ムーニー氏は、1981年よりカウラ観光開発協会の役員に就任したのが、日豪親善活動を始めたきっかけになった。1981年から83年まで続いた旱魃の際には、日本庭園に植えられた樹木を枯らさないように、水遣りを有志が手分けして行った。1984年に公開されたフィル・ノイス監督の「カウラ脱走」という映画によって、カウラ日本庭園の知名度が上がり入場者も多くなった。 1984年にムーニー氏は、ドン・キブラー氏やジム・デービッドソン氏と日本を訪問し、日本庭園に対しての援助を日本の関係機関に要請した。その結果、東京都からの資金援助を得ることに成功し、庭園の2次工事を1986年に完成することができた。彼は1990年代前半まで、日本庭園の開発管理委員会の委員長としてかかわり、1990年の「サクラ・マツリ」の立ち上げにも大きく貢献した。 ムーニー氏は、カウラと日本の親善に貢献した永倉財団、戦没者墓地と捕虜収容所跡を結ぶ道路に桜を植樹しサクラ通りとする活動、戦没者墓地の最初の設計プランについても語っている。さらにムーニー氏は、連合軍捕虜収容所のあった直江津(上越市)とカウラの間の和解運動や、日豪の若者たちの相互理解を深める目的を持った、高校生の交換留学制度やユース・フォーラムの企画開催にも貢献した。また2001年8月には豪日協会全国大会をカウラにおいて開催した。 豪日の絆が深まるにつれて、日本からも多くの訪問者を迎えたが、ムーニー氏も訪日の際には、中曽根元首相や渡辺美智雄氏などとも面会をする機会があった。さらに1988年には世界平和の鐘をカウラに招聘することに成功した。 彼は今後の運動が若い世代に引き継がれ、途切れることなく続いていくことを心より希望していると語っている。 インタビュー原文(訳 伊吹由歌子 POW研究会) テリー・コフーン:トニー、プログラムへ参加してくださって感謝します。まず、どんな経緯で貴方は日本と関わるようになったか伺いたいのですが。 トニー・ムーニー:1981年ドン・キブラーがカウラ観光開発の社長だったとき、彼が委員会に私を推すと言ってきました。その年の選挙で私は選ばれて日本庭園委員に任命されました。1981年、カウラにひどい旱魃があって庭園は被害を受け、訪れるひとも少なかく、財政的には深刻な問題がありました。私の提案で給水チームが結成され、週に2回数グループが日本庭園へ行っては木々や潅木に水をやりました。チームのメンバーはドン・キブラー、ハリー・ハッチソン、ブライアン・スミス、ジェフ・ダーニー、それと私です。1983年5月にやっと旱魃が終わるまで続きました。この頃にはまた「カウラ暴動」の映画も計画され、フィル・ノイスの製作で、 私の記憶だと1984年ごろついにリリースされました。これによってカウラと日本庭園を大々的に宣伝する目的があったわけです。ほんの少数しか訪れるひとのなかったのが、70,000人もやってくるようになりました。このため日本庭園ははじめて財政的にうるおい、かなりの備蓄もできたのです。映画については少々物議もかもしました。オーストラリア兵たちの扱いが正当でない向きがありましてね。でも、いま申したとおり、他の面でよいことがあり、映画はカウラと日本庭園の宣伝になりました。1984年に、ドン・キブラー、私そしてジム・デイヴィドソンは日本へ行くことを決め3週間ぐらい滞在しました。旅の終わりには、私たちは東京都に招待され、このときの会合で東京都が日本庭園の第二期計画に資金提供を申し出ました。この基金は最終的におよそ百万ドルとなって、第二期計画のみならず、現在のメインテナンス基金にもなっています。東京都とニュー・サウス・ウェールズが互いに姉妹都市をさがしているという絶好の時期に私たちは日本に行ったとみえます。東京都は日本経済新聞の記事で、日本庭園のこと、旱魃によって庭園が困難に直面していることなどを読んでおり、姉妹都市提携を結ぶに際し何か前向きなことがしたかったのです。その照準を彼らはカウラ日本庭園に合わせたわけです。 コフーン:第二期工事は1978年にはじまったわけですから、東京都からの資金を受け取っったのは、そのあとのことだったのですか? ムーニー:いいえ、第二期工事は1986年に完成しました。 コフーン:完成はその年なのですね。 ムーニー:そうです。計画は1984年に始まって、建設は1985年にケン・ナカジマという造園師がやってきて着工し、この第二期工事の進展が東京都の基金によって可能になったのです。日本式家屋、盆栽庵の建設と風景庭園、そして拡張工事費用の一部が賄われました。ドナーは他にもいました。ニュー・サウス・ウェールズ政府が基金を出したし、パイオニア・コンクリート株式会社も出資しました。カウラにベースをおくラクラン・インダストリーズから100,000ドルが日本文化センターと庭園トラストに贈られ、基金として利用されたが、これはウール製品ではトップの会社です。 コフーン:いま日本庭園からいただいたパンフレットをもう一度見てるんですが。第二期が始まったのは、この情報だと1986年11月となっています。これでいいんですか? ムーニー:いいえ1986年に完成したのです。 コフーン:新しい編集者が必要、ということですか。 