Australian War Memorial - About the AJRP

   
ホームページ | 案内 | データベース | 研究の成果 | 地図 | サイトマップ | 検索 | リンク集 | 謝辞 | 英文翻訳記事 | 最新情報 | English

太乎洋戦争とニューギニア戦
田中宏巳著



本日、著名な多くのオーストラリア及び日本の研究者が集まり、このような盛大なシンポジウムが開催されたことに対して、準備をしていただいたAWMのHistorical Research Sectionのピーター・スタンレーおよびピーター・ランディー博士の二人や、AJRPのスタツフの方々に、開催を提案した一人として深く感謝申し上げます。

さてニューギニア戦をシンポジウムのテーマにしてはどうかと提案した理由は、AJRPの目的に沿ってオーストラリアと日本とが共同研究を行うとすれば、両国にとってニユーギニア戦がもっとも関係が深く、また長期にわたる激しい戦いであったことから、共同研究を必要としていると考えたためです。

多くの日本人は、パールハーバーに始まる戦争を日本とアメリカとの戦争であると見ており、オーストラリアの役割を実際よりずっと小さくとらえる傾向があります。しかしニューギニアとその周辺での戦いは、米豪連合軍と日本軍との間で行われ、そこでのオーストラリア軍の役割は、日本人の一般的理解を大きく越えるものでありました。

太平洋戦争において日本軍が多数の死傷者を出した戦闘は、ニューギニア戦、ビルマ戦、フィリピン戦の3つですが、それらのうち、日本人にとって一番関心の低いのがニューギニア戦であるというのは申し上げにくい事実です。関心が低いということは、なぜニューギニア戦が起こったのか、なぜ悲惨な戦闘になったのか、戦闘の推移が戦争全体にどのようにかかわるのか、といった問題を、しっかり研究してこなかったことを暗示しています。日本では、このシンポジウムに出席されている近藤新治先生以外、これらの問題について本格的に研究してこなかったのが現実です。私が知る限り、日本国内でニューギニア戦に関する研究会が行われたことはなく、したがって日本の研究者が、多くのすぐれた研究成果を上げてきたオーストラリアの研究者とともにシンポジウムを開催するのは冒険かもしれません。しかしこれを機会に、日本でもニューギニア戦に対する関心が高まることを大いに期待しています。

ニューギニア戦を始めるに際し、日本側にはまともな地図も、気候風土に関する調査報告もありませんでした。この事実は、予想外あるいは計画外の作戦であったことを示唆しています。なぜそうなったのかを考えるためには、日本軍の戦争計画とそれまでの作戦経緯をたどってみる必要があります。1937年、日本は中国で本格的戦争を開始し、蒋介石が指揮する中国軍を追って南下しました。揚子江を中心とする中国南部地域には、19世紀半ば以来、イギリスをはじめとする欧米列強の利権が集中しており、日本軍がこの地域に接近すれば、欧米列強との衝突も懸念されました。この頃から米英両国は中国支援の態度を鮮明にし、軍需品の補給に乗り出しましたので、日本軍は蒋介石援助ルートの遮断のためさらに南下し、とうとうフランスの植民地であるベトナムに進出せざるをえなくなりました。このためとくにアメリカとの対立が深まり、日本経済の生命線であった日米通商関係が悪化し、戦争継続に不可欠な鉄鋼や石油をはじめとする重要資源の輸入が困難になってきました。追いつめられた日本は、1941年12月、アメリカ、イギリス、オランダ等との新たな戦争に突入しました。開戦の直接の動機は戦争に必要な資源の獲得にあり、目標とする地域は、石油、ボーキサイト、ニッケル、鉄鉱石、錫、ゴムなどが豊富なマレー半島及びインドネシア方面で、この方面を「南方資源地帯」と呼びました。これらの方面を占領したのちに、和平の糸口を見つけ、戦争の終結をはかるのが当初の方針でした。1930年頃から日本海軍が立てていた作戦計画では、初期の戦闘で劣勢に立たされた米軍がハワイまで後退し、そこで態勢を立て直して、フィリピン方面に向けて進攻してくるであろう。日本海軍は、途中で繰り返し米艦隊に攻撃を加えて弱体化させ、フィリンピン近海に来たところで決戦を挑み、日露戦争における日本海海戦のような決定的勝利を収める、というシナリオを描いていました。南方資源地帯の占領という新しい計画が登場しても、従来の作戦計画に大きな変更はありませんでした。

