臣に報告し、大臣から各軍司令官に命令し、各軍司令官がこれを俘虜収容所長に命令することになっている。[12] 俘虜管理部が発足し、業務の範囲が通牒された4月9日には、すでに20万近くの捕虜がいた。捕虜に関する事項が、俘虜管理部にのしかかってきたが、権限はほとんどなかったのである。 経理、衛生、法務等の専門事項は、軍務局の各担当部局が掌握していた。衛生に関しては医務局、経理は経理局などがそれぞれ委任されていた。捕虜の扱いに関して俘虜管理部はなんの権限ももっていないことになる。官制上はそう書いてないが、実質にそうしていたというのである。[13] 捕虜は、現地の軍司令官・独立の師団長が直接の指揮管理にあたっている。それに対する命令は、参謀本部を通さねばならなかった。俘虜管理部の権限は極めて限られていた。俘虜管理部は、陸軍省内で発言力がなかったどころか、はじめのうちは、捕虜に対して正しい取り扱いをしていろいろなことを良好にすると、陸軍省のなかで悪く言われる様な状態だったと保田中佐は述べている。俘虜管理部からの通報で収容所が改善されるのは戦争後期である。 俘虜収容所もまた、軍官僚機構のなかで「一方に於ては軍部側より継子扱いにせられ他方に於ては、一般人民より白眼視せられ其職員は実に苦しき立場に在りたるは事実なり」とその心中を吐露したくなるような立場であった。[14] 戦後、俘虜収容所関係者、なかでも下級将校が戦犯となった。これに対し、小田島情報局高級所員は、POWの扱いは「政府の責任」だと主張している。収容所は国内法に則って運営されていたのであり、それが国際法に違反しているとして裁かれるのは、俘虜取り扱いの関係者にとっては迷惑だと述べている。 4. POWの管理の二元性 POWの解釈の違いにも注目しておきたい。 日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となる。すなわち俘虜収容所に責任をもつ陸軍大臣(軍政機関の責任者)は、その管理する収容所における事件の責任は負う。だが、収容所までの過程での出来事は陸軍大臣の所管ではないということになる。東京裁判での武藤章証言によると、まず、戦場で捕虜を得た陸海軍指揮者が、捕虜を取り調べ捕虜名簿を作成して大本営に報告する。この段階では軍令の捕虜である。これに対して、陸軍大臣は収容所の位置および収容人員を大本営に示す。大本営は陸軍大臣の示す収容所に捕虜を輸送する。捕虜の輸送が終わり、収容所に収容されてはじめて先に述べたように陸軍大臣の管理下の捕虜、すなわち軍政が管理する捕虜となる。 日本軍の官僚機構が一人の捕虜の処遇にこのように反映されていた。日本軍の捕虜取り扱いの二元性は、俘虜情報局がアメリカのラーチ憲兵司令官一行の調査でも強調した点である。[15] したがって俘虜収容所に輸送するまでの捕虜の取り扱いは、すべて作戦軍の事項として参謀部の責任であり、最終的には参謀総長にその責任は属する。[16] 例えば、船舶輸送中の事件でも参謀部の責任となる。俘虜情報局・陸軍省俘虜管理部ともに軍政機構であり、それ以前の作戦軍のもつPOW (軍令のPOW)については管理の権限も責任もない。時には情報すら入っていない。 4-1 俘虜収容所の開設 開戦後、戦場で捕獲した捕虜を収容し管理するため、「俘虜収容所令」(昭和16年12月23日勅令1182号)により俘虜収容所が設置された。俘虜収容所は陸軍の管轄に属し、陸軍大臣の定めるところにより軍司令官または衛戍司令官が管理し、陸軍大臣がこれを統括する。 捕虜の取り扱いの法令も整備された。捕虜の処遇のために、陸軍は明治37年の「俘虜取扱規則」を改正し、「俘虜取扱細則」「俘虜罰則法」を制定するなど、一連の基本法令を整えている。なかでも1943年3月9日に改正公布された「俘虜処罰法」は、12条にわたり俘虜の犯した罪にたいする罰則を規定している。捕虜監視員への抵抗や不服従、侮辱が処罰の対象になることが定められていた。 