Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
堀井少将の死

イオリバイワから転進せよとの命令を受け、その2ヵ月後の1942年11月18日に、南海支隊の主力部隊はクムシ河左岸のピンガ近くの地点に達した。そこでは,ギルワ方面からの砲撃音が聞こえ、日本軍の守備陣地が連合軍の攻撃にさらされていると推察された。その夜大きな嵐が部隊を襲い、彼らの野営場所は水浸しになった。兵隊たちは「まるで馬のように立ったまま」夜明けを待たなければならなかった。

翌11月19日、堀井少将はギルワにできるだけ早く到着しようと、クムシ河をいかだで下ることを決めた。他の部隊にはゴナに急行するように指令した後、堀井は参謀一名、副官一名、下士官数名、兵数名に従われて、大きないかだに乗り込んだ。しかし2キロと進まないうちに、いかだが川の中に沈んでいた木に引っかかってしまった。しかたなく一行は岸に上がり、右岸を下流へ向けて徒歩で進んだ。まもなく丸木舟を見つけたので、堀井はそれに田中参謀と漁師出身の当番兵を伴って乗り込み、クムシ河の河口まで無事に到着した。

海まで来ると、砲声はますます大きくなり頻繁になった。そのことはギルワの日本軍に対する攻撃が激しさを増していることを意味していた。堀井はギルワにできるだけ早く到着したいと思い、危険を承知のうえで、丸木舟で海へ漕ぎ出すという運命的な決断を下したのだった。

堀井は田中参謀と漁師出身の当番兵と共に、カヌーでギルワへ向けて海へ漕ぎ出した。海岸からの攻撃を避けるために、沖のほうへ船を向けた。しかし、雷と稲妻をともなって天候が悪化し、強風が吹き始めた。カヌーが転覆し、あっという間に沈んだが、そのとき沖10キロの距離にあった。田中参謀は泳ぐことができず、2、3度顔を水面に出した後、海に沈んでしまった。堀井と当番兵は岸へ向けて泳ぎ始めた。4キロほど泳いだ後、堀井は当番兵に対して、「もうわしは泳ぐ体力が尽きた。堀井はここで死んだと部隊に伝えてくれ」と言い、そして、両手を上げて「天皇陛下万歳」と声の限り叫んだ。この言葉が、沈む前の堀井の最後の言葉だった。

この兵士は岸に泳ぎ着くことができ、ただ一人の生き残りとして顛末を報告した。上記の状況は小岩井少佐の回顧録に記録されている。

田村恵子記

参考資料
防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書南太平洋陸軍作戦2:ガダルカナル-ブナ作戦』1969年。朝雲新聞社刊。214-215ページ。


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