オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト 田村恵子
Australian and Japanese attitudes to the war
オーストラリアにおける特殊潜航艇展示の変遷
はじめに
本文は2008年5月31日-6月1日に、広島県呉市において開催された軍事史学会年次大会で、「軍事史研究と戦争展示」と題されたパネル・ディスカッションで発表した内容を基に、加筆したものである。本論の目的は、オーストラリアにおける日本軍特殊潜航艇の展示の様式や解釈が、1942年以降どう変化したかを検討し考察することである。 [1]
日本では太平洋戦争は対米戦争であったという認識が一般的には強いが、オーストラリアにとっての太平洋戦争は、まさしく対日戦争であった。さらに、本土が直接攻撃を受けた経験がなかったオーストラリアにとって、日本軍による1942年2月からのダーウィンを中心とした北部地域の空爆は衝撃的な出来事であった。それに追い討ちをかけるように、1942年5月末の日本軍特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃は、一般のオーストラリア人にとって、さらに大きなショックだった。それは、予想もしなかった奇襲攻撃だったうえに、オーストラリア最大の都市であるシドニーの心臓部ともいえる湾内に3隻の特殊潜航艇が侵入したことは強烈な戦慄をあたえた。
この攻撃の終了後、特殊潜航艇2隻が湾内から引揚げられたが、この日本軍の兵器が当時のオーストラリアでどのように扱われ展示されたかについて記述したい。なお、引揚げられたのは潜航艇の船体だけではない。艇内からは4名の日本海軍軍人の遺体も回収され、彼らのためにオーストラリア海軍が海軍葬を営み、後日遺灰は日本に送り返された。この葬儀と遺灰の送還は戦後の日豪関係の向上に大きな影響をあたえたため、展示には直接関係がないが本論考で記述する。
1942年以降の潜航艇の展示の移り変わりを見ると4つの時代区分ができる。
1)1942-43:オーストラリア海軍が戦利品として展示。攻撃終了後、湾内から引き上げられ、オーストラリア各地で一般市民に公開された。
2)1943-1985:キャンベラのオーストラリア戦争記念館での屋外展示
3)1985-2001:保存修復期間及び限定的な一般公開。コッカツー島造船所で修復作業が行われた後、オーストラリア戦争記念館のミッチェル収蔵庫で保管された。この間1992年に、シドニーの国立海洋博物館で攻撃50周年を記念する特別展において展示された。
4)2001年より現在まで:オーストラリア戦争記念館内アンザック・ホールにおいて、音響映像ショー展示。
特殊潜航艇のシドニー攻撃
特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃は、1942年5月31日夜半から6月1日の未明にかけておこった。日本海軍の甲標的型特殊潜航艇3艇が、湾内のガーデン・アイランド内オーストラリア海軍基地の軍事目標に対して攻撃をかけた。特殊潜航艇とは、2人乗りの小型潜水艦であるが、シドニー湾攻撃に参加した艇は、それぞれの艇長の名前をとって中馬(チュウマン)艇、松尾艇、伴(バン)艇と一般的に呼ばれる。なお同日、2隻の特殊潜航艇によるアフリカ東部マダガスカル島のディエゴ・スワレス港の奇襲攻撃が実行された。シドニー湾攻撃では実質的な戦果は上げることはできず、伴艇が攻撃目標の米軍巡洋艦シカゴをめがけて発射した魚雷は命中せず、ガーデン島の岸壁に当たって爆発した。この衝撃で、付近に停泊していたオーストラリア海軍の宿舎用船舶、カタバル号が沈没し、水兵21名(豪兵19名と英兵2名)が死亡した。また、伴艇が発射したもう1本の魚雷は岸に乗り上げ、不発に終わった。
攻撃の概略は次のとおりである。最初に湾に到達した中馬艇は、湾の入り口に張られていた防潜網に引っかかった。それから逃れようとしたが、スクリューが網に巻きつき、身動きが取れなくなってしまった。逃れることができないとわかった乗員は、司令塔の前方に仕掛けられていた爆薬35キロの自爆装置で艇を破壊し、艇と運命をともにした。次に湾内に侵入したのが伴艇だったが、この艇は前述のように搭載していた2本の魚雷を発射した。攻撃終了後、潜航艇は湾外に脱出し行方不明になってしまった。日本側の記録では、母艦と落ち合っていない。この潜航艇がどこに沈んだのかが、長い間オーストラリアの人々にとっての大きな海洋ミステリーだったが、2006年11月にシドニーのアマチュア・ダイバーたちが、シドニー湾外の北、20キロの海底に沈んでいる伴艇を発見した。[2] 最後に湾内に入った松尾艇は、すでに日本軍の侵入と騒ぎに気づいていたオーストラリア海軍の爆雷攻撃を受けて、シドニー湾内のテイラー湾で沈めらた。松尾大尉と都竹二曹は艇を離れることはなく、拳銃自殺した。