1942年4月下旬、陸軍省内の局長会同ではじめて捕虜の処遇が論議され、5月には「俘虜処理要領」で捕虜の収容の方針が決まった。白人捕虜は払底する労働力を補充する要員と見なされたのである。昭南島(現・シンガポール)から、朝鮮や台湾に白人捕虜が引き渡された。残された当面、労務のあてのない捕虜は、現地に俘虜収容所を開設してそこに収容することになった。(「南方ニ於ケル俘虜ノ処理要領ノ件」[兵総34、昭和17年5月5日])。 東条英機陸軍大臣は1942年5月30日に善通寺師団を視察したときに、POWの扱いについて「一日ト雖モ無為徒食セシムコトナク其ノ労力、特技ヲ我ガ生産拡充ニ活用スル」との訓示をしている。上村俘虜管理部長がこの東条訓示をふまえて関係部隊へ「一人ト雖モ無為徒食ヲ許ササル我国現下ノ実状ト俘虜ノ健康保持等トニ鑑ミ之等(俘虜将校のこと―引用者)ニ対シテモ其身分、識能、体力等ニ応シ自発的ニ労役ニ就カシメ度キ中央ノ方針」を通牒していた。[17] 将校を労働させることは、「俘虜労役規則」(明治37年9月10日)で禁止されていた。ハーグ条約でも許可されていなかった。将校労働の違法性は日本側も考えていたからこそ、「自発的」に労働を希望するようにし向けたのである。時には食料を減少することで「自発的」に労働を願い出るという形を取るなどしている。だが、俘虜管理部事務官の中には、当時捕虜将校たちが「放埓な生活」をしていたので、それが国民に与える影響が面白くないため、この「空気を緩和改善」するためだったと証言している者もいる。[18] 4-2 占領地の捕虜 1942年6月27日、泰(タイ)、馬来(マレイ)、比島(フィリピン)、爪哇(ジャワ)、ボルネオ俘虜収容所の「臨時編成要領」が定められ、南方各地に残っていた捕虜(軍令捕虜)を収容するために俘虜収容所が設立された〔6月21日軍令陸甲第45号〕。 開戦から半年が過ぎて、占領地の捕虜の収容がようやく決定した。俘虜情報局の規定による「正式俘虜」(軍政捕虜)となったのである。収容所は、各軍司令官の管理下で捕虜の管理を担当することになるが、警備にあたる朝鮮人・台湾人軍属の到着をまって現地軍から捕虜を受領することになった。
これら、新任の俘虜収容所長と高級所員が集められて訓示を受け、必要な法令集や指示が与えられている。 内容は善通寺師団での訓示とほぼ同じである。 上村俘虜情報局長官が東条の意向にそって捕虜の取り扱いを指示したのである。 収容所長に必要な情報と国際法の知識は一応、与えられている。資料も配布されている。問題は当事者がこれをどこまで理解していたかであろう。また、規則に従ってPOW を扱う力が日本軍にあったのか、POW を軽視した日本軍の考え方がどこまで変えられたのかも問題である。 国際法に従った処遇を指示しながらも、日本軍のPOW の扱いの最大の目的は、「労務動員」であった。「POWは戦力なり、これを最大に活用すべし」との方針は、POWキャンプの監視員まで徹底されていた。 一方、国際法については、その存在すら POWの下級将校や監視員には教えられていなかった。[19] 5.捕虜と国際条約 捕虜の処遇に関する国際法は、日本が批准をしていた「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約、1911年11月6日批准、1912年1月13日公布)と、これをさらに充実させた「俘虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約、1929年7月27日、ジュネーブで署名)がある。日本は、ジュネーブ条約に署名はしたが陸軍・海軍・枢密院の反対で批准はしていなかった。 開戦後の12月27日、アメリカは利益代表国スイスの在京公使をとおして、条約を「相互的に適用」することを希望する旨伝えてきた。翌年1月には在京アルゼンチン代理大使が、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド政府の意向を受けて、同じく条約の遵守を日本に求めてきた。 