Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
ラビ作戦

ミルン湾は東部ニューギニアの南東部に位置するが、険しい山に囲まれ、海岸線は湿地帯のため海か空からしか到達できない地域である。雨季には降雨量が非常に多く、狭い海岸部ではマラリアが蔓延していたが、連合軍にとっても日本軍にとっても戦略的に重要な地点であった。ミルン湾を手に入れることによって、オーエン・スタンレー山脈上空の危険な地域を飛行することなく、敵の基地を直接攻撃することができるようになるからである。また日本軍にとってこの飛行場を占拠することは、連合軍の南方海上航路を妨害し、さらにオーエン・スタンレー山脈を越えて実施される、ポートモレスビー陸上攻撃支援の前進基地を確保を意味していた。

1942年6月から、オーストラリア軍の歩兵及び砲兵に守られながら、アメリカ軍工兵たちはこの地域に飛行場を建設していた。日本軍が攻撃を開始した8月下旬には、ミルン湾の連合軍陸上要員は9000人を数え、その半数が歩兵だった。日本軍の攻撃の際、7月から基地に配備されていたオーストラリア軍飛行中隊の2隊は、爆撃機と雷撃機で構成された分遣隊の支援をうけていた。

日本軍の作戦担当者たちは、ソロモン諸島ガダルカナル島で8月上旬に起こったアメリカ軍の反撃は、押さえられると考えていた。にもかかわらず、ミルン湾内上陸予定地点とされたラビへの攻撃を、第25航空戦隊が東部ニューギニア北部海岸のブナへ到着するまで遅らせた。日本軍の第8艦隊は、ミルン湾内の連合軍勢力を少なく見積もっていた。それゆえ、まず特別陸戦隊員800名と設営隊員360名をラビへの直接上陸に派遣し、さらに北部海岸のタウポタから飛行場の陸上攻撃のために、陸戦隊員350名を派遣した。日本軍の戦略に打撃をあたえたのは、この後者部隊の輸送船が、連合軍のキティーホーク機の攻撃を受けたためグッドイナフ島で足止めをくい、最終的にこの攻撃に参加をすることができなかったことである。

日本軍はミルン湾の連合軍基地に対して8月上旬から空襲を開始し、8月25日には主力部隊による夜間上陸は成功裏に終わった。しかし、連合軍によるブナ攻撃と、ミルン湾での日本軍側の損失は、上陸輸送部隊に対する航空援護と攻撃の効果を大きく制限した。

この地域の厳しい地形は、上陸地点西側に位置する飛行場への日本軍の進攻を妨げた。オーストラリア守備隊の頑強な抵抗と、連合軍側の陸上部隊と航空部隊の効果的な連携に対抗するために、第8艦隊はさらに750名の陸戦部隊を派遣した。この部隊は、ラビから6キロ東に位置するワガワガに、8月29日夜間上陸した。しかし第3滑走路近くに陣取った連合軍による8月31日の反撃は、日本軍の進攻をさらに妨げた。加えて、オーストラリア空軍第75及び第76飛行中隊のキティーホーク機の攻撃で日本軍の輸送用舟艇が破壊され、将兵が夜の闇にまぎれて海岸線沿いに移動できなくなった。

9月1日以降、日本軍は海岸に沿ってしだいに東へと押されていった。ブナやカビエンからの日本軍飛行機によるラビ攻撃の援護は、悪天候のため何度もさえぎられた。応援軍の派遣計画を中止し完全撤退の決定は、第8艦隊司令部によって9月5日に下された。全勢力約2000名中3分の2の人員が、その後何日間にわたって夜間海路を使って撤退した。残る600人は戦死するか、ブナへ向けての陸路帰還の途中で死亡した。連合軍側の被害はずっと少なく、死亡者161名と負傷者212名であった。

日本軍の攻撃は、優勢でかつ堅固な守備を誇った連合軍の前に完全に失敗した。、最初の日本軍の急襲に際して、もしオーストラリア軍司令官シリル・クロウズ少将が、後続の上陸部隊が連合軍陣地の側方と前方を脅かすのではないかという懸念を持っていなければ、日本軍の敗北はもっと早かったといえる。小型戦車がぬかるんだ道路であっという間に立ち往生したことや、兵士たちが降り止むことのない雨に打たれて疲弊したことになど、飛行場への日本軍の進攻は、悪状況にさらされた。効果的に指揮された連合軍の昼間空襲に対し、日本軍の空中援護はまれで、日本軍は立ち往生してしまった。海上から敵を出し抜く手段もなく、日本軍の進攻は期待されていた応援部隊の到着以前に、戦闘を続行しながらの退却へと転換された。たとえ新規部隊の派遣をしたとしても、ソロモン諸島での戦況の悪化のために、作戦を成功裏に遂行できる可能性は非常に少なかった。

戦術的重要性が高いミルン湾の飛行場を日本軍が確保できなかったことは、ポートモレスビー攻略計画に深刻な影響を与えた。たとえ、堀井少将指揮下の南海支隊がオーエン・スタンレー山脈越えに成功したとしても、前進基地の確保と緊密な空中掩護なしには、海上ルートからの支援と増援を望めなかった。一方、連合軍は、ミルン湾での勢力を拡大し、それを活用してブナへの進攻の基点とすることができた。さらにガダルカナルでの状況の悪化が重なったことが、ラバウルの日本軍司令部によるポートモレスビー侵攻作戦の中止決定に、大きな影響を与えた。ミルン湾の戦闘結果は、ニューギニア作戦の実質的転機となったのであった。

スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)


Printed on 04/28/2024 11:07:26 PM