ポートモレスビーにおける連合軍は、比較的小規模で装備も防備も貧弱なものであったが、1942年中期までに強化を完了していた。またポートモレスビーは、ニューギニア東部のミルン湾で拡大しつつあった基地と並んで、ラバウルの日本軍主要基地を空襲するための経由地点であった。日本軍にとってポートモレスビーを占領することは、この切迫した脅威を取り除き、オーストラリア北部の連合軍基地を攻撃するための足場を確保するだけでなく、この地域の供給ルートを撹乱させることをも意味していた。
5月の珊瑚海海戦と7月のミッドウェー海戦の失敗によって、FS作戦と呼ばれた海軍によるフィージー、サモアそしてニューカレドニアの攻略計画は延期された。大本営陸軍部はそれに伴い、第17軍に対してポートモレスビーの陸路攻撃の可能性をさぐるための調査(リ号作戦)の実施を指示した。
堀井富太郎少将の指揮する南海支隊は、1941年12月のグアム攻略と1942年1月のラバウル攻略を成功に導いた主力部隊であった。5月に実施されたポートモレスビーの海路攻撃失敗後、南海支隊は第17軍の隷下に入り、陸路攻撃を実行せよとの命令を受けた。このため、歩兵第144連隊の第1大隊が独立工兵第15連隊と他の支援部隊に合流して横山先遣隊を構成した。
日本軍にとって作戦計画上の一番の懸念は、連合軍と比べて物質力の点でも戦闘計画地域における対空援護の点でも明らかに劣っていることに加えて、自軍の兵站支援にあった。つまり、ポートモレスビーにおいて勢力を増大している連合軍を打ち負かすために、自軍に対して補給を続け、険しい山中を十分な兵力を維持して行軍できるのであろうかという点であった。6月末に堀井少将は、目的地までの距離の半分以上で車道を使用できない限り、必要な食料、弾薬、その他の補給物資を人力で運搬するのは、あまりにも負担が多すぎるという意見を上申した。
北部海岸にあるブナからココダを通過し、険しいオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビーへと到達する計画ルートは、現地人の証言、文書、地図そして航空写真によって決定された。しかし、第17軍の参謀たちは、果たして山中に道路が存在するのか、また(存在するとすれば)その道路の状態についての正確な情報を把握していなかった。それにもかかわらず、ブナからココダまでは自動車道が存在するであろうという誤った判断は、この作戦に重大な問題を引き起こした。
第17軍は第4艦隊の協力をあおぎ、松山光治少将が第18戦隊(天龍、龍田)および第29駆逐隊(朝凪、夕月、卯月)を指揮した。ラバウルからブナへの兵員、馬、そして補給品の輸送は、優速輸送船の綾戸山丸と良洋丸が担当ことになった。輸送中と上陸に当たっての上空直衛は第25航空戦隊と台南航空隊が担当した。
南海支隊の主力は、8月中旬に予定されていたブナへの移動を待ってラバウルに待機していた。この主力部隊は、第144連隊を中心として構成され、そこに第55師団の支援部隊が配属された。加えて、工兵部隊、海上輸送部隊、通信部隊および給水部隊がジャングルやオーエンスタンレー山脈でそれぞれの任務を果たすことになっていた。
先遣隊の出発予定日一週間前の7月15日に、第17軍司令部は調査研究の結果を待たずに陸路攻撃を開始するようにという指示を受けた。この作戦の準備を担当したのは、辻正信大本営陸軍参謀で、ダバオと次いでラバウルに派遣された。攻撃開始の決定は彼の独断で下されたが、まもなく大本営からの詳細な命令がもたらされた。
横山先遣部隊は、佐世保特別陸戦隊と海軍設営隊の兵たちと共に、7月21日夜間にブナとゴナへの上陸を成功裏に完了した。この海岸地帯においては抵抗は殆どなく、侵攻部隊の主力のまじかな進出に備えて、道路と補給ルートの確保のために内陸部へと向かって進んだ。
スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)
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作戦詳細 堀井と補給 訓練 軍装 士気 金本林造 辻正信 南海支隊の兵力
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