外務省は「回答案」を作成し、俘虜情報局、陸軍省兵務局、内務省警保局、拓務省を集めて、1942年1月21日に検討会議を開いている。外務省案には「日本ノ権内ニアル○○国人タル俘虜ニ対シテハ能フ限リ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ。俘虜ノ被服食糧ニ付テハ相互条件ノ下ニ俘虜ノ国民的人種的風習ヲ考慮スヘシ」とあった。捕虜問題に関して、外務省案でだいたい異議のないことが確認された。 外務省案の線でまとまったが、木村兵太郎陸軍次官は西春彦外務次官に「条約ノ遵守ヲ声明シ得サルモ 俘虜待遇上之ニ準シテ措置スルコトニハ異存無キ旨通告スルニ止ムルヲ適当トスヘシ」と回答している。[20] 「之ニ準シテ措置」するとはどのような意味なのか、陸軍次官の回答も曖昧である。政府内の意見には微妙な差異があったが、東郷茂徳外務大臣の1942年1月29日付けスイス公使宛の回答は次のようになっている。[21] 1. 日本帝国政府ハ千九百二十九年七月二十七日ノ寿府赤十字条約ノ締結国トシテ同条約ヲ厳重ニ遵守シ居レリ 2. 日本帝国政府ハ俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年ノ国際条約ヲ批准セス 従ツテ何等同条約ノ拘束ヲ受ケサル次第ナルモ日本ノ権内ニアル「アメリカ」人タル俘虜ニ対シテハ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ 同様な回答をイギリス連邦諸国にも送付している。 批准していない条約を「準用」する、これが日本政府の回答である。 当然「準用」の解釈が問題となる。 起案文には「準用」の文字に傍点が付され、欄外に「apply mutates mutandis」と書き込まれている。東条英機陸軍大臣はじめ陸軍が「自国の国内法規及び現実の事態に即応するように寿府条約に定むるところに必要なる修正を加へて適用する」と考えていたことをうかがわせる。[22] 外務省の松本俊一条約局長〔当時〕は、「日本は俘虜の取扱ひに付ては事情の許す限り、即ちその適用を実際上不能ならしむるが如き支障なき限り、寿府条約の規定を適用せんとする意向であった」が、条約の規定を厳格に適用することには大きな困難を伴うことが予想されたので、「準用」の回答に止めたと、その経緯を説明している。[23] 「準用」というのは、その精神を守る「意志」があることを、アメリカなどに「通知しただけです」というのが日本側の態度であった。それは「意志」の表明にすぎなかった。そのため、スイスに批准書を寄託したり、加入の手続きを行ったことはなかった。国内手続きをとることもなかったので、条約と抵触する国内法、陸軍刑法、海軍刑法などの改正など、法的措置は一切とられていない。自国の国内法規および現実に即応するように「ジュネーブ条約」に必要な修正を加えて適用すること、これが日本政府内部で合意された「準用」解釈だったのである。[24] 国際検察局は、「準用」回答により、ジュネーブ条約は日本に拘束力をもつと解釈した。[25] 捕虜の処遇に関する条約の解釈は、日本と連合国とではくちがっていた。「準用」は最後まで問題となっている。日本の態度が次第に変化していることも、連合国は抗議している。 1942年の回答では、東郷外務大臣、松本条約局長が「重大な支障のない時は国内法の規定と抵触するときは条約が優先される」と回答していた。だが、1943年には、ジュネーブ条約の「禁止労働」32条を考えて、捕虜は「危険ならざる労働」に使役されていると回答、(1943年2月28日外務省回答)。 これが、1944年3月のスイスの抗議には、「日本は1929年の俘虜に関する条約の拘束を受けるものではない」と回答している。