Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
フオン半島

フォン半島における作戦は、1943年9月にオーストラリア陸軍第7及び第9師団によるラエ陥落によって幕を開けた。第7師団が内陸部からラム渓谷に向かって進撃する一方、ジョージ・ウォーテン(George Wootten)少将の第9師団はフォン半島を攻略するように指示されていた。これにより、連合軍はヴィティアズ海峡(Vitiaz Strait)を確保し、新しい飛行場建設に伴って、ラバウルを効率的に孤立させ得るはずであった。

ラエにおける日本軍守備隊のほとんどは、サラワケット山脈を越え、内陸に向かって撤退していた。何百もの将兵が、栄養失調と疲労によって、この厳しいフォン半島の北側に抜ける山越えの最中に死亡した。

オーストラリア軍の最初の主要目標はフィンシュハーヘンであった。この地は日本軍にとって、前線に向かう部隊や援軍の中継地点でもあり、小型艦艇や上陸用舟艇の燃料補給地点としても機能していた。1943年7月、山田英三少将がこの小さな補給基地に着任した。彼は元々兵站畑の出身であったが、連合軍の進撃によって彼は作戦司令官という役割を任じる事となった。彼はその配下に五千の将兵を有していたが、そのほとんどはサラモアでの防衛戦及び退却戦で疲労し、貧弱な装備しか持っておらず、しかも彼はその兵力を海岸線沿いの戦略拠点を防衛させるために、広く薄く配備しなければならなかった。約千名の海軍陸戦隊員、一個歩兵中隊及び砲兵がフィンシュハーヘンを防衛していた。

日本軍は基地・道路建設や農園作業、補給物資運搬を手伝わせるためにニューギニア人を雇っていたが、連合軍が反日プロパガンダ運動を始めてからは、多くの者が内陸に移動してしまっていた。連合軍情報局(Allied Intelligence Bureau)の斥候隊が連合軍の勝利に関する情報を浸透させる一方で、極東連絡局(Far Eastern Liaison Office)がこれらの伝単を印刷して空中投下した。日本軍は、引き続き残留する地元民はスパイだと考え始め、この結果日本軍とニューギニア人との間の信頼は消滅した。以後、補給物資は朝鮮人及び台湾人労務者か、または陸軍工兵らによって運搬されるようになった。

ラエ周辺を掃討した後、オーストラリア陸軍第22大隊は、海岸沿いを徒歩によりフィンシュハーヘンに向かって進発した。大小多くの河川を渡河しなければならず、また待ち伏せを警戒して慎重に移動しなければならなかったので、その進撃は遅々としたものであった。1942年のココダ街道における敗退の後に再編され、訓練されてきたパプア歩兵大隊も、捕獲から逃れようとする日本兵を追い詰めるために部隊を派遣した。

オーストラリア軍の主要攻撃は1943年9月22日、フィンシュハーヘンの五マイル北方にあるスカーレット海岸に対する、第20旅団の上陸作戦によって開始された。アメリカ兵の操舵する上陸用舟艇のほとんどが、予定されていた上陸地点を間違えたため、オーストラリア兵は知らず知らずのうちに、主要防衛拠点を回避してしまう事となった。日本軍は機関銃小隊や迫撃砲小隊、通信部などとともに、歩兵第八十及び第二百三十八連隊からそれぞれ一個中隊をこの拠点に配備していた。カチカ村(village of Katika)近くで頑強な防衛戦を行った後、これら日本軍部隊は退却した。

この撤退行動は、日本軍の防衛戦略における明確な転換を示すものであった。ブナの日本守備隊では僅か少数の兵が脱出しただけで、他は完全に掃討されるまで戦い続けたが、彼らの方針はいまや、敵の徹底攻撃には抵抗しても、頑強な最後の抵抗によって多くの将兵を失わないでおこうとするものに変わっていた。日本軍の高級将校らは、この方針の方が将兵を撤退させ、再編するためにはよいと判断したのである。その結果、片桐茂中将指揮下の第二十師団が反撃を実施するためにボガジムからサテルベルグへ進む一方で、山田少将は、部隊を同地まで撤退させる事を承認した。