ムーニー:そうかもしれない。 コフーン:日本庭園とはその後も引き続き関わられましたか? ムーニー:続けましたよ。日本庭園の監督兼委員として1989年には委員長に選挙されたのですが、特に1993年には日本庭園に最初の専任支配人をおいたのです。私も支配人と一緒にほとんどフルタイムで働きました。委員会では1993年、全体的な改良をするべき時期がきたと思いました。風景庭園を改良し、建物修繕、宣伝活動、とかなりの大仕事でした。当時の支配人はスティーヴです。 コフーン:ちょっとお休みをして、さあまた続けましょう。 ムーニー:最初の支配人はとても精力的で、過激といいたいほど。九ヶ月間庭園のマネージャーをするうちにすっかり庭園を変えたし、来園者数をまた70,000人代に戻したんです。彼の着任前には、4万5千人に落ちていましたからね。同じ1993年に私たちはヴィジター・センターのやっていた桜祭りを引き継ぐことになりました。そのお話をしましょうか? コフーン:その話にはいるまえに、ナガクラという名を説明していただけますか、カウラをドライヴしていて出会う名ですが、しょっちゅう、出てきますね。庭園のなかでも、建物のひとつ、あれは陶芸館でしたか? ムーニー:お父さんのほうの永倉氏が開いたところです。 コフーン:それから桜並木(Cherry Blossom Avenue)があって、これが広いんですがナガクラという名で、その通りにそってナガクラ公園がある。こういう開発がすすむなかで永倉一家とのコンタクトがおありだったのでしょうね。 ムーニー:永倉三郎氏は日本の九州電力の社長でとても力のあるひとです。彼は最初、ジム・ミルナーとカウラへ来ました。ジム・ミルナーはクィーンズランド鉱山とパッティンソン・ソウルの社長でふたりはウラニウム鉱山と炭鉱の利益に関心があったのです。ジム・ミルナーにはカウラに土地を持つ兄弟がいた。永倉氏とミルナー氏はシドニーでウラニウムとおそらく石炭についても契約交渉中でした。彼らは交渉を成立させることができず、ミルナー氏は永倉さんをほんの中休みにカウラへ招いたのです。週末、永倉さんは戦死者墓地の日本地区へもオーストラリア地区へも案内された。永倉さんは戦争中、シンガポールに駐屯する日本陸軍将校だったのです。オーストラリア地区も日本人地区でも、墓地がこれほど大切に世話をされているのに永倉さんは非常に心をうたれ、カウラに特別に興味をもち、できる形で自分も何かしたいと思うようになりました。日本庭園がつくられたとき、彼は伊万里の壷をひとつ、これは素晴らしいものですが、提供してくれました。彼は日本経団連にも関係していたとおもいます。当時は新日本製鉄の社長だった永野氏が1979年、公式に日本庭園をオープンしました。日本を理解するものたちにとっては、まるで、「オールド・ボーイズ。」 コフーン:「クラブ」ですか? ムーニー:そう、「オールド・ボーイズ・クラブ」、でも当時、永倉氏がどれほど影響力ある成功者かは分かってはいなかったでしょうね。 コフーン:基金が設立されましたね。いまでもあるのですか? ムーニー:ええ、もちろんあります。 コフーン:いまその基金はどんな活動をしているのですか? ムーニー:永倉さんが亡くなる前に資金を出してこの基金は設立されたのですが、いまも続いていて息子さん、永倉成二さんが委員長をしています。九州電力もかなりまとまった基金を提供してくれて、基金はいま永倉三郎氏の生涯を記念するものになっています。この基金はナガクラ公園に資金提供しました、小さな公園ですが。 コフーン:ピクニック用の公園ですね。 ムーニー:ピクニック用地があって桜並木に沿っています。公園からエヴァンス通りとの交差点まで植えてある桜の木も基金からの提供でした。それがナガクラ・ウォークと呼ばれています。 コフーン:どのくらいの長さですか、500メートルぐらい? ムーニー:ええ、約500メートルでしょう。基金にはすぐれた理事たちが日本にもオーストリアにもいて、いまも活動し、他のプロジェクトを考えています。2004年8月5日にカウラで行われる、暴動60周年記念日に参加することに関心を示しています。 コフーン:それは面白い。つまり私がこのプロジェクトについて勉強したところでは、この暴動と捕虜収容所は日本人のあいだではいまだにセンシティヴな問題であり、配慮が必要ということでした。当時のブシドーの掟を私たち一般の者も知っていますが、それによれば日本軍人が捕らわれたら彼らは存在を無視された弱者になってしまう。すべてはそこから始まってあの体験となった。ところが、とても有力な日本人一家がいて彼らは60周年イヴェントに参加したいと言っているのですね。これをどうご覧になりますか? ムーニー:そうですねぇ、戦争について何も教わらなかった次世代の日本人がいま、将来を考えて、自分の子どもたちは理解する必要があると思えるようになっているのです。不幸なことだが、歴史は繰り返す傾向があるからです。過去について教育しないと、同じ問題が起こらない、とはいえないでしょう。その問題解決のひとつの方法がこれです。ナガクラ基金に私が話しをもちかけ、いま審議中ではありますが、いまの段階ではまだ正式提案ですらありません。