戦争の展開は、フィリピンが主戦場となった以外、あとはすべて予想外のものであったといっても言い過ぎではありません。たぶんアメリ力にとっても予想外であったはずでず。予想外になった最大の原因は、日本軍の攻撃を受けたマッカーサー将軍が、フィリピンからハワイでなく、オーストラリアのブリスベーンに脱出し、ニユージーランドを含むこの方面を反攻作戦の拠点にしたことにありました。日本にしてみれば、ハワイの方から来るはずのアメリカ軍が、オーストラリアで態勢を立て直し、米豪連合軍を編成して反撃に出てくるというのは考えてもみない展開でありました。

予想外ということは、この方面の地誌に関する知識、政治経済や軍事に関する情報を持っていなかったことも意味します。1880年頃から日本海軍の練習艦隊による遠洋航海が始まって以来最も多く訪問した国がオーストラリアであり、また第一次大戦の際に日本の艦隊がオーストラリアの周辺で連合国の船舶の護衛活動に従事した歴史があり、とくに東海岸からタスマニアに至る地方について、ある程度の知識を持っていました。その他については、1942年、ダーウィン方面を攻撃した南雲提督の機動部隊が水深すら記入されていないアラフラ海の海図に困ったように、基礎的知識さえ不十分で、オーストラリアの斜め前を走るニューギニアやソロモン諸島についても、同じようなものでした。

それでも陸海軍を比較しますと、トラック島に根拠地を持つ海軍の方が、ニューギニアやソロモン諸島に強い関心を持っていました。海軍のニューギニア及び周辺諸島の水路や地誌の調査は、海軍水路部の手で1933年から38年にかけて諸外国の文献資料によって行われました。数冊の水路誌が出版されておりますが、気象、海流、水深、海岸部の地形等の記述がほとんどで、内陸部の社会経済についてほとんど触れていません。一方陸軍は、開戦直前に南方資源地帯の兵要地誌に関する調査を大急ぎで行いましたが、その中にニユーギニアが含まれていたとは思えません。おそらくオランダ軍やオーストラリア軍から押収した地図や味方の航空機が撮影した航空写真を元に作成した地図が、ニューギニアに対するわずかな手がかりであったと考えられます。

オーストラリアに対するアメリカの軍事輸送を遮断し、オーストラリア方面から来ると予想される連合軍の反撃を阻止するためにも、ニューギニア及びソロモン諸島の確保と部隊の配備が不可欠なことは地図を見れば明らかでした。とくに海軍は、トラック島を最重要の根拠地にしていたため、この島から南方を見る傾向があり、ニューギニアやその周辺の獲得に強い意欲を持っていました。ニューギニアやソロモン諸島への進攻のきっかけになったラバウル占領も、トラック島に対する敵航空機の攻撃を困難にすることを目的に、海軍が陸軍の反対を押し切って行われ、またニューギニア進攻のきっかけとなったポートモレスビー進攻作戦も、海軍がラバウルの防衛をより強固にするために実施したものです。

これに対して陸軍は、陸軍が主導的役割を果たしてきた中国の戦争から南方資源地帯に進出した背景から、どうしても大陸側から太平洋を眺める習性がありました。開戦後、重要拠点となったシンガポールやジャカルタから見ても、ニューギニアやソロモン諸島ははるか遠い未知の地方としか映らず、海軍の期待に反してこの地域への作戦について、どうしても消極的になりました。

海軍はラバウルを根拠地に、1942年、東ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指すM0作戦のほか、米豪の連携を遮断するためにサモア・フィジー・ニューカレドニアの攻略を目指すFS作戦を準備しました。しかし珊瑚海海戦の失敗とミッドウエ一海戦の敗北は、この地域での日本の立場を著しく弱め、連合軍の本格的反攻作戦の開始となるガダルカナル・ツラギへの上陸となりました。これ以降、マッカーサーの率いる連合軍は、ブーゲンビル、ニューギニアの北辺を通り、フィリピン、沖縄に至るマッカーサー線を北上する形で日本本土に迫るとともに、他方米海軍及び海兵隊は、ギルバート諸島、マーシャル諸島、マリアナ群島をつなぐニミッツ線に沿って日本を目指すようになりました。