潜航艇の引揚げ作業
6月1日朝、攻撃が終了し、湾内で沈んだ2艇の潜航艇の引上げ作業が始まった。この作業の様子は、連日オーストラリア国内の新聞が写真入で詳しく報道し、市民の関心と好奇心の的となった。[3] 引上げ作業は、潜水作業員が水中に潜り、鋼鉄製ワイヤーを潜航艇の下に通して、潜航艇を吊り上げるように準備をして行われたが、途中でワイヤーが切断して難航した。ようやく、6月5日に松尾艇と中馬艇の2艇が引揚げられた。中馬艇は司令塔の前方部に設置されていた自爆装置で爆破したため、司令塔の前方部分の鋼鉄板が内側から外に向かって大きく破裂しており、艇の前方部分が完全に破壊されていた。松尾艇は爆雷攻撃を受けて沈んだため、艇外部の鋼鉄部分に数多くの陥没がみられ、さらに引上げ作業中に、海底を引きずられたため、後部が折れてしまった。これらの様子は新聞で逐一で報道された。
回収された潜航艇は、まずオーストラリア海軍が敵国の秘密兵器としての機能を綿密に調査した。乗員個人の所有品や衣服なども回収されたが、詳細なリストは作られなかった。引揚げ作業に従事した人々が、艇内から発見された乗員の所有物を無断で持ち出した場合もあるようである。[4] しかし、中馬兼四中尉の軍刀は、中馬艇で発見された後キャンベラのジョン・カーティン連邦政府首相のもとに送られた。首相は軍刀を自ら手にとって見た後、戦利品として戦争記念館で保管するようにと指示をだした。
海軍葬と遺灰の返還
4名の遺体は沈没した潜航艇から回収され、警察での検死手続きが終わった後、シドニーの東部郊外霊園内の葬儀場へ移され、そこで6月9日に海軍葬が行われた。遺体は日の丸で覆われた棺に納められ、葬儀後荼毘に付された。葬儀の出席者は、シドニー湾防衛司令官のミューアヘッド・グールド海軍少将とシドニーのスイス総領事ハンス・ヘディンガー氏のほかは、中年女性が1名と数名の新聞記者のみだった。しかし、葬儀場の外には、儀杖兵たちが整列し3発の一斉射撃をし、ラッパ手が葬送ラッパを演奏した。この葬儀の様子は、オーストラリア放送協会が録音し,日本に向けて放送している。この録音がオーストラリア国内向けに放送されたかどうかは未確認である。[5]
特殊潜航艇日本人乗員の海軍葬が営まれる予定であるとオーストラリア国内の新聞で報道された結果、各種の反応があった。葬儀に対して、反対の意向を示した団体は、愛国主義的な性格を持ったオーストラリア出身者協会(Australian Natives Association) や鉄鋼労働者組合などだった。[6] オーストラリア出身者協会の代表者、H.R.レディングは、潜航艇の攻撃によって自軍の水兵たちが死亡したにもかかわらず海軍葬を決定したとミューアヘッド–グールド少将を非難した。しかし、葬儀の翌日、1942年6月10日付のシドニー・モーニング・ヘラルド紙は、「敵は死んでしまったのだ」という見出しの社説で、ミューアヘッド–グールド少将の決定を擁護している。社説は、戦争の伝統とは、敵をも敬意を持って接し、戦闘終了後に礼儀にかなった葬儀を行うことであり、この伝統に対する抗議は、文明人としてのたしなみに欠けるものであると主張した。このように海軍葬は、決してミューアヘッド–グールド少将個人が周囲すべての反対を押し切って決定し実行したものではなく、当時の知識人階層には十分納得のいく決定だったことがわかる。
ミューアヘッド–グールド少将は、1942年6月下旬 に2FCラジオ局を通しての放送で海軍葬を行った立場を自ら説明した。[7] 放送の中でまず彼は、特殊潜航艇の性能について言及し、通常の潜水艦のようなバラスト・タンクや水平舵が装備がされておらず、潜水艦というよりも魚雷に人が乗ったような設計だと述べている。確かに、特殊潜航艇の装備は本来の潜水艦に比べると非常に簡略化されてはいるが、人間魚雷という考え方は当時の日本海軍は持っていなかった。[8] 特殊潜航艇は出撃後帰還できる性能を持っていると考えられていた。彼はさらに続けて潜水艦乗員の勇気を次のように称えた。