同基金のある程度の協力によって、日豪双方の若い大使たちを任命し、60周年記念式典に参列してもらうという案です。申し上げたとおりこの時点ではまだ非公式な接触です。しかし、基金からは、ある程度の関心が表明されています。 コフーン:さっき桜祭りのことをおっしゃいましたね。そこへ話しを戻しましょうか。桜並木通りがどうしてできたかは伺ったのですが、それでお祭りができるようになったわけですね。あなたは最初から関わってこられたのですか? ムーニー:桜の並木通りを最初に思いついたのはシドニーに住む日本人、タクラ・ケンさんでした。ケンのアイディアでは、墓地から日本庭園までを桜並木にするということだったのです。庭園を造園したケン・ナカジマには、墓地に葬られた日本人の魂を庭園のなかの平和な生へとみちびき、桜並木が道を照らすというイメージが読めました。象徴的な意味のある道ですね。桜並木の桜は、たしか最初1988年に植えられたと思いますが、これは日豪の友好200年行事でもありました。1990年に、桜祭りがヴィジター・センターによって催されました。小規模なものでしたが。ケン・タクラが協力し、私もふくめてカウラ観光開発の理事たちも参加しました。1993年ごろには改良の必要を感じ始めていました。シドニーだけでなく日本からも、来たいといってくる日本人たちが出てきたのです。その年最初の日本庭園支配人をおいて桜祭りを引き継ぎ、すっかり新しく計画することができたわけです。週末には2000人もくるほどの大成功でした。以前にはほんの数百人だったのですからね。シドニーから500人の日本人グループがきて素晴らしいイヴェントを盛り上げました。しかも、親しくなって日本人との友情を結ぶ機会ともなったのです。正式な宴会もしましたが、日曜のしごく気楽なランチ・パーティーも、日本庭園に大テントをはってやりました。色々なイヴェントがあり、たとえばウッドストックへ蒸気機関車を走らせました。日本人たちはシドニーを土曜の朝早くたち、ウッドストック行きのSLに丁度間に合うように着いて、車中でランチをとり、そしてウッドストックにつくと、その典型的な小さいオーストラリアの田舎町でパブに行きました。お祭りは1993年から盛大になって、大成功だったのです。いまはすこしさびれてしまい、以前のような催しがありません。参加人数も多くなくて、残念なことです。でもキャンベラの大使館、シドニーの領事館、シドニーに本拠をおく日本人企業のひとたちなどと、プロジェクトをたてて助力や支援をお願いすると、とても提携がたやすくなりました。信頼と友情関係を築くことができたからです。桜祭りが大きな貢献をしてくれました。 コフーン:この初期のころの出来事には、貴方も関わられたと思うのですが、日本人墓地の建設がありましたね。これは勿論、いままでのお話よりしばらく前のことになりますが。しかし、墓地の設計については、あなたも関わっておられたのではないんですか? ムーニー:墓地建設については、私は何もしていないのです。 コフーン:始まったころにはまだお若かったのでしょうね。 ムーニー:当時は空軍にいました。1964年に19歳ぐらいだったでしょう。しかし、もっと最近、ここカウラで由良滋さんという方にあいましたが、このひとはカウラ日本人墓地を実際設計された方です。連絡をとりあい、2001年に手紙がきてカウラを訪問したいということでした。すぐ返事を書き、ある特別な折にいらしてはどうかと提案しました。日本人墓地への遺骨埋葬がまた予定されていたのです。彼は日程を調整して現れ、墓地で仕事したときのオリジナルの設計図その他の情報を持ってきてくれました。それらを私に預けてくれたので、2004年、60周年記念行事では由良さんを招待し、その設計図類を正式に寄贈していただこうと思っています。反古紙のうらに書いたものとかあってとても面白いですよ。明らかに彼の下書きなんです。それからもっと公式の設計図があって、当時の日豪両方の新聞記事などもあります。 コフーン:それは歴史的な価値のある収集品ですね。 ムーニー:そう思います。由良さんが承諾してくれたら、カウラ州庁で適当な展示をしてくれるよう提案します。 コフーン:桜の木のことを伺ってきましたが、別の種類の木が日本から来るのではなく、反対の方へ、つまり日本へといった話しにも貴方は個人的に関わっておられます。直江津での植樹の件ですが、これは大2次大戦中にオーストラリア人捕虜収容所があったところで、いまでは上越市となっています。どんなことなのか、話してください。 ムーニー:1986年から1987年ごろ、ジム・ニューリングという男がアメリカ軍ミュージアムの雑誌を一部くれました。その雑誌にはカウラ出身者、マット・クリフの書いた記事がありました。マット・クリフは第二次大戦中、直江津収容所にいた自分の体験を書いていました。その物語には夢中になりましてね。戦争の末期、収容所の上空を飛んで「明日、食糧・薬品などを持ってもどってくる」とメモを落としてくれた米軍機のことを書いていたのです。メッセージはパラシュートの切れ端に書いてあったそうです。マット・クリフはそのメモをずうっと持っていたのですが、偶然、1970年代か80年代、元米軍の将校がカウラを訪ねてきました。