こうした日本軍のニューギニア・ソロモン諸島への進出、これに対する連合軍のガダルカナルから日本に至る反攻を、戦争全体の中にどのように位置づけたらいいのでしょうか。日本から見た場合、中国との戦争が泥沼化し資源が枯渇したため、マレー半島やインドネシア等の南方資源地帯の獲得を目指した新しい戦争を開始しました。日本政府は、日本及び日本の植民地、中国大陸、南方資源地帯を合わせた地域を「大東亜共栄圏」と呼び、これをめぐる戦争を、開戦直後に「大東亜戦争」と呼ぶことに決定しました。これに対して連合軍のマッカーサー線及びニミッツ線に沿った北上する戦いは、「大東亜戦争」の圏外の戦争ということができます。日本の中には、「大東亜戦争」をアジアの解放を目的とする戦いであったと信じている人々がいますが、両線の戦いは、この目的とは異なる西太平洋を舞台として戦争全体の勝者と敗者とを決める戦いであったと考えられます。この戦いを、今日はとくに「西太平洋の戦争」といわしていただきます。日本は、なんとなく中国との戦争と南方資源獲得の戦争の二つによって勝敗が決まるものと考えておりましたが、連合軍がとった作戦は、中国や南方資源地帯には目もくれず、西太平洋で直接日本軍と戦闘し、早期に決着をつけるものでありました。

このようにみてきますと第2次大戦の際、アジアの東半と西太平洋で行われた戦いは、戦闘の場所と戦争目的が異なる中国との戦争、南方資源獲得の戦争、西太平洋の戦争の三つから構成されていたと考えられます。中国では中国軍と、南方資源地帯では主に英豪蘭3軍と、西太平洋では主に米軍といったように、それそれの戦場では戦う相手が違っていました。

泥沼化した中国との戦争で疲弊し国力が衰えたままで、さらに南方資源獲得の戦争、予期しなかった西太平洋の戦争を同時に遂行することになった日本は、連合軍に比ベて少ない貴重な兵力や兵器を3つの戦争が行われた広大な地域に分散しなけれはなりませんでした。他方、中国での戦争に参加する理由もなく、また資源獲得の必要もない連合軍は、西太平洋の戦争に優勢な兵力と兵器を集中できましたので、両者の問には実力以上の大きな差がついてしまいました。

ところでガダルカナル戦からニューギニア戦に至る戦闘は、兵力や生産力に限度のある日本がもっとも避けなけれはならなかった消耗戦になりました。西太平洋における消耗戦での優劣は、生産力よりむしろ遠い距離を海上輸送する能力によって決定されといっても過言ではありません。ガダルカナル戦において、日本軍の補給力はすでに限界に達していましたが、まだ残存部隊を撤退させる余力ぐらいは残っていました。しかし1943年、ラバウルに対する連合軍の上陸作戦が近いと思われる頃になると撤退が不可能と判断され、仮に連合軍の上陸作戦が行われても、ラバウルの部隊を放棄するほかはないという方針に変わっていました。戦後外国の方から、日本軍は全滅を美化し好んだとよくいわれますが、可能であれば撤退したいのが日本軍の本心でした。戦争中、日本軍が全滅を選んだのは、船がなく島から撤退できない上に、ほかに逃げる余地のない小さい島であったことが大きな理由でした。

ニューギニア戦は、1942年のニューギニア南岸のポートモレスビーをめぐる攻防が行われた第1期と、43年から44年までニューギニア北岸で連合軍の上陸と日本軍の移動が繰り返された第2期に分けることができます。トラック島を守るためにラバウルの占領を強行した海軍は、今度はラバウルを守るためにニューギニアのポートモレスビーの攻略を企図しました。またオーストラリアからの連合軍の反攻作戦を阻止するだけでなく、日本軍がオーストラリアに進攻する場合に備え、ニューギニアの連合軍勢力を排除する必要を感じていました。ポートモレスビーに対する海上からの作戦、山越えの作戦の2つが失敗に終わり、作戦は先送りになりました。これが第1期のニューギニア戦です。