私はこの人々を火葬にするにあたって軍としての栄誉を与えたが、それは本来ならば敵の手によって戦死したわが方にされるべき扱いであるとの批判をうけた。しかし私はあえて問いたい。このような勇敢な人々に対して、十分な栄誉を払うべきではないかと。鉄の棺のようなものに乗り込んで出撃するには、最大の勇気を必要とするのである。私の順番が回ってきた時には臆病になりたくないが、平時でもあのようなものに乗ってシドニー湾を横切る勇気は私には無いと告白しなければならない。彼らの勇気は、ある国のみに限られた所有物でもなければ伝統でもない。われわれの国々の勇者たちにも、敵にも共通するものであり、戦争やその結果がどれほど悲惨であろうとも、認識され世界中で賛美される勇気である。彼らは最高の愛国者たちだった。彼らの千分の一の犠牲を払う準備がある者が、我々の中に幾人いるであろうか。戦闘の煙や大砲や爆弾の轟音の真っ只中では、雄雄しく従ったり、あるいは絶望的で希薄な可能性であっても雄雄しく先導しながら、我々の生命を勇敢に奉げることはそれほど難しくないかもしれない。しかし彼らのように、最後の犠牲を払う何日も前、いや何週間も前から、作戦を冷静に実行に移すためには、可能な限りの最高の愛国心を持ってしたのである。
放送の内容は日本に向けても報道された。ミュアヘッド–グールド少将は、日本軍人の勇気と自軍の軍人の勇気を公平に評価した後、潜航艇乗員たちを躊躇することなく心から称えている。さらに、危険な任務に冷静に取り組んだことを賞賛している。
ニュー・サウス・ウェールズ州立図書館図書館長だったジョン・メトカーフはこのラジオ放送を聴き、ミューアヘッド–グールド少将に直接連絡をとり、放送原稿を図書館に寄贈するように依頼した。原稿は、現在州立図書館内ミッチェル・ライブラリーに保存されている。この原稿寄贈に関連しての手紙のやり取りがファイルに残されているが、寄贈された原稿は後世のために保存するようにとの指示が、館長からミッチェル・ライブラリーの長のアイダ・リーソンに出されており、このスピーチの歴史的重要性が、当時の知識層によって認識されていたことがうかがわれる。
1942年8月に4名の乗員の遺灰は、日豪交換船シティー・オブ・カンタベリー号に乗せられてオーストラリアを出発し、アフリカ東海岸のロレンソ・マルケス(現モザンビーク首都マプト)に到着した。この船は、戦争開始以来オーストラリア国内で抑留されていた日本人外交官や民間人の送還のために航行した。著名な乗客の一人は、駐豪公使の河相(カワイ)達夫だった。交換船として戦争に同じように巻き込まれた連合国民間人を乗せて到着していた鎌倉丸に、遺灰は乗客とともにロレンソ・マルケス港で移された。鎌倉丸は1942年10月に横浜に到着した。この当時、海外邦人日本帰還のニュースはほとんど報道されず、特殊潜航艇乗員の遺灰の到着が、各新聞のトップ記事として扱われた。さらに、オーストラリア海軍が日本人乗員のために海軍葬を執り行った事実は、乗員たちの英雄的評価をさらに高めた。日本側の反応は、オーストラリアも注意深くモニターしている。
シドニーでの特殊潜航艇の一般公開
攻撃の翌日の1942年6月2日、潜航艇がまだシドニー湾から引揚げられてはいない時点で、オーストラリア各地での特殊潜航艇の一般展示の話がすでに持ち出された。戦争記念館担当の大臣だったジョセフ・コリングス内務大臣は、2隻のうちの1隻は戦争記念館で展示をするべきであると意見を述べている。さらに、シドニー市とメルボルン市の市長も、地元での戦時慰安基金の資金集めを目的とした展示を首相に要請している。 [9] このように早い時期に展示要請が出たのは、すでにアメリカで前例があったからである。1941年12月のハワイのパール・ハーバー攻撃の際に、5隻の特殊潜航艇が出撃したが、無事に母艦に戻ったのは1隻もなかった。1隻は座礁し、司令だった酒巻大尉は戦争捕虜第1号としてアメリカ軍に捕らえられた。この潜航艇がその後回収され、アメリカ国内の多くの都市で展示されたことを知るオーストラリア人がいたためであろう。アメリカでは、見学者から入場料が徴収され、それは戦争債券購入のために寄付されている。
オーストラリアでの最初の展示は、当時まだフォート・マッコーリーと呼ばれ、現在はオペラハウスが建っている場所で、1942年8月に開催された。その際に艇内から見つかったいろいろな品が競売にかけられたが、松尾艇の乗員が自殺をする際に使用した拳銃から出てきた銃弾もあり、アメリカ領事夫人のパーマー夫人と、デンマーク総領事のシャック伯爵がそれぞれ3ポンドずつで競り落としている。ミューアヘッド–グールド少将の孫も助手として競売に出席し、シドニー市長だったアルダーマン・クリック氏とその夫人に潜航艇の備品を売る手伝いをしている。[10] このような報道から、敵の秘密兵器を分捕った勝利を祝う華やかな機会だったことがうかがわれる。この競売の売り上げは、海軍の慰安基金に寄付された。