オーストラリア陸軍第20旅団の指揮官、W.J.V.ウインディヤー(W.J.V. Windeyer)准将は二個大隊に対し、第三の大隊の一部とパプア人の一個小隊がこの地域にそびえ立つサテルベルグ山に向けて進撃する間に、沿岸部を前進してフィンシュハーヘンを攻略するように命じた。これら二方面に対する物資輸送は、運搬人として雇える周辺住民がほとんど残っていなかったせいで困難なものとなった。数台のジープやトラクターがスカーレット海岸に陸揚げされたが、工兵が道路を整備するまでは、これら車両の使用はそれらの地域に限定されていた。その間、将兵ら自らが補給物資を運ばなければならなかった。

この輸送の問題や激しい戦闘にもかかわらず、ウインディヤー准将の旅団は上陸後十一日目にしてフィンシュハーヘンを占領した。第9師団からの二つ目の旅団が10月10日から11日までの間に到着したが、同時に日本陸軍第二十師団もまた、サテルベルグに到着していた。片桐中将はすぐさま、一万二千の兵力をもって反撃を開始した。

オーストラリア陸軍第20及び第26旅団は、海岸線とサテルベルグ山の間にあるジヴェバネン(Jivevaneng)にむかって進撃していたが、10月16日、日本陸軍第二十師団が反撃を開始した。歩兵第七十九連隊がスカーレット海岸に向かう一方、歩兵第八十連隊がジヴェバネンを攻撃した。日本側のスカーレット海岸での小規模な上陸強襲はオーストラリア軍とアメリカ軍の機関銃手らによって撃退された。戦闘は一週間以上も続いたが、反撃の勢いそのものは鈍くなっていった。補給物資の空中投下による試みにもかかわらず、歩兵第八十連隊の物資は欠乏していた。

オーストラリア軍がサテルベルグ道(Sattelberg Road)に沿って再び攻撃した時、第9師団は戦車と火砲によってその攻撃力を増強させていた。ジープと積車トレーラー(しばしば『ジープ牽引列車(Jeep train)』として使われた)がラエから運ばれ、また地元民が村に戻り始め、運搬作業に従事する事を受け入れるに従って、補給物資はより自由に流れ始めるようになった。

日本軍歩兵第七十九及び第八十連隊は、オーストラリア軍の攻撃にも頑強に抵抗したが、その内徐々に押し戻されるようになっていった。オーストラリア軍がサテルベルグ道を越えると、そこの地形は山岳地帯となっていて、戦車はそれより先では使用出来なくなってしまった。第2/48大隊が最終的にサテルベルグ山を占拠した1943年11月27日までの間、オーストラリア陸軍歩兵が突撃を続けていた。

連合軍の上級司令官は、飛行場建設のためにアメリカ軍部隊がニューブリテン島に上陸する前に、フォン半島を制圧する事を望んでいた。このため第9師団は、ワレオやグシカに向かって北に進撃を開始した。民兵で構成されていた第4旅団は、退却しながら一連の遅滞活動を演じる日本軍部隊の追撃に参加した。陸上部隊が、日本軍の抵抗を『弱体化(”Soften Up”)』させるための近接航空支援や、物資の空中投下のための輸送機を要請する時など、航空戦力は、特に山岳地帯奥地においては、オーストラリア軍の前進にとって必要不可欠なものであった。

12月半ばまでに、片桐中将の第二十師団の残余の将兵らは内陸の街道を使って、フォン半島の北部にあるラコナ(Lakona)とシオに向かって後退していった。それは特に傷病兵らにとっては過酷な撤退であり、彼らの多くはオーストラリア軍の前進を遅滞させるために後方に残されるか、もしくは同僚の兵らによって殺害された。

シオに対するオーストラリア軍の主要な進撃は、海岸線に沿って進んでいた第20旅団が担当した。日本軍の部隊はオーストラリア軍の前進を遅滞せしめんとしたが、彼らはすでに物資を欠乏させ、また疲労困憊していた。1944年1月15日に陥落させたシオまでの最後の七十五キロを進むのに、オーストラリア軍は約三週間を要していた。

その間、アメリカ陸軍第126連隊がフォン半島を越えてサイドー(Saidor)に上陸し、そこに前進基地を建設するための防衛線を設置した。オーストラリア陸軍第9師団はこの時点ですでに四ヶ月間も戦い続けており、疲労し、ボガジムへ後退した片桐部隊の生き残った将兵に対する攻勢を継続させるため、オーストラリア軍は前線に新たに一個旅団を派遣した。激しく、極度に消耗する戦いの中で、第9師団が千二十八名の将兵を失う一方、日本の第二十師団は総兵力一万二千六百名のうちのほとんど三分の二を、戦死、負傷または重病によって喪失した。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)


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