マットが彼にその話しを聞かせ、アメリカに帰るとその将校は、例の航空機のパイロットを探しだしたのです。元パイロットはいまでは軍ミュージアムの館長をしており、それでこの記事となったわけです。私はジム・ニューリングにマットに会わせてくれないかと頼みました。マットは、ジムの奥さんの伯父さんにあたります。私はウィルーナまでマットに会いにゆき、地元の老人ホームで、マットは彼の体験を大変熱をこめて話してくれました。シドニーのフランク・ホールは別の元オーストラリア捕虜、シドニーのフランク・ホールを紹介してくれました。シドニーへフランクに会いに行き、話しました。私は直江津で亡くなった60人のオーストラリア人のため記念碑のようなものを実現させたいものだと考えていたのです。その60人のなかにはカウラ出身のアラン・ヒーリーもいたので、ますます意味ある案ではないかと思ったわけです。次に日本へ行ったとき、私は奈良のトニー・グリン神父のとのころに滞在し、トにー神父に。。。 コフーン:勿論彼もオーストラリア人ですね。 ムーニー:オーストラリア人のマリスト会の神父で、1950年からずっと日本にいるひとです。私は トニーと話したとき、追悼礼拝をしてオーストラリアのガムの木を植えてはどうかと言ったのです。そのときトニーは多くをかたりませんでしたが、私が帰国すると手紙がきて、「私は110パーセント君の案を支持する」と言ってきました。そこで私は1988年、ドン・キブラーと一緒に再び日本へ行きました。ドンは当時桜並木プロジェクトの仕事をしていました。私は財政的にではないけれどいくらか彼の手伝いができました。そこで、ドンと私は直江津に行ったのです。前もって市長の植木 公氏に手紙を書き、彼は返事をくれて私の提案に大変熱意を見せていました。そこでドンと私は彼を訪ねました。一晩泊まり、市長に会い、町を見てまわりました。捕虜収容所跡地に行きました。そこへ木を植える件については、個人の私有地であり、また河沿いであるため石炭の積み下ろしに使われていて、できないと市長は言いました。オーストラリアへ戻ると、フランク・ホールにまた会い、フランクを5月に日本へつれて行き、トニー・グリンが追悼礼拝をするよう手配をしました。横浜英連邦墓地でトニー・グリンに会いました。グリン神父は奈良から数名の仏教僧侶を連れてきていました。英連邦墓地にはおよそ30人のひとがいたのです。カウラを訪ねそこでの出来事に非常に関心を持つフジ・シンジュン司教もいましたし、元日本人捕虜たちもいたのです。それから私たちは汽車で直江津へ行き、収容所跡地に隣接した土地で式典を行いました。私たちは市庁舎前にガムの木を植え、市長さんにブロンズの記念額を贈りました。その記念額は収容所でオーストラリア人捕虜の司令官だったロバートソン中佐を記念するものでした。日本の新聞・テレビでも我々の訪問はとても大きく報道されました。オーストラリアへ戻ると、市長の植木氏からまた手紙がきました。彼自身の言葉でロバートソン中佐の記念額を永久的におく場所をみつけると書いてありました。ふさわしいところ、ふさわしい地域を探すのは困難なようでした。一方、地元のひとたちが我々の訪問に刺激を受け関心も高まり、自分たちの委員会を立ち上げました。記念事業の委員会です。オーストラリア、そしてカウラとの縁を結んでゆくために彼らはさまざまな道をさぐり試みました。実際には何年もかかって市が収容所跡地を買い取ることができ、60人のオーストラリア人を記念する公園建設のため、かなりの額の資金が投入されました。私はそれ以来、直江津には行っているのですがとても感動的な公園ですよ。ステンレス・スチールの柱のうえに天使たちがいるのです。高さは60フィートぐらいでしょうか。もっとも、フランク・ホールはそこに自分がいた戦時中には、どんな天使にもあった覚えはないね、と私に言いましたがね。でも、ここでもう一度、フランク・ホールのことを申し上げたいのですが、彼は非常に謙遜な男で、そしてこころの広いひとです。1988年に一緒に直江津にいたとき大勢の日本人市民がやってきて自己紹介をしました。そのひとりは自分は元看守だったと言いました。フランクは彼と握手して楽しそうにおしゃべりしていました。私たちがその場を去るときにこう言いました。「彼はましな看守のひとりだったに違いないよ、ひどい奴等は縛り首になったんだから。」私は涙ぐんでしまいました。ほんとに、自分がとても小さく思えたのですよ、フランクのようなひとといると。フランクは言いました、「いいかい、僕はもう赦したんだ。」またこうも言いました。「僕は絶対忘れられない。」当時自分やほかのオーストラリア人が体験したひどい扱いのいくつかも話してくれました。しかし、素晴らしい結末だったと思います。そのときから、カウラは直江津とご縁ができたのです。直江津の人たちは日豪協会をつくりました。カウラの聖ラファエル学院とも提携をして、上越の生徒たちがカウラと日本の関係史を学びにきます。定期的にきています。 コフーン:記念碑といったらいいでしょうか、その除幕式には貴方は出席されませんでしたね。それはどうしてですか。それをめぐっての論争のせいか、それとも個人的な理由があってゆかれなかったのですか? ムーニー:いや、あの論争は私にとっては問題ではありませんでした。