この展示の準備に、オーストラリア海軍はすでに戦争記念館に収められていた中馬の軍刀を借り出し、シドニーで展示したいと希望した。最初の計画は、軍刀を展示し、さらに見学者が刀を手にとって見れるようにするというものだった。この要請をうけたジョン・トレロー戦争記念館館長は難色を示し、一般見学者が軍刀を手に取るのは困ると返答した。トレロー館長の反応と戦争記念館がすんなりと軍刀を貸し出さないので、ミューアヘッド–グールド少将は激怒した。特殊潜航艇から見つかったものは、すべて戦利品であり、豪海軍の所有物とみなしていたであろう。戦争記念館が彼の要請を拒否できるなど納得できなかったのである。結局軍刀は、ガラスケースの中に収め警備をつけて展示するという条件をトレローがつけて、海軍に貸し出された。
国内巡回展示ツアー
シドニーでの展示後、国内巡回ツアーが実施された。このツアーは、1942年11月9日にシドニーを出発し、往路はキャンベラとメルボルンを経由してアデレードに到着した。復路は内陸部にとり、数多くの町を訪問した。最終目的地のキャンベラの戦争記念館に1943年4月に到着したときには、総距離4000キロを踏破していた。
巡回展示では、潜航艇は松尾艇の前方部分、中馬艇の司令塔部分とスクリューがある後部の3つの部分に分られていたが、一般公開の際には、組み合わせて原型に復元された。各部分はトレーラーに乗せられ、大型トラックが牽引して町と町の間を移動したが、巨大な積載物であったため、橋を渡ったり鉄道の高架橋をくぐったりする際には苦労をしたと記録されている。公開中は入場料を徴収し、見学記念として絵葉書を販売した。潜航艇に搭載されていたバラストの鉛を溶かして作った潜水艦ミニモデルや、艇内のボルトやナット、そして電線の切れ端なども記念品として販売された。記念品には本物であると証明するミューアヘッド–グールドの印刷署名入の札がくくりつけられていた。見学者は司令塔内の潜望鏡を触ることができ、記念に司令塔内部を写した絵葉書が証明書として手渡された。この収益は海軍の慰安基金に寄贈された。
展示の際、司令塔の前方部は爆発の勢いで破裂した様子がはっきりとわかった。松尾艇の前方部ではなく自爆した潜航艇を国内で展示したのは、おそらく劇的な効果のためであろう。さらに破壊された潜航艇は、敵が完全に撲滅されたことを表しているのである。
特殊潜航艇展示はそれぞれの町で人気を呼び、多くの見物人が行列を作るほどの人気だった。ツアーがメルボルンに到着したの1942年の年末で、クリスマスや新年はオーストラリアの夏休みの時期だった。展示の宣伝のために、特殊潜航艇がトレーラーに乗せられて市内の目抜き通りを通過している写真が残っている。見学者は会場で潜水艦を間近に見るだけでなく、チョークで船体に落書きをすることも許され、自分の名前を船体に書く人が多かった。
巡回ツアー中、トレーラーに乗せられた潜航艇には、船の所属を示す目印としてオーストラリア海軍旗が掲げられた。もはや潜航艇は、日本ではなくオーストラリア海軍の所有物であるという象徴だった。さらに、最終目的地のキャンベラに到着する際には、オーストラリア海軍の慣例に従い「支払い三角旗」(paying-off pennant)と呼ばれる航海の終了と目的地への到着を示す三角旗が掲げられた。
この国内巡回ツアーでは、敵の秘密兵器が海中から引揚げられその全貌が明らかにされるだけでなく、潜航艇に手を触れ、そこに落書きし、部品を記念品を購入することができた。このような行為によって、見学者が敵への恐怖心を克服し、さらに打ち負かしたような気持ちにさせる効果があった。さらに、シドニー湾内まで潜航艇が侵入した事実は、戦争がすぐ間近まで迫ってきたことを実感させる機会にもなった。
オーストラリア戦争記念館での展示
特殊潜航艇は1943年4月にオーストラリア戦争記念館に到着した後、本館西側の屋外に仮設された囲いの中に展示された。艇の前方部、司令塔部分、そして後方部という3つの部分は、それぞれが地上60センチほどの高さの台にすえつけられた。さらに魚雷が1本、艇に平行して展示された。その後、仮設の囲いが撤去され、潜航艇は屋外展示となった。記念館敷地内のこの一帯は自由にいつでも見学でき、金属板に刻まれた解説板が横に設置されていた。潜航艇の内部を見学者が覗けるように、ところどころに四角い覗き窓が開けられた。このように屋外展示された潜航艇は、戦争記念館の代表的展示物になった。キャンベラ市民やオーストラリア各地からの訪問者の戦争記念館の思い出は、特殊潜潜航艇に触ったり、あるいはよじ登ったりしたことだった。