2月26日には、国内法上適用し難いジュネーブ条約の条項に関する細目全部を重光外務大臣に要求したのに、「今やそれは日本側は右条約を日本側の適当と思ふ時に且適当と思う程度に適用する事を意味するに至りました」と変わってきている。この「準用」回答の変化が「虚偽の約束」であったと受け取られたのである。[26] 6. 捕虜の引き渡し 1945年8月14日、「ポツダム宣言」の受諾を回答した日本軍は、河辺虎四郎大将を命令受領のためにマニラに派遣した。河辺に対し、連合国側は9月2日の降伏文書調印までに捕虜情報の提出を求めた。その後も日本軍が当惑するほど捕虜に関する矢継ぎ早の要求が出された。 日本軍が1944年に出した「情勢激変ノ際ニ於ケル俘虜及軍抑留ノ取扱ニ関スル件」(昭和19年9月11日陸亜密電1633)や「情勢ノ推移ニ応スル俘虜ノ処理要領ニ関スル件」(昭和20年3月17日陸亜密電2257)が、「俘虜等ニ対シ自衛上真ニ巳ムヲ得ス非常措置(俘虜取扱規則第6条)ヲ採ル」ことを通牒していた。連合国は日本軍による捕虜の殺戮を警戒していたと思われる。[27] 8月16日、俘虜情報局長官は、各収容所長あてに、捕虜を「敵側に引渡すまで完全に保護し且つ其の給養衛生に注意すべきこと」「強制労務を直ちに中止せしめらるるも支障なし」「糧秣は3、4ヶ月分を確保すること」「被服は在庫を残置する必要はないので全部交換すること」「救恤或いは慰問の為に送付された被服、医薬品、食料品も全部支給して差し支えないこと」「遺骨、遺品などを鄭重に整理すること、遺骨箱が見苦しいものは新調し悪感情を抱かれないようにすること」「不要書類の焼却を完全に行うこと」などと細かく指示している。[28] 8月21日には、俘虜管理部長から内地各俘虜収容所長・内地各軍管区、台湾軍参謀長あてに「俘虜収容所ノ標識ニ関スル件」をだし、8月24日18時までに俘虜収容所の位置に20呎(フィート)のPWの文字を黒字に黄色で描き、南より北に向って読むように表示すること、連合国軍部隊は8月25日6時を期して、偵察飛行を行う、給養品の投下を行うこと、また、国籍別俘虜連名簿、同死亡者連名簿を8月30日までに俘虜管理部に到着するよう送付することを通牒した。[29] 陸軍次官が、俘虜の引渡しに関して特に注目していることは「寧ロ吾人ノ想像外トスル所ナリ」(8月22日)と述べるほど、連合国は捕虜の身柄の安全な引き渡しを急いだ。9月2日、「降伏文書竝一般命令第一号」には、「現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること竝に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず」とある。また、「完全なる情報を提供すべし」ともある。 9月20日には「俘虜関係調査委員会」が設置され、24日には、GHQが俘虜収容所に勤務した職員名簿の提出を指令している(フィリピンの場合は19日である)。9月中頃から捕虜取り扱い関係者の事情聴取・取り調べが始まった。その調査概況は別紙資料で一部明らかにしたとおりである。 俘虜情報局と陸軍省俘虜管理部の関係者は、長官から末端の軍属まで、戦争中は重きを置かれなかったにもかかわらず、戦後は捕虜虐待の責任が問われた。捕虜問題に関する日本と欧米とでは、職員の数にとどまらず、その経験も問題への認識においても「天地」のひらきがあったのである。 7. POW関係文書について 連合国が追求する日本軍の戦争犯罪の大きな柱の一つが捕虜虐待であった。当然、この関連資料は徹底的に焼却された。だが、焼却されたのは陸軍のもつ資料であった。 俘虜情報局には、戦争中の捕虜関係の資料が大部分保存されていた。情報局は「国内法」にのっとってPOWを取り扱うために大きな努力をはらってきたと考えていた。これを戦争裁判でも立証するためには、資料をもとに日本軍のPOW管理のシステムや資料をGHQに積極局的に明らかにしている。尋問にも応じている。これらの資料は国際検察局によるPOW虐待の立証にも使用された。