ところが1943年1月、大本営においてガダルカナルからの撤退と東部ニューギニア進攻作戦に重点を移すことが決定され、ニューギニア戦は新たな段階を迎えました。これが第2期です。連合軍が、一時期、ガナルカナル方面と東部ニューギニア方面の2方向からラバウルをうかがう作戦であることを読んだ上での方針転換でなく、いわばガダルカナル戦の敗退をおおい隠すための政治的判断に基づいた決定でした。戦争指導部は、国民が衝撃を受けるのを避けるため、他方面への移動を意味する「転進」という言葉を使って、ガダルカナルからの敗退を国民に知らせました。そのため新しい移動先が必要になり、それがニューギニアであったというわけです。つまりニューギニア作戦は、戦争の大局の上に立った判断に基づき打ち出された新しい方針でなく、国内の政治的社会的事情から立案されたものであり、それには昭和天皇の発言が大きく関係していたといわれています。

補給能力の限界を越えたガダルカナル戦の直後に実施されたニューギニア戦は、最初から補給を期待できなかった点に特異性があります。南方資源地帯に進攻した日本軍は、補給能力に限界があるため、はじめから現地で食糧等を調達する方針をとっていましたが、ニューギニアでも同じ方針であったと考えられます。しかし食糧の現地調達は、現地の農業生産がある程度の発展段階にあり、生産された食糧を広く流通する社会経済体制が成立し、さらに余剰食糧を生み出す能力のあることが前提です。マレー半島やインドネシアに比ペ、ニューギニアの農業は発達が遅れ、むしろ狩猟採集時代に近い段階にあり、食糧の調達は不可能に近い状況でした。

進攻する日本軍は、補給が期待できないことは覚悟していたはずですが、現地での食糧調達がむずかしいことがわかっていたとは思えません。あまりにあわただしく作戦が実施されたため、何も知らないままニューギニアに進攻した派遣軍は、陸揚げした食糧がなくなると、たちまち飢餓に苦しみ、これに連合軍の激しい攻撃が加わっておびただしい数の餓死者、病死者を出しました。

東西に分かれたニューギニアは、東ニューギニアだけでも九州を除いた日本本土と同じくらいの面積があり、東西ニューギニアを合わせると日本の2倍以上にもなります。これだけ広ければ、海から攻める側が自由に上陸地点を選び、相手側を追いつめる島持有の戦闘も避けられたのではないかといわれます。つまりニューギニアのような面積があれは、海岸から内陸に戦場を移動させて戦線を引き、陸軍だけの地上戦闘が可能であったのではないかということです。ところがニューギニアの内陸部の多くは、急峻な山脈を背景とする人跡未踏の森林地帯で、人間の集団的活動をほとんど許さない自然環境下にありました。そのため廊下のように狭い海岸線だけが作戦可能範囲で、小さい島をめぐる攻防戦と同じ結果にならざるをえなかったのです。

このためニューギニアでも、制海権を持つ攻撃側は、海岸に展開する相手を海軍艦艇で攻撃できるだけでなく、自由に上陸地点を選び相手の行動を封じ込めることができました。さらに制空権を持っていましたから、自由自在の攻撃をかけることができました。日本では、これだけ大きな東ニューギニアにたった3個師団しか投入しなかったことは作戦ミスという意見がありますが、見かけは大きくても、部隊が容易に行動できるのが海岸部だけですから、3個師団でも多過ぎたのではのではないかと思います。

島をめぐる攻防戦は、だいたい制海権によって支配されるため、島を守備する陸兵がいくら頑張っても、最後には全滅か降伏かの2つしか道は残されていませんでした。そうなりますと国家・天皇への「忠誠」を極めて狭く解釈し、降伏を不忠と決めつける日本軍には、全滅の選択しかないことになります。ニューギニアの自然環境ならば、同じ道しか残されていないと思われました。しかしニューギニアの日本軍は、第3の選択である内陸部への移動の道を選び、1万人以上の将兵が4千メートルの高峰をも越えたこともありました。たぶんアルプス越えをしたナポレオンもびっくりしたことでしょう。日本軍が内陸部へ後退した報告を聞いたマッカーサーが、「あとはジャングルが始未してくれる」といったように、内陸のジャングルと険しい地形は日本軍を苦しめ、多くの犠牲を出しました。しかし日本軍は兵力が激減しながらも、幾つも山脈を越え、セピック河の大湿地帯を踏破して生き残りました。連合軍に対して反撃する力を失っても、執拗に生き延びたことによって、連合軍の次の作戦を遅らせる効果を果たしたといえるのではないでしょうか。