長年の屋外展示期間中には、思いがけない出来事も起きた。1966年9月、特殊潜航艇が夜間にペンキで黄色に塗られる事件があった。ちょうど、ビートルズの「イエロー・サブマリン」がヒットしていた時期だった。この事件は、地元新聞でも報じられたが、展示品を傷つけられ非常に憤慨した戦争記念館は、早速ペンキをはがす作業をした。その翌日、地元の大学生2名が「冗談のつもりだった」と「自首」し謝罪をした結果、学生たちは戦争記念館係員の作業手数料として16ドルを支払うことで一件落着となった。残念ながら、黄色に塗られた潜航艇の姿を記録した写真は見つかっていない。
屋外展示中、はがれた塗装の塗り替えなどの補修は時々なされた。しかし、潜航艇は戸外で風雨にさらされたため、船体の外部や内部に錆や金属の腐敗が見られ、修復保存作業の早急な必要性が検討され始めた。艇内の蓄電池からもれた酸の中和作業や海水の塩分の除去作業がなされないまま展示されたため、保存状態のさらなる劣化が予想された。修復保存作業を戦争記念館内で行なかったため、シドニー湾内のコカツー島造船所に送られることになった。ここはかつての海軍造船所で、見習い工の訓練を兼ねてこの修復作業をすることに決まった。1985年3月に潜航艇は再びシドニーへ運搬されることになった。シドニーとキャンベラを結ぶヒューム・ハイウェーを、1942年から43年にかけての全国巡回ツアー以来、40数年ぶりにシドニーへ向かった。コカツー島は、シドニー攻撃の目標のひとつにあげられていたが、そこに運ばれて、攻撃によってカタバル号船内で死亡した海軍水兵たちと同じ年代の若いオーストラリア人職工たちの手で、丁寧な修復作業が行われたのは、時が流れ状況が変わったことを象徴している。
この作業中、艇内にあった機材はすべて取りはずされた後、再び組み立てられた。腐食した金属板は修復され、艇の内外部も新しく塗装された。この作業の際に、内部に残っていた塗装材料を分析し、床部分には耐酸性の赤い塗料が塗られていたことが判明したため、床には同種の塗料が使用された。計器も修復し内部の配線も新しい絶縁テープで巻きなおされた。2年間にわたった作業の終了後、潜航艇は再びトラックに載せられて、1987年7月にキャンベラに戻り、9月30日には戦争記念館で正式の引渡し式が挙行された。造船所の監督官は、修復作業を通して潜航艇を建造した当時の日本海軍の高い技術水準がわかったと語った。さらに、彼は潜航艇は一回限りの特攻用に建造されたものではなく、繰り返し使用される前提で作られた兵器であることが実証されたと述べている。
丁寧な修復保存作業がなされた潜航艇は、屋内に収蔵された。司令塔を除く前方部と後方部分が戦争記念館での特別展示で1988年に披露された後、潜航艇はキャンベラ郊外にある戦争記念館ミッチェル収蔵施設で保管されることになった。ここでは風雨にさらされることはなかったが、施設の場所と開場時間が限られていたため、見学が制限された。戦争記念館の代名詞である潜航艇を本館内で展示できるようにすることが課題となった。
国立海洋博物館特別展:「本土攻撃!」
1991年に国立海洋博物館がシドニーのダーリング・ハーバーに開館した。この博物館の第1回特別展は「本土攻撃!」(英語原題”Hitting Home!”)と題され、特殊潜航艇シドニー湾攻撃50周年を記念した企画展示だった。この展示の呼び物として潜航艇が展示されることになり、艇は再び陸路シドニーへの旅に出発した。この特別展は1992年6月から翌年の1月までの7ヶ月間開催された。開館まもなくの海洋博物館の最初の特別展は、非常に力が入ったもので、入場者数は日本人入場者も含めて延べ19万人強に上った。
この特別展のオープニングは、攻撃の50周年記念日にあたる1992年5月31日の夜に開催された、シドニー湾周辺地区の行政機関が博物館に協力し、特殊潜航艇攻撃の歴史的再現が実施された。海洋博物館はシドニー・フェリー会社と地元ラジオ局の協力を得た。オープニング行事の参加者は、午後の特別見学会終了後、フェリーボートに乗船し、攻撃の際に魚雷が岸壁に当たり爆発したガーデン島付近に移動した。その時間には湾を囲む地域の市街部の街灯が消され、戦時下の灯火管制が再現された。さらに地元の2UEラジオ局は、人気アナウンサーのギャリー・オーキャナハンの司会で特別番組を編成し、1940年代の音楽を流し、さらに攻撃のあった1942年当時の思い出や体験を聴取者がラジオ局に電話し、その声を生放送で流すという形式をとった。日没後、特殊潜航艇の魚雷攻撃を模して花火が打ち上げられ、その後、1分間の黙祷がささげられた。そして、灯火管制が解除され、参加者を乗せたフェリーボートはシドニーの波止場に戻った。
