日本軍歩兵の標準完全軍装は、約28キロの重量がある。その内容は、小銃と弾薬120発、ガスマスク、水筒、手榴弾2個、鉄帽と擬装用網、軍服上下、予備の靴一足そして配給鉄剤が4袋と米6キロであった。しかし、ポートモレスビー攻撃に備えて特別の調整が行われた。たとえば、携行する弾薬は60発あるいは30発に減らされ、ニューギニアへはガスマスクを持ってこなかった。
補給をいかに確保をするかが、この攻撃の一番困難な要素だった。結論として、20日分の食糧である米12キロを、各兵士が運搬することになった。日本の農家で使用していたのと同じ形の背負子(しょいこ)が、ラバウルで作られたが、それに荷物を載せると重量が全部で49キロにもなった。機関銃部隊の場合には、これよりもさらに重く、56キロにもなった。すべての荷物を背負子に積上げなくてはならないので、その高さは兵士の頭上を30センチも越えた。
各部隊は、任務に応じて違った装備を運搬した。22歳の田村ヒコイチ上等兵は、1942年11月11日にオイビで捕虜になった。彼は歩兵第144連隊に配属された工兵第55連隊第1中隊の一員であった。彼は尋問に対して、その中隊所属の小隊隊員12名が、工兵用装備一式を運搬したと答えた。その中身は、ショベル4本、つるはし3本、斧一丁、手斧一丁、槌一丁、針金切断器具一丁、そして伐木用の大きなのこぎりであった。さらに、釘と止め釘は各自が携行した。弾薬は不足していたため、各々30発しか配られなかった。
歩兵第144連隊第3大隊砲兵第3小隊の一等兵だった山本太郎は、1942年10月3日にイオリバイワで連合軍の捕虜になった。山本は尋問の際に、彼の部隊では各自小銃弾を60発携行したと答えた。加えて補充弾薬の搬送は、ラバウルから同行した現地人運搬人が担当した。各兵士はさらに、大隊砲(九二式歩兵砲)の砲弾2個ずつを運搬した。一つの砲弾は、長さ50センチ直径5センチで、重さは8キロあった。530キロの重さがある九四式山砲は、ポートモレスビーに向けて進攻する軍と共に運ばれた。この山砲は分解して運搬できたものの、山脈を越えて人力でこれを運ぶには、72名の頑強な兵隊を要とした。
ココダまでは、駄馬一頭につき80キロの重量の荷物を運んだ。馬一頭に積んだ典型的な荷物は、針金切断器10丁、綱5巻、機関銃用の弾薬1800発そして自動小銃用の弾800発であった。ココダを過ぎると道が険しくなり馬が使用できなかったため、馬に代わって兵士たちが荷を背中に負わなくてはならなかった。
通過地点の地形についての情報が不足していたことは、歩兵144連隊第1大隊の2個中隊が、それぞれ30台の自転車を運搬していったことに象徴される。このことは、1942年11月15日にパパキ付近で捕虜になったイガウエ・トキオ上等兵が尋問のなかで述べている。しかしこの自転車は全く利用価値がなかったわけではない。病気の兵士が時々自転車に乗ることができたが、しかし道路の状態が悪く、泥が深くなったため、最終的にはうち捨てられてしまった。
田村恵子記
参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書南太平洋陸軍作戦1:ポートモレスビー-ガ島初期作戦』1968年。朝雲新聞社刊。344頁。
太平洋南西地域連合軍翻訳通訳部門 尋問報告書 第9,10,17,21,30号 (AWM55 6/1).
『「ブナ」「ギルワ」方面戦闘ノ教訓及将来攻勢ニ関スル情報資料』防衛研究所蔵、南東東ニューギニア341。6頁。
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作戦詳細 堀井と補給 訓練 軍装 士気 金本林造 辻正信 南海支隊の兵力
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