オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト はじめに
Australian and Japanese attitudes to the war
特殊潜航艇
オーストラリア政府は2008年6月に、オーストラリア(防衛)戦記念日(Battle for Australia Day)を毎年9月第1水曜日に制定すると発表した。アラン・グリフィン退役軍人省大臣は、この日は「わが国がもっとも深刻な脅威に直面した1942年と1943年に、オーストラリアの防衛のために尽くしたすべての人々の奉仕と犠牲を記念する」日であると語った。はっきりとここでは言及されていないが、この脅威をもたらしたのは日本である。1942年に、オーストラリアはその歴史上初めて、本土直接攻撃を受けた。この年の2月19日に、ダーウィンは日本軍による爆撃を初めて2回経験したのだった。(爆撃総数は64回に上った。)その後、ブルームやタウンズビルなどオーストラリア北部の町も爆撃された。
ダーウィン爆撃は大規模な被害をもたらしたが、当時のオーストラリア国民の大多数にとっては、日本軍特殊潜航艇のシドニー攻撃がもたらした衝撃のほうが大きかったであろう。1942年5月31日の夜半、3隻の日本軍特殊潜航艇が探知されることなくシドニー湾に侵入し、その中心部に達した。そのうちの1隻は、ガーデンアイランド海軍基地内の軍事目標を狙って魚雷を発射した。混沌とした夜が明けた時、21名のオーストラリア人及び英国人水兵と、日本人潜水艦乗員6名が死亡していた。2隻の特殊潜航艇が沈められたが、1隻は行方不明になった。シドニー湾の海底から引き上げられる特殊潜航艇の写真は、オーストラリアに対する日本の脅威を強烈に象徴するものとして、このテーマを扱う本のカバーや新聞記事に繰り返し使われている。この写真はオーストラリアの人々に攻撃のことを思い出させた。さらに、特殊潜航艇は1943年以降、オーストラリア戦争記念館の代表的展示物として、何万人もの見学者にこの攻撃がオーストラリアの歴史の一コマであると思い起こさせる。
日本軍特殊潜航艇のシドニー湾攻撃に関して、すでに数多くの著書や記事が発表されている。もっとも信頼できるという評価を受けているのは、デービッド・ジェンキンス著のBattle Surface [浮上した戦闘](1992年出版)である。近年の本は、ピーター・グロースによる A very rude awakening [無礼な目覚め](2007年出版)で、1942年以降行方不明になっていた最後の潜航艇が、2006年に発見された後に出版された。詳細な参考文献リストはオーストラリア戦争記念館のサイト内の百科事典の部分に記載されている。(http://www.awm.gov.au/encyclopedia/midgetsub/index.asp)そこには本のリストだけではなく、官選歴史家であるハーモン・ギル著のオーストラリア公刊戦史に記述されている関連部分を読むこともできる。更に、オーストラリア国立公文書館がまとめた特殊潜航艇の資料データ表へのリンクもある。
このウェブサイトの目的は、特殊潜航艇攻撃そのものに関連する出来事を再訪することではない。それよりも、一連のエッセーと写真によって、攻撃が終わったあとに何が起こったかについて検証するところにある。攻撃後、オーストラリア当局は湾の海底から、破壊された2隻の潜航艇を引き上げ、日本海軍軍人の4体の遺体を回収した。オーストラリアの僻地でこのような攻撃が実行されたなら、船体は海岸に放置され、遺体は付近の墓地にひっそりと埋葬されたであろう。しかし、攻撃がオーストラリア最大の都市の中心部に当たる湾内であったため、マスコミの関心が非常に高かった。当局は、前例のない出来事に対処する必要があっただけではなく、敵の戦闘員の遺体をどう取り扱うかという問題に直面したのだった。
沈められた2隻の潜航艇の残骸から1隻の潜航艇が復元され、募金集めのために、オーストラリア南東部を4000キロ以上にわたって巡回展示された。終了後、潜航艇は1943年4月に永久展示のためにキャンベラに到着し、それ以降は戦争記念館の代表的展示物とみなされている。過去65年間に展示様式は大きく変化したが、この変遷についてもサイトの中で触れている。