特別展のオープニング企画は、従来の博物館での定置展示とは違った様式として注目できる。攻撃の歴史的再現を通して、シドニー市民の当時の記憶を蘇らせるだけではなく、戦争を知らない若い世代の人々に、50年前の出来事を疑似体験させようという狙いだった。この大規模な行事は成功裏に終わったが、それに対して反対を唱える声もいくつかあった。つまり、1942年当時のシドニー市民を恐怖に陥れた特殊潜航艇攻撃を、まるでショーのように演出しただけでなく、宿泊船カタバル号で死亡した水兵たちに十分な敬意を払っていないというものだった。
海洋博物館での特別展入場者の中には、感想コーナーに文章を残した人もいた。このように潜航艇特別展は、歴史的事実を見学者に伝えるだけではなく、見学者の記憶を呼び起こし、再び考えてもらおうとする試みだったといえる。このようなプロセスによって、展示物が見学者の心情的により迫る効果を持つと考えられ、博物館展示としては新しい方向を探ったものだといえる。1992年のシドニー特別展終了後、特殊潜航艇は再びキャンベラに戻り、戦争記念館ミッチェル収蔵施設内で保管され、戦争記念館本館での展示が始まる日を再び待つことになった。
アンザック・ホールでの展示
2001年になってようやく、戦争記念館本館での潜航艇公開が実現した。本館北側に大型展示物収容のためにアンザック・ホールが増設され、特殊潜航艇を主要展示物として2001年6月にオープンしたのだ。そこで採用された展示手法は、「オブジェクト・シアター」形式と呼ばれている。つまり、音響と映像を使って展示品に関する歴史的な出来事を説明し、当時の状況と臨場感を作り出そうとするのである。展示物は見学の焦点となるとともに、展示場で語られるストーリーの大道具の役割もする。この音響映像「ショー」は毎時ごとに実施される。
それではどのような物語がアンザック・ホールで語られているのだろうか。近年、博物館は、モノを展示しそれに関する説明だけではなく、そのモノをめぐる「物語」(ストーリー)を語る手法がとられることが多い。2005年に広島県呉市で開館した大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)は、多くの入場者を集めている。その設立と建設を献身的に推進した前呉市長小笠原臣也氏は、著書『戦艦「大和」の博物館』のなかで次のように書いている。博物館設立に貢献した広島国際大学の千田武志教授が、「博物館は来館者に物語性を感じさせなければいけない、そのためには歴史的必然性とそこで活動する人間の姿が見えなくてはならない」と主張した。 [11] 小笠原氏によると、千田氏は何度もオーストラリア戦争記念館を訪問し、そこで物語性を持った展示スタイルの影響を受け、なんとかそれを呉に取り入れようとした。
アンザック・ホールにおける特殊潜航艇展示は、一見するとオーストラリア側のみから見た特殊潜航艇攻撃を物語っているように見える。しかし、じっくりと深く観察し、角度を変えた分析をすると、実はオーストラリアと日本の2つの見方をした物語が語られている展示であることが明白になる。
物語性を語る際に必要な要素は、物語の内容だけではなく、それを誰が誰に対して語るかである。内容と解釈は、誰が話し誰が聞くかによって変わってくる。オーストラリア戦争記念館の場合、この点がはっきり法律によって定義付けられている。つまりオーストラリア連邦政府によって制定されたオーストラリア戦争記念館法(1980)によると、戦争記念館の役割は「戦闘や戦闘に近い状況での軍務に従事した結果死亡したオーストラリア人を追悼するために、国家的な記念行事を維持・発展させ、資料の展示や研究を行い、オーストラリアの軍事史や記録資料や記念行事に関する情報を普及させること」となり、追悼の場、博物館、調査機関としての戦争記念館の役割の焦点は、オーストラリアにはっきりとあてられ、オーストラリア人が聞き手であるという前提の下に、話が構成されている。 [12]
しかしこれは基本的ガイドラインであり、歴史理解に際してはオーストラリア以外の視点を取り入れることも可能であり、その姿勢が見られるのが特殊潜航艇の展示であろう。
アンザック・ホールには本館の2階部分から渡り廊下を通って入場するため、見学者はまず階上からホールの地上階の展示を見下ろすように見学する。ホールに入場すると同時に目に入るのが、中央に展示されている特殊潜航艇で、ちょうど海中から浮上するような角度で2本の支柱に支えられた台座の上に展示されている。潜航艇の前方に搭載された魚雷の覆いが見学者の目を捕らえる。