いま言われた論争というのは、実は、日本人側はその上越の公園で戦犯として絞首刑になった元看守たちのことも記念したかったのです。私が日本側に与えたアドヴァイスは、その二つの記念碑をいくらか距離をおいて設けること、そうすれば問題はないだろうというものでした。しかしながら、その決定はオーストラリア元捕虜の会に委ねられました。私は提案できただけです。私の見方を彼らに押し付けることはできません、なぜならそこに収監されて苦しんだのは彼らですから。どんな決断を選ぼうと従うつもりでした。でもその問題がかたづき、どちらの側もその結果に大変満足でした。 コフーン:でもあなたはその式典には出なかった、何がおこったのです? ムーニー:いや、私は上越市長からもシドニーの元捕虜の会からも招待されました。ところが桜祭りと重なったのです。当時、私は日本庭園アドヴァイザーで桜祭りではまだ組織の中心的役割を担っていました。それで日本庭園の当時の支配人フィリー・ライドに、言われてしまいました。「行けないよ、君は。ここにいて手伝ってくれなくちゃ。」全くタイミングが悪く、運のわるいことでした。 コフーン:上越とカウラの学生たちのつながりを話されましたが、もうひとつカウラ高校と成蹊との交換プログラムも、息長く行われています。これが多分媒介となってユース・フォーラム創設に関わることにもなられたのか、と思うのですが。 ムーニー:そうですね。1995年のユース・フォーラムは大2次大戦終結の50年を記念して行われたのですが、話しはドン・ブラーと私が中曽根元日本首相と会って会話を交わしたときに戻ります。私が中曽根氏に言ったのはこうでした、「未来は若い人の肩にあり、日本でもオーストラリアでも、第二次大戦でどういうことが起きたかを若者に教えなくてはいけない。それは歴史を繰り返さないためです。」中曽根氏は同意しました。そこでそのアイディアは私のこころにかかっており、1995年にその機会がきたのです。前に言ったとおり、日本庭園には専任のマネージャーがいました。ヴィジター・センター内の別館ではなく庭園内の事務所で実際の運営を行っていたのです。これは好都合なことでした。私はマネジャーにユース・フォーラムのアイデァを出しましたが、ユース・フォーラムはそのしばらく前に亡くなっていたトニー・グリン神父への感謝もこめたものになるはずでした。私は日本各地の大勢のひとに手紙を書き、日本庭園支配人はニューサウスウェールズの学校多数に手紙を書き、当日は300人の学生が来たのです。これは素晴らしいプログラムでした。私が日本庭園から引退したあとにも、確か1996年にもう一度ユース・フォーラムがあったのですが、残念なことにその後は消えてしまいました。素晴らしい将来性のある企画と思っています。しかし、こういうことをするのは大仕事なのですよ。私の場合はいつもヴォランティアとして働き、これこそ私には望ましい働き方なのです、しかし一般的にいってどの程度の時間を避けるかには限界があることでしょう。それでもユース・フォーラムが復活してほしいし、同様に昔のような盛大な桜祭りの復活も見たいものです。 コフーン:これらの仕事につきものの個人的犠牲とでもいえるような側面をうかがい、ドン・キブラーさんも同様におっしゃいましたし、カウラのほかの人達にもやれることでしょう。ところですべてを通じてどんな満足感を得ておられますか。これからも続けてゆかれますか? ムーニー:一番大切なのは別の文化を理解するチャンスということだと思います。私たち小さな田舎町の生活では、地元の政務とかほかのさまざまな点で狭い型にはまることがあるのです。気をつけないと他の人たちの考えによって自分の世界を狭くしてしまいます。私はやり甲斐ある、熱中できることをする機会に出会い、日本庭園と庭園建物の建設が持つ意味を理解して学ぶ機会, カウラ日本庭園の設計者ケン・ナカジマと働く機会、世界第二の経済大国の首相たちというか当時の首相と会う機会を与えられました。そのひとつ、ひとつで、さらに献身的に働く気持ちになりました。 コフーン:2001年に貴方はここカウラで日豪協会の全国大会を組織なさいました。全国の州、準州から、日本から、日豪協会のひとたちが参加しました。これまでに関わってきたことを彼ら全てに見せることができて、感慨とか満足感をお持ちでしたか? ムーニー:そうですね、それは確かにあり、私はカウラの他の団体にもコンタクトをとってこの大会の組織づくりへの援助を要請していました。しかし、財政的な見地からいっての提案ではありませんでした。それでカウラ州庁に接触して当時の局長、ネヴィル・アームストロング氏と市長のブルース・ミラー氏に会いました。彼らは大変好意的で州として援助しようと言ってくれたのです。ネヴィル・アームストロング氏は私のため事務的な面で働く関心あるひとがいるかスタッフに呼びかけて聞いてみようと言ってくれました。ネヴィルの秘書、ニッキー・コーランが引き受けてくれました。素晴らしい仕事ぶりでしたよ。実際、ネヴィルが当時言ったものです。「委員会を作るのかね?」私は「いいえ、つくらないと思います。州の援助があれば多分ずっとうまくいって、委員会の必要はないでしょう。」