POWの関連文書のうち、国際検察局によって押収され、東京裁判で証拠文書として提出されたものは、現在、マイクロフィルム化され、国会図書館で公開されている。 また、アメリカが押収した太平洋戦争期の資料は、日本に返却されているが、その全体像-すなわち文書量とすべてが日本で公開されいるか-についてははっきりしない。公開分の資料については国立公文書館や防衛研究所で閲覧できる。 これらの文書の公開はPOW研究をすすめる上で大きな意味をもつ。POW虐待を個人の私的制裁の問題としてだけでなく、日本軍のシステムに内在する問題であることを明らかにしてくれるからである。 日本軍の官僚機構の硬直化、天皇に直属する参謀部の権力の強大化、作戦至上主義によるPOW問題の軽視、そのためよい人材もえられなかった上、発言権もなかったことなど、数々の原因が考えられる。 POWを労務動員したこと、すなわち戦時労働力として利用する方針を立てたことが最大の問題であろう。朝鮮人の連行で不足する技術労働力として、POWを動員したのである。その後中国人が強制連行されている。POWの労務動員は東京裁判でも大きな問題となっている。 POW関係資料はIPS文書を中心に今後も収集整理していくが、今回は俘虜情報局関係資料の打ち、次のものを復刻した。 (現代史料出版) * 「俘虜情報局月報」1942年 第2号、第3号、第5号、7月号、8月号、10月号 * 田村浩俘虜情報局長官 「研究備忘録」 * 連合国による俘虜情報局員への意見聴取記録 ① A. L. Learch “Japanese Handling of American Prisoners of War” ② 俘虜情報局「米国憲兵司令官一行ノ実施セル調査概況」 ③ 俘虜関係調査部「俘虜ハ如何ニ取扱ワレタカ」 ④ 俘虜情報局「俘虜情報局ノ業務ニ就テ」 今後もPOW取り扱い関係の史料を整理し刊行していく予定である。 今後はオーストラリアのPOW関係の資料の整理とデータベース化が求められる。 * 資料集 内海愛子・永井均編集・解説 『東京裁判資料-俘虜情報局関係文書』(現代史料出版発行、東京版発売、1999年3月、東京) 註 1 Archer L.Lerch, “Japanese Handling of American Prisoners of War ? a letter by Major Genral Archer L.Lerch” (証拠番号第914号)3-4頁。 2 前掲「ラーチ報告書」5-6頁。 3 俘虜情報局『俘虜取扱の記録』164頁、なお、廃止の年月は原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典』(新人物往来社、1997年)俘虜情報局の項参照。 4 前掲『取扱の記録』164-165頁。 5 同じ抗議が44、45年の2回にわたりなされているものがあるが、これは各年に算入した。これらの抗議は、内海愛子編・解説『俘虜取扱に関する諸外国からの抗議集』(不二出版、1989年)として復刻されている。 6 1945年8月21日、陸軍省俘虜管理部長の通牒、前掲『取扱の記録』135頁。 7 前掲『取扱の記録』153-154頁。 8 「俘虜取扱に関する規程」(陸亜密第1034号 1942年3月31日)、俘虜情報局『俘虜ニ関スル諸法規類集(昭和18年11月調整)』所収。 9 東京裁判での武藤章証言、『極東国際軍事裁判速記録』313号。 10 前掲『裁判速記録』148号。 11 俘虜管理部と軍務局の関係については前掲『裁判速記録』148号・149号・381号・382号。 12 保田治雄陸軍中佐調書。 保田治雄陸軍中佐は1942年5月25日から1945年7月まで俘虜管理部に、1943年8月から45年7月まで俘虜情報局に勤務していた。俘虜情報局では3番目の階級である。アメリカ国立公文書館RG331Box1323F5。 13 俘虜情報局「俘虜情報局ノ業務ニ就テ(旧陸軍俘虜管理部業務ヲ含ム)『公文雑纂巻13』所収。