「シドニー・アンダー・アタック(攻撃されるシドニー)」と題された音響映像特別展示が毎時約10分間にわたって行われる。見学者の多くは2階部分とほぼ同じ高さに作られた見学用踊り場からこの展示を見る。開始時には照明が落とされ水中のようなブルーになり、まるで潜航艇が水中にいるように見える効果がある。天井近くに据え付けられた円形スクリーンに、湾内に入ってきた3隻の潜航艇の航路とそれぞれの運命が映像で映し出され、防潜網に引っかかり逃れられなくなった中馬艇が自爆する際には、音響と照明の効果で爆発の臨場感がだされる。この照明音響ショーでは、1942年の日本軍のシドニー湾奇襲攻撃を、オーストラリアの人々がどのように体験したかを扱っている。
ショーで紹介されるのは、オーストラリア人の語りである。一番最初の男性の声は、シドニー上空を偵察飛行した日本軍パイロットの報告が日本語で流れ、その英語訳がスクリーン上に字幕で映し出される。しかし、その後はすべてオーストラリア人の語りで、潜航艇を防潜網の近くで小型手漕ぎボート上で発見した警備兵の語り、シドニー湾付近に住んでいた一般市民の反応、魚雷攻撃で沈没したカタバル号で就寝していた水兵の声、その救助に参加した兵士の言葉である。そして国民は決して油断をすることが無いようにというフォード副首相の言葉、そして最後は「この頃は世界中、安全なところは無いものだ」というあるシドニー市民の感想で終わる。
この映像音響ショーはオーストラリアの物語である。絶対安全だと信じられていたシドニー湾は日本軍の奇襲攻撃にあったが、大きな被害を受けることなく攻撃は終了した。国民は戦争では常に油断をすることなく警戒を怠ってはいけないという教訓を得たのだ。
では、オーストラリア側の語りに対比して、日本側の視点は展示にどのように反映されているのだろうか。この点に関して、特殊潜航艇の展示担当者の一人だったロバート・ニコルス博士は、学芸員たちは潜航艇乗員の勇敢さに感銘を受け、彼らの人間性を展示に反映したかったと語った。しかし、ホールが原則的に大型兵器展示の場所として決められており、技術面の展示が重視された。結果的に、希望したほど人間性のある物語にできなかったことは残念だったと彼は語った。
音響映像の特別展示が終了すると、見学者たちは踊り場から地上階に降りていく。暗かった照明が元に戻ると、太い2本の金属支柱に支えられて水中に浮かんだように展示されている潜航艇の下に、陳列ケースが2つあるのが目にはいる。このケースの前に立ち、潜航艇を下から見上げると、ちょうど自爆装置が仕掛けてあった個所であったことに気付く。その部分は内部から非常に大きな圧力がかかったため、厚い鉄板が紙切れが反り返るように外に向かって広がり、爆発の威力が感じ取られる。さらに、視線を左に移すと、司令塔入り口への開口部分が見え、この内部で2名の乗員が潜水艦を操縦し、そして爆発によって死亡したことがわかる。
潜航艇の下の展示陳列ケースの、左側ケースにはジャイロスコープや時計、ねじ回し、電線など、艇内で見つかった計器類が展示されている。右側のケースには、制服に縫いつけられていた名札、小型のキセル、十銭玉、半長靴一足、出撃前の乗員の写真が展示されている。個々の乗員の名前は付記されていないが、見学者はこの潜航艇に搭乗しシドニー攻撃に参加し、湾内で死亡した日本人乗員の姿を写真で見ることができる。そしてケースの最後には、シドニーで行われた海軍葬の写真が展示され、遺灰は日本に返還されたと記され、ミューアヘッド–グールド少将が日本人乗員の勇気をたたえた言葉が抜粋されている。
ここでアンザックホールの特殊潜航艇展示を再分析すると、最初は見えてこなかった日本とオーストラリアの二つの視点を読み取ることができる。見学者は、まずホールに2階部分から入場し踊り場で音響映像ショーを見学し、潜航艇の攻撃をオーストラリア人の視点から追体験する。軍人やオーストラリア人一般市民として、潜航艇を湾内の海面上、あるいはシドニー湾をかこむ陸から見た臨場感を、そこでは音響と照明と映像を使って追体験することができる。しかし、この踊り場から地上階に下りて移動し、潜水艦を見た時、見学者の場所が変わる。水面上から水中に自らの立っている場所を変えることで、観点も変わり、攻撃を仕掛けた日本人乗員の体験を追うことができる。その場所で語られるストーリーは日本のものであり、自爆した潜航艇と艇内で戦死した乗員の遺品を見て、オーストラリア海軍によって営まれた海軍葬についての説明を読むのである。