と答えました。そのやり方でいったのです。私は委員長でしたがカウラ州庁から絶大な支援をしてもらいました。でなければできないところでした。事務的な仕事の何からなにまで費用を持ってくれて、新しい美術画廊で歓迎式典をしてくれました。協力と成功は素晴らしいものでしたよ。全国退役軍人会のピーター・フィリップス司令官をゲスト・スピーカーにお願いしました。この大会は偶然にも、2001年4月5日で、カウラ暴動の47周年にあたっていました。 コフーン:長くやってこられたのですね。これからも続けてゆかれますか?いまでも関わっておられるのですか? ムーニー:勿論つづけます。 いまでも永倉基金の相談役ですし、日豪協会全国委員会のメンバー、カウラ捕虜暴動を記念する60周年記念委員会のメンバーです。最近、国連職員の日本人から電話をもらったのですが、彼は太平洋戦争で捕らえられたゼロ戦パイロットで後に1944年8月のカウラ暴動で亡くなったひとのことを調べているのです。いま進行中のことですが、これにも関心があります。完了までにしばらく時間がかかるでしょう。電話をもらってとても興味がわき、このひとと長々と討議したのですが、名前は覚えられませんでした。キャンベラの戦争博物館から私のことを聞いたそうです。 コフーン:これからも続けてゆかれるのですね。カウラにおける日豪関係の将来をどうご覧になりますか? ムーニー:カウラで、ですか。昨年11月ノース・クィーンズランドのケアンズで永倉基金の会議があり、代表はアラン・トンプソンでした。カウラと日本の関係をよりよく盛り上げるために小さなグループをつくってはどうかと彼に提案しました。若いひとたちと一緒にやって、彼らが私、ドン・キブラーその他長年係わるひとびとから学べる機会にしてはどうか、と。そうでないとカウラ・日本のつながりが可能性をいっぱいに発揮するまでに行かないのではないかと思うのです。若いひとは多勢いるのです。60周年のときの委員会に会議の職員で若いひとがいました。彼女は私の考える小グループにうってつけだと思います。でもトンプソン氏からはこの時点ではまだ私のところに連絡はなく、何か前向きなことをしてくれていればよいのですがね。コーディネートするにはグループが必要なのです。 コフーン:そのまとめ役という役割をするためにカウラ日本協会はつくられたのではありませんか? ムーニー:ある程度はそうですね。協会は1987年結成されて多くのプロジェクトに係わってきました。しかし、昔日本庭園に専任マネジャーのいたころには 日本庭園事務所と支配人が日本人ほとんどすべてのカウラ訪問のまとめ役でした。そのなかにはいまの天皇の子息とお嬢さんという皇室など高位のひとの訪問や特別イヴェントがありました。でも、専任支配人はもう今ではいません。庭園の運営はまたヴィジター・センターの仕事になっているわけですから、ある点では後戻りしたのです。でも私が提案したこのグループ結成案が自分たちのやり方に合うと評議会・理事会が思えばその辺を克服できます。またチームとして働きはじめることが大切だと私は思っています。別々にやるより、より多くのことが達成できます。 コフーン:これからするべきことは沢山にあり、ご幸運を祈ります。有難うございました、トニー。 その日しばらくあとで、インタビューが続行された。 コフーン:トニー、成蹊学園との交換プログラムについて少しふれましたが、これにも係わっておられるのに、まだ十分話していませんでした。 ムーニー:成蹊学園と私の唯一の係わりといえば、カウラの学生たちに日本往復の格安航空券を日航に手配するだけですよ。日本では何度も成蹊を訪ねましたが、そのほかには何もしていません。 コフーン:いまも続いている取り決めですか、それとも、 ムーニー:はい、いまでもあると思います。 コフーン: 学生たちが当地へ着くと、彼らとの接触はありましたか?また日本へ行く学生の選考についてはいかがでしょう。 ムーニー:いや、選考にはなにも係わっていません。だけど、庭園の第二期段階の工事ときにはヒロというひとりの学生を参加させました。彼はとても英語が上手で非常に役に立ったし、そのプロジェクトにもとても興味を持っていたんです。ヒロ・森永は覚えていますよ。彼は何度も歓迎会とか、他の会合にもでましたし、日本では彼の両親にも会い、学校を訪ね先生方や校長にも様々な折に会いました。成蹊の父兄たちは庭園プロジェクトにとても協力的でした。1980年代の旱魃のことをきくと、実際庭園に寄付を送ってくれました。 コフーン:日本訪問には何度もいらしたんでしょうね? ムーニー:多分12回も行ったでしょう、1984年が最初で一番最近には2001年。 コフーン:どういう理由でいらしたのですか? ムーニー:1984年にはドン・キブラーも私も日本へ行ったことがなくギリシャの島々でヨットを借りてのんびり回る旅など考えていたのです。しかし、私が日本行きを提案しました。日本庭園とカウラ・日本の関係にますますのめりこみそうだったし、カウラを訪れる多くの日本人と会うようになっていたからです。 コフーン:それが第一回ですね。ほかのときはどうですか? ムーニー:二度目は庭園の第二期工事との係わりで東京都と詰めの協議のためでした。