1942年の攻撃終了後、沈没した2隻から回収された4名の潜航艇乗員の遺体は、シドニーでの軍隊式葬儀のあと火葬され、その後、遺灰は日本人外交官や民間人をオーストラリアから日本へ移送する交換船で日本に送還された。1942年10月の遺灰の横浜到着は、日本人の感情を高ぶらせた。当サイトでは、戦争中としては例外的出来事として、この時期のいきさつを詳しく取り上げている。オーストラリア側の手による日本海軍軍人の遺体の礼儀正しい扱いや葬儀の模様は、日豪双方の当局によって、まさしくプロパガンダ目的のために広く報じられた。潜水艦乗員の遺灰が日本で英雄的歓迎を受けた後、戦闘活動だけではなく子供時代や家族についても多くの記事が書かれ、彼らは伝説的な存在に高められていった。1944年には日本で大作映画が封切りになったが、この映画では、シドニーのハーバー・ブリッジの近くに停泊中の連合軍の戦艦が、魚雷攻撃を受けるシーンが特殊効果撮影で作り上げられ、大きな戦果が上がったかのように表現された。潜航艇乗員は軍神的英雄として戦争中は敬われたものの、1945年の日本の敗戦とともに、このような伝説的存在はあっという間に忘れ去れてしまった。
しかし、特殊潜航艇乗員についての記憶は完全には消えてしまわなかった。熊本県山鹿出身の松尾敬宇が今でも地元地域で記憶されていることは、興味深い。その理由は、戦争中の彼の英雄的な行為だけではなく、彼の母親が1968年にオーストラリアを訪問したからである。82歳の母親は、息子の所持品を受け取り展示されている潜航艇を見るために、はるばるとキャンベラのオーストラリア戦争記念館を訪れた。オーストラリアで彼女は特別に暖かく歓迎されたが、かつての敵に対して、相当の敵意が残っているであろうと予想していた日本側にとっても、意外な驚きだった。特殊潜航艇のストーリーは、年老いた母親の訪問がオーストラリア側に強い印象を与えたことで、別の広がりを生んだ。
特殊潜航艇攻撃とその後の出来事に関しては、いろいろな人が何度にもわたって語っている。2002年5月に訪豪した小泉純一郎首相(当時)は、国会議事堂でのスピーチで攻撃に触れ、オーストラリア側の遺体の丁重な取り扱いに感謝の念を表した。(このスピーチは当サイトに掲載されている)そこでは、攻撃は2国間の戦争での出来事というよりも、2国間の和解の過程として語られていることに、読者は気付くであろう。
しかし、攻撃とその後の出来事が長年にわたって何度も繰り返し語られる中で、歴史的事実と創作された要素が混乱してしまったように思われる。たとえば、在東京オーストラリア大使館の日本語サイト「日豪関係のスケッチ」に、下記のような記述がある。
「中馬艇は湾口の防潜網に絡まって航行不能となり自沈、松尾艇は発射管の損傷で魚雷発射が不可能となり、浮上して探照灯に照らされながらハッチから乗り出した松尾大尉と、艇内の都竹兵曹が自決、潜航艇は砲撃を受けて海中に没した。」[1]
さらに、有名な小説家である三島由紀夫は『行動学入門』の中でシドニー攻撃について書いている。「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉を明けて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が語り伝えられているが、このような場合にその行動の形の美しさ、月の光、ロマンティックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。」 [2]
オーストラリア大使館のサイトと三島由紀夫が触れた日本人海軍士官が潜航艇のハッチから軍刀をかざして現れるシーンは、映画のシーンとしては視覚的に強烈な印象を残すものの、実際には起こらなかった。当サイトは、歴史的事実とフィクションを区別しようとする試みである。さらにそれぞれのエッセーと翻訳文を通して、特殊潜航艇の攻撃に対する、戦争中及び戦後の、日豪双方の反応を検討する目的を持っている。
注
1. http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/09_postwar.pdf
2. 三島由紀夫『行動学入門』文芸春秋社。1974年。50ページ。
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