このようにアンザック・ホールの展示は、入場者の立つ位置を変えることによって、水面上から水中へと視点を変え、オーストラリアと日本の物語をひとつの展示物で語るという効果を持っている。この展示効果は展示企画者が最初からデザインしたものではなかったが、企画の際に何とか敵と味方の視点、つまり日豪の視点を取り入れようとした意図がこのように表現されたとも考えられる。
むすび
日本軍特殊潜航艇は、1942年から1943年にかけて、オーストラリア各地で展示された後、過去65年の間にキャンベラのオーストラリア戦争記念館の代表的展示物となり、多くの一般市民の目に触れてきた。国内巡回ツアーでは、潜航艇の一部を記念品として一般市民が購入し、潜航艇に直接触れることができた。このような展示方法は、オーストラリア人にとって、特殊潜航艇を敵の秘密兵器から手に入れたり触ったりできるモノに変化させたと考えられる。そうすることで、敵への恐怖心を克服し、敵を完全に打ち負かしたと思わせる効果があった。
特殊潜航艇のシドニー攻撃は、戦闘要員同士で戦われた戦闘であり、一般市民を巻き込まなかった。さらに、この攻撃は南西太平洋の島々での過酷なジャングル戦や、連合軍捕虜の取り扱いをめぐる厳しい日本人観が発生する前に起こった。このため潜航艇攻撃は反日感情をかきたてることなく、後の日豪間の和解の過程に大きく貢献した理由のひとつかもしれない。そのため、シドニー攻撃は、オーストラリアの一般市民が戦争の危険性に現実的に直面し、教訓を得た出来事であるという解釈が一般的になされている。遺灰の日本への返還を含む攻撃後の出来事は、日豪間の和解の過程で重要な役割を果たした。
戦争記念館における現在の展示手法は、オーストラリア人から見たシドニー攻撃という視点が強調されている。しかし、見学者が展示場内で立つ場所を変えることで観点も変化させ、日本のストーリーを物語る空間も提供しているといえる。
注
1. 発表の内容は、「パネル・ディスカッション『軍事史研究と戦争展示』』として、他のパネラーの発表とともに『軍事史学』第44巻第4号(2009年3月)pp.9-37に掲載されている。
2. 伴艇は引揚げることなく、海底に沈んだまま海洋遺跡として保存することをオーストラリア連邦政府環境・歴史遺産・芸術省及びNSW州政府環境省が決定した。海洋考古学者、Tim Whiteによる詳細な伴艇調査報告書が公表されている。(http://www.heritage.nsw.gov.au/docs/M24_wreck_report_Dec2007.pdf)
3. シドニー・モーニング・ヘラルド紙、1942年6月1日-4日の紙面など参照。
4. オーストラリア戦争記念館が現在所有している乗員の持ち物の中にも、一度は艇内から関係者によって持ち出されたものの、その後戦争記念館に寄贈されたものもいくつかある。また、2008年6月には、特殊潜航艇の舵と言われる品がオークションに出されて、話題を集めた。
5. この録音はオーストラリア放送協会(ABC)アーカイブに保存されいる。1951年にこの放送のナレーションを務めたABCのディレクター、フレッド・シンプソンがこの録音盤を日本に持って行き、英語解説に日本語解説が加えられたものが作成された。
6. ヘラルド 紙1942年6月11日付、シドニーモンニングヘラルド紙1942年6月9日付。
7. ミュアヘッド–グールド少将の放送原稿はシドニー州立図書館内ミッチェル・ライブラリーに保管されている。(Mitchell Library, ML Aw102/1)。
8. この点に関してはオーストラリア戦争記念館のGary Oldman氏の示唆をいただいたことをここに感謝する。
9. David Jenkins著Battle Surface!: Japan’s Submarine War against Australia, 1942-44, ランダムハウス刊、1992年。 p.61。
10. Steven Carruthers著 Australia under Seige: Japanese Submarine Raiders 1942。Solus Books刊。1982年。 p.162。
11. 小笠原臣也『戦艦「大和」の博物館』p.142。
12. </a>http://www.austlii.edu.au/au/legis/cth/consol_act/awma1980244/s5.html
Printed on 11/05/2024 10:29:07 PM