Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
残虐行為

残虐行為 戦場で実際に起こった恐ろしい出来事は、小心なものにはショッキングである。戦闘での極限的状況が、兵士たちを文化的、道徳的な通常の枠組みから外れる行為に導くことは確かである。しかし、現代人の感覚では嫌悪感を覚えるこのような戦争体験のある一面を振り返る意味は何だろうか。振り返ることで、多くの兵士が戦闘で死んでいった原因となった、敵意や憎悪を再燃させるだけではなかろうか。一方、このような戦争の一面を容認できるように脚色したり、残虐行為の言い逃れをすることは、ともすれば無視されがちな人間性についての問いかけを回避することになる。

次にあげる日本人兵士の行為を理解することは難しい。日本の軍国主義や日本人の性格の欠陥のせいでであると説明するのは、ニューギニアでの戦争の文化的、歴史的、地理的そして感情的な状況の複雑さを単純化してしまうことになる。ジョン・ダワーが述べたように、太平洋の島々での戦いにみられた特有の残虐さは、人種に対する類型的な認識にあおられたもので、その結果として捕虜の数の少なさと、双方の軍による負傷者や病人の殺害が起こった。

ゴナの宣教師たち アングリカン教会の宣教師だったメイ・ヘイマンとメービス・パーキンソンは、ゴナで宣教活動をしていた。日本軍が1942年7月21日に上陸し、二人は地元のアングリカン教会のジェームス・ベンソン牧師と共にジャングルに逃げ込んだ。2人の突然の避難の様子は、ラバウルの陸軍情報班長であった滝田憲次氏によって次のように後述されている。

この上陸作戦で、一ばん先に上陸したのは船舶班の園田中尉らであった。椰子林のなかに一軒の小さい建物がある。それは土人らの小屋ではなく、夜目にも洋館であることがわかった。園田中尉らは用心ぶかく接近し、ドアをそっと開けた。ぷンと女性の香料の匂いが鼻をつく。懐中電灯をつけてみると、室のなかには、すでに人かげがない。そこには若い女の服がさがっている。テーブルの上にはまだ温かいコーヒーの茶碗が二つおいてある。 「まだ遠くへはゆくまい。さがしてみろ!」 このとき、電話のベルが鳴りだした。受話器をとると、英語で「早くココダへ行け」という意味のことを、あわてた口調で言っている。不意をつかれた白人たちの行く手は、ココダらしく思われた。

メイ・ヘイマンは宣教所内の診療所の看護婦だった。メービス・パーキンソンは宣教所内の学校の教師だった。ジャングルの中で、二人はベンソン牧師や現地住民や、何人かの豪軍や米軍兵士と航空兵の助けで何ヶ月間か生き延びることができた。しかし、兵士たちが殺されベンソン牧師が逃げた後、現地人村長の手によってとうとう日本軍に引き渡された。現地人目撃者の証言によると、二人は日本軍の手によってウルル・プランテーションで処刑された。滝田によれば、この二人の女性宣教師は浅く掘られた墓穴の横に立たされ、尋問中に情報を提供しなかったという理由で、憲兵隊の手によって銃剣で無残にも突き殺されたのだった。この地域から日本軍が敗退した後、1943年2月に二人の遺体は掘り起こされ、サンガラ宣教所に再埋葬された。

カニバリズム(人肉嗜食) 東部ニューギニアにおける戦闘中に、日本軍兵士の一部が人肉を食べたという実際の証拠は存在する。しかしこのような行為の動機は、酷悪な戦闘状況においての極度の飢餓やストレスによる特殊な出来事なのか、あるいは田中利幸氏が示唆したように、軍の上層部が見てみぬ振りをしたことによって、儀礼的で制度的な習俗が容認されていたからなのであろうか。

東部ニューギニアの戦闘で戦った多くの日本軍兵士にとって、飢餓と食料不足は通常のことだった。ラバウル・ゴナ間の制空権と制海権を連合軍が握ったため、補給品や兵力の補充は断続的になり、1942年9月以降日本軍はさらに孤立し、補給の乏しい状態で戦闘を続けなければならなかった。死に直面し、精神的にも肉体的にも麻痺した兵士たちにとって、一度の食事が一日の延命を意味すると考えるだけで、道徳的な見方や嫌悪感を乗り越えるには十分だった。ある兵士は戦後次のように振り返っている。

その当時私は、ひどい下痢が続きマラリアの熱も去らず、草の上に寝ていました。歩くのがやっとでした。「栄養を採らんと死ぬるぞよこれを食え、一度によけいにはいかんぞ」友人が持って来てくれた人肉で、友人も秘密にはせず、私もそれを承知でした。うまい匂いがしていました。私は、まったく何のこだわりも持たずに食いました。(こだわりなく食ったことが)特にいつまでも私をこだわり続けさせています。 このことについて私は、その後の戦争中も復員してからも、全然気になりませんでしたが、ようやく世の中が落ち着いた頃から、時折り考え込むようになりました。その時には、古傷のように体の深い所が痛みどう仕様もありません。(お前はしてはいけないことをしているんだぞ!)そんな声もきこえるのです。(あれは戦場の、地獄でのことだ)と反発してみても、空しさが増すだけでした。

このような行為に対して、豪軍は日本人を一人も戦争犯罪人として裁かなかった。しかし、カニバリズムの嫌疑についての取調べの過程で、ココダ街道沿いやギルワ周辺の海岸部において、目を覆いたくなるような、身体の切断や汚辱が見られたことがはっきりとした。何人かの日本兵の証言は、これを基本的には現地部族住民の仕業だとし、あるいは別の人々は日本軍上層部による狂信的な残虐行為であると非難した。しかし、1942年から43年にかけて、パプアの「地獄の戦場」では疑いもなく野蛮で絶望的な行為が行われたのであって、これらに関して客観的な考察を加えるのは現在でさえも難しい。

スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)

参考資料:Yuki Tanaka, Hidden horrors: Japanese war crimes in World War II (Boulder: Westview Press, 1996), pp. 111?134. (日本語版は田中利幸著『知られざる戦争犯罪』1993年。大月書店刊)

歩兵第144聯隊通信中隊史編纂委員会発行『歩兵第144聯隊(高知)通信中隊誌』1986年刊。83ページ。

John Dower, War without mercy: race and power in the Pacific War (London and Boston: Faber and Faber, 1986). (日本語訳はジョン・ダワー著『容赦なき戦争』2001年。平凡社刊。)


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