もうお話しましたが、第二期工事とメインテナンスのために、とても気前よい出資をいただきました。この二回目の訪日はドン・キブラー、アブ・オリヴァーと私で、首相の中曽根氏との会合が手配され、大変理解を示していただきました。 コフーン:彼はカウラについてはよく知っている様子でしたか?前もって説明を受けていましたか? ムーニー:ええ、そうです。事前によく聞いていたのは確かです。その12ヶ月ぐらい前に彼ともう一人のリーダー的政治家、渡辺美智雄とがオーストラリアを訪問したのです。後に副首相をつとめたひとです。彼らはカウラへは行けませんでした。しかし、オーストラリアからニュー・ジーランドへ回り、渡辺氏は秘書二人をカウラへやりました。その旅では時間がなくてカウラへ行けなかったと詫びていましたよ。当時私たちはこの二人の若いひとたちが誰かは知りませんでした、かなりシャイなひとたちでね。しかし私は彼らを農場へ案内して羊の毛を刈るところを見せ、それからドン・キブラーのところでバーベキューをしました。彼らの父親、つまり渡辺美智雄氏がいかに権力者であるかは知らず、あとになって彼が自民党幹事長であると知りました。トニー・グリン神父は「ミチオは首相ではないが首相を作り出している」と言いましたよ。 コフーン:日本へ行って首相に合うチャンスなどそう大勢にあるわけではありません。だから貴方は相当なものだったわけですね。 ムーニー:ええ、まあそのようです。 奈良の国会議員でトニー・グリン神父の親友、鍵田忠兵衛さんのお陰なのです。彼は中曽根氏と同じ派閥でした。それと接待への返礼ということもありましたね。私たちはこの二人の若者、渡辺の秘書たちを別に見返りを期待もせずカウラでもてなしたのです。首相にあったとき、高原マレクニ氏も同席しました。首相の私邸でした。高原稀國(まれくに)氏はこのカウラで捕虜になっていたのです。彼は飛行艇のナヴィゲイターでメルヴィル島に不時着しました。暴動のときに生きのびたひとで、こんにちでも自分はカウラで生まれた、言っていましたよ、カウラ大学へ行ったのだ、と。我々が日本の首相に会った日、高原さんは中曽根氏が海軍だったと知ってとても得意でしたし、私たちにも名誉なことだったと思います。オーストラリア首相には会ったこともないのですが、その日は確かに光栄だと思いました。夕刻、渡辺美智雄氏からディナーに招かれたのですが、彼は当時通産大臣でした。私たちと二人の秘書だけの小さな集まりでそのうち一人、彼の息子と判明したひとは国会議員の地位を受け継いでいると思います。だから確かにすごい影響力あるひとたちからもてなしていただいたことになります。 コフーン:首相へはただの表敬訪問だったのですか? ムーニー:公式訪問で、とてもフォーマルでした。そして確かにカウラについて多くを語りました。10分ほどの時間だったと思います。 コフーン:カウラについて彼が一番大切に思っているのは、貴方の記憶ではどんなことでしたか? ムーニー:カウラのひとたちが日本軍墓地の世話をしたという点だと思います。それにシドニー港爆撃ののち、日本軍水兵たちの遺骨が返還されたという話しも彼はよく知っていました。だから彼はオーストラリアの事情をよく分かっていたと言えます。当時、娘さんがメルボルンに住んでいました。これはあまり知られていないというより、わざとそっと扱われていました。しかし、中曽根氏が首相の座を降りてから、私たちは彼に会い、桜並木に援助をしていただいたのです。相当な額の寄付をし、このプロジェクトを支持し続けてくれました。中曽根氏はいまでも国会議員だと思いますが、彼に連絡をとりさえしたらね。。。 コフーン:彼はいまでもカウラの友でしょうか? ムーニー:いまでも援助をしてくださるでしょうとも。 コフーン:もうひとつ貴方に伺いたかったのは、すこしわき道にそれますが大事なことです。貴方と「平和の鐘」のことです。 ムーニー:1988年の5月、前に言ったように、追悼礼拝をする直江津訪問のため日本へ行きました。しかし、東京にいるあいだに「世界平和の鐘」の会の吉田さんに連絡をとりお会いしました。ニューサウス・ウェールズ庁舎で会い、当時の長官、ジェフ・ウォーカーが通訳してくれました。吉田氏は相当断固としてシドニーのマーティン・プレースに平和の鐘を設置したいと言われたのです。それは極めて難しい話しであること、私が思うには、カウラこそがふさわしい場所だと彼に言いました。しかし、「世界平和の鐘」の会がオーストラリア政府に鐘を提供しており、カウラがその鐘をおくのに最もふさわしい場所と豪政府が決めていることを私は知っていたのです。吉田さんは「カウラでは鐘はほしくない」と私に言ってもらいたがっているのを感じました。そうすればマーティン・プレースへの夢をすてずに頑張れるからです。しかし、いま振り返るとカウラが理想的な場所でカウラの魅力になっているのは確かです。 コフーン:マーティン・プレースにはどんな問題があったのですか? ムーニー:マーティン・プレースに話しを持ちかけるのは私のすることではなかったと思いますよ。私はカウらを推していたのです。 コフーン:なるほど。 