想像をはるかに上回る連合軍の兵力、予測不可能な上陸作戦について、日本軍はその目的を理解できませんでした。連合軍がニューギニア北岸を南東から北西方向に進攻し、作戦を操り返すのをみて、ラバウルが目標ではなく、フィリビン進攻の前哨戦ではないかと判断した時期を明らかにできません。43年9月、[図2]にありますように、戦争指導部は従来の作戦指導方針を変更して絶対国防圏を設定し、圏内の防備体制の強化をはかることにしました。おそらくこの時までに、フィリビンの防備強化のため時間を稼ぎ、連合軍のフィリピン進攻を遅らせることが、ニユーギニア戦の目的と決ったのではないかと思います。

絶対国防圏のラインは、ニユーギニアではおおむね東西ニユーギニアの国境線にそって南北に引かれました。島の中央部を南東から北西に険しい山脈がはしっている地形を考慮すれば、この守りやすい山脈に沿って横にラインを引くべきでしょう。ところが南北にラインを引いたのは、実質的戦場が細長い海岸線であり、これを分断するには縦のラインで十分と判断されたためと思われます。

絶対国防圏の設定は、そのラインで連合軍の進攻を食い止めて時間を稼ぎ、その間に重要地域の防備を強化するのが狙いでした。ラインの外側に残された日本軍は、日本語でいう「捨て石」となり、任務を果たしたのち全滅するのが運命と考えられました。ライン外となった東ニューギニアの日本軍は、連合軍の西ニューギニアヘの進攻を食い止め、フィリピン攻略の前進基地とならないように徹底抗戦するのが使命になりました。東ニューギニアの日本軍が、連合軍からは無益と思われる絶望的な闘いを続けたのも、このような使命があったためです。

最後に、ニューギニア戦の意義をどこに求めたらいいのでしようか。戦線が一気に何百キロも動くことも珍しくなかった太平洋戦争の中で、1943年は比較的動きが少なかった年で、44年になると連合軍の本格的北進が始まります。43年の絶対国防圏も、動きの少ない戦局の合間に設定されたものです。中でも、戦局の中心であったニューギニアの戦線は、少しずつ東から西へ移動しながらも、日本軍と連合軍は膠着したスクラムに似た状態にあり、日本軍の建て直しに必要な時間をニューギニア戦が与えてくれたともいえます。しかし戦争指導部の中で、最後まで戦争全体の中に占めるニューギニア戦の位置づけをできるものはいませんでした。ガダルカナル戦敗退をごまかずために実施された第2段階のニューギニア戦に、戦いの主役をつとめる陸軍ははじめから消極的でした。連合軍がニューギニア戦の目標をラバウルからフィリピンに変更したことによって重要性は一気に高まりましたが、当初からの無関心が重なって、二ューギニア戦の意義を理解できず、情勢の変化に遅れてしまいました。

このようになった最も大きな理由は、ニューギニア戦が戦闘の流れの中で生じた必要性によって実施され、そこには明確な戦争指導方針すなわち戦略がなく、そのため日本側の作戦計画が、連合軍の行動を追いかけて作成されたことに求められます。敗退する側には、戦略の変更を考える余裕も実行する余力もないのが普通ですが、ニューギニア戦は、まだ日本が戦局の主導権を握っている間に実施されたにもかかわらず最初から戦略を欠き、戦闘が長期化する中で、逆に連合軍の戦略をなかなか読みとれなかったことも大きな問題であったといわねばなりません。

以上のように私は、戦争全体およびニューギニア戦をめぐる情勢を、かなり大胆に概念化し、アウトラインを描いてみたつもりです。無理に論争のタネをまくつもりはありませんが、1回だけのシンポジウムに終わらせず、さらに第2回のシンポジウムを求める声が出るほど議論が盛り上がることを期待し、私の考えを提起させていただきました。



豪日研究プロジェクトは研究活動を休止いたしました。
お問い合わせは、オーストラリア戦争記念館の担当部門にお願いいたします。
Internet implementation by Fulton Technology and AJRP staff .
Australian War Memorial のホームページへ。
Visit the award-winning web-site of the Australian War Memorial