国立公文書館所蔵。 14 前掲「業務ニ就テ」。 15 前掲『裁判速記録』313号。 16 前掲『裁判速記録』344号。 17「俘虜タル将校准士官ノ労務ニ関スル件」(昭和17年6月3日、俘管4ノ2)前掲『諸法規類集』。 18 食料の削減については、ジョナサン・ウェーンライトが台湾の花蓮港収容所での体験を記している(富永謙五・堀江芳孝訳『捕虜日記』原書房、1967年)。四元正憲海軍主計大尉・俘虜情報局事務官ノ宣誓供述書「上村俘虜情報局長官ニヨル陸相訓示ノ敷衍」。『東京裁判却下未提出弁護側資料』第5巻、438-440頁、国書刊行会、1995年。 19 朝鮮人軍属イソングンの証言。1991年8月15日放映NHKスペシャル『チョムンサンの遺書』。同士への1979年5月のインタビュー。 20「俘虜ノ待遇ニ関スル英、米等各国政府ヨリノ照会ノ件回答」『大東亜戦争関係一件 交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係 一般及問題 俘虜ノ待遇ニ関スル条約関係』所収。外交史料館所蔵。 21『大東亜戦争関係一件 交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係 一般及問題ニ』所収。外交史料館所蔵。 22 東京裁判に提出された東条英機の宣誓口述書。東京裁判研究会編『東条英機宣誓供述書』、133頁、洋洋社、1948年。 23 前掲『裁判速記録』260号。 24 前掲『裁判速記録』260号、261号。 25 国際検察局の主張に対し、インドのラダビノット・パル判事は、「本条約はその形のままにおいては、日本にたいして有利にも、また不利にも、いずれも効力を有するにいたらなかった」と、検察局の「日本を拘束するものである」との主張に異論を唱えている。「パル判決書(下)」637頁、講談社文庫、1983年。 26 前掲『裁判速記録』376号。 27 前掲『諸法規類聚』戦後に編集された版に収録。185~188頁。なお、「俘虜取扱規則」第6条には次の二項が記されている。「俘虜不従順ノ行為アルトキハ監禁、制縛其ノ他懲戒上必要ナル処分ヲ之ニ加フルコトヲ得俘虜逃亡ヲ図リタル場合ニ於テハ兵力ヲ以テ防止シ必要ノ場合ニハ之ヲ殺傷スルコトヲ得」。捕虜の間では日本軍が捕虜全員を殺戮する計画があったと広く信じられている。ケネス・カンボン著・森正昭訳『ゲスト オブ ヒロヒト』(築地書館、1995年)には、収容所の外に大きな穴を掘らされたことから「それは、寺内元帥によって1945年夏の初めに公布された次のような命令によって明らかだ。『敵軍の本州上陸と同時に、俘虜全員を射殺せよ』」(122頁)とある。 同書にはこの命令の出典は書かれていない。南方軍総司令官の寺内寿一元帥が、「内地」の捕虜殺戮を命令することはありえない。 だが、殺戮の計画については、”Nippn Very Sorry-Many Men Must Die”, The Queensland Ex-POW Reparation Committee, 1990でもとりあげている。 28 前掲『取扱の記録』128-129頁、俘虜管理部から捕虜の引き渡しに関する通牒が各収容所長あてに出されている。朝鮮俘虜収容所長にあてた「俘虜引渡ニ関スル件」には、連合国が捕虜引渡に特に「注目シアルコト寧ロ吾人ノ想像外トスル所ナリ」とある。 29 俘虜管理部長「俘虜収容所ノ標識ニ関スル件」(俘解第13号)昭和20年8月21日 これには参考通牒として「敵側ノ通告及要求セル細部事項」が添付されている。『俘虜関係書類』国立公文書館蔵。なお、給養品の投下を目撃した長崎県香焼島の森定氏によると、一度に十 箱ぐらい落としていった。同時に写真撮影もしていたという。木箱にあたって怪我人も出た。(1999年1月31日、香焼島でのインタビュー) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|