ムーニー:マーティン・プレースにはあまり記念碑はなくマーティン・プレースの管理をしているひとたちは他の記念碑をおくのにそれほど熱意があったとは思えません。 コフーン:彼はオーストラリアの他の場所や都市のことは考えていましたか? ムーニー:他の場所については何も言わず、ただマーティン・プレース一点張りでした。 コフーン:この件にはどういういきさつでかかわることになったのですか。どうやって彼にコンタクトしたのですか? ムーニー:平和の鐘のことが最初にカウラで話題になったのは、キャンベラの外務省のひと達が日本庭園にきた折でした。彼らがスタッフのひとりにオーストラリアに差しあげると言われている平和の鐘のことを話し、政府はそれをカウラに置きたいのだなという感触だったのです。この情報が、のちにカウラ市長になったロッド・ブルームに伝えられました。彼はそのために努力しました。オーストラリア政府と日本にある「世界平和の鐘」の会へ何通も手紙を出しました。1988年に私が日本へ行くとき、私はロッドに言ったのです、「世界平和の鐘」の会と連絡をとってもよい、と。それは素晴らしい、と彼は考え、記憶によれば彼が私に紹介状をくれたのです。だから吉田氏に会ってから私はロッド・ブルームの事務所に電話をしました。彼はカウラの弁護士でした。会談のことを話し、鐘とその設置場所については少々難しい感じがしたと話しました。すると彼は「そうか、じゃ、あきらめよう。もうやめる。」と言ったので、私は言いました。「いやいや、しっかり腰を落ち着けて努力をつづけようよ。」ロッドはそのとおりやったのです。平和の鐘をカウラに持ってきたのはまず第一にロッド・ブルームの功績です。疑う余地はありません。 コフーン:吉田氏はカウラこそ平和の鐘にぴったりの場所だという貴方の考えに歩み寄ったのですか? ムーニー:そう思います。勿論それ以前には、彼はカウラのことをあまり知らなかったでしょう。 彼はまだ今日まで訪ねてきてはいません。何度もくると話はあったのですがね。彼の会はここにあって何人も会員がいますが、やはり吉田さんにカウラへ来て、平和の鐘を見ていただきたいですよ。 コフーン:この対談のしめくくりに入りますが、これまで伺った数多くの活動の年月をつうじて多くの関係の変化、その拡張や成長を貴方はみてこられましたね。いまやあの暴動から60年が経ちました。暴動記念委員会のメンバーとして勿論、貴方は来年の60周年をどのように祝おうかと考えていらっしゃる。来年ですよ、2004年の話しですが、これからの関係はどうなると思われますか?変わるでしょうか?多くのひとは忘れてしまっています。 ムーニー:だから歴史が大事なのです。だからこそこのプロジェクトが大切で、テリー、私は貴方がこのプロジェクトに着手してくれたことが大変嬉しい。貴方こそこのプロジェクトに必要なひとだ、と実証してくれましたよ。カウラと日本の将来が目指すのは明らかに、若い人達をこのつながりに巻き込むことです。今日のインタビューの始めでもこの点に触れましたが。 コフーン:そうでした。そして若者の交換プログラムがその鍵になると思われますか、あるいは他に彼らがするべきことがあるでしょうか。 ムーニー:若いひとに交換プログラムは大切ですが、毎年ひとりの学生で、以前の成蹊の交換生たちはたいてい大学へ行きます。カウラからはいなくなるので、残念です。だから若いひとたちを探さなくてはならず、彼らがずっとカウラにいるように励ましてやらなくてはなりません。そうすれば彼らの学んだことも彼らとの関係も生きてきます。 さきほど言ったように、ケアンズでの会議とナガクラ基金については評議員・理事のアラン・トンプソンが、日本人の訪問とカウラ・日本関係をコーディネートする小グループについて案をまとめてみると言っており、2月の評議員・理事会に提案するでしょう。まだ何も聞いていないので、アラン・トンプソンにせっついてみなくてはならない、とても重要なことと思っているのでね。 私のような体験をする機会に恵まれ、私が得たような知識を持つひとはカウラにはとても少ないのです。興味を持っているひとたちは確かに大勢いますが、ドン・キブラーや私その他のひとたちの持つものを活用し若いひとたちがさらに進めるようにするにはリーダーシップが必要です。私が最初に係わったのは35歳のときでした、いまは57歳ですが、若者たちがあとについて来ているとは思えず残念です。現在のやり方と関係があると思うのです。もっとうまくできるはずです。疑いないです、桜祭りや他の文化的な、また社交的なイヴェントは特にね。もっと積極的にやって繋がりを持ち続けるべきです。シドニーの日本人たち、とくにビジネスマンたちは2,3年すると交代します。いまいるひとたちと接触を保つだけで大変な仕事ですよ。 コフーン:大使館についても同じことが言えますね。代わりますよ、外交官たちはどの国でも、定期的に交代します。 ムーニー:そうです。だからたやすくコンタクトを失いやすい。だからこそコーディネートするチームが大切だと思うのです。 この翻訳はPOW研究会の高田ミネ様の御協力で公開しています。 プリントボタン |
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