Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
戦後のラバウル

大本営が1943年9月に「絶対国防圏」を設定し、これを確保する方針を取って以後、西南太平洋地区の日本軍は基本的には防衛態勢を敷いた。ニューブリテンのように日本軍は連合軍の勢力圏の後方に孤立化したところもあったが、ブーゲンビル・東部ニューギニア、ボルネオなどの地区は後に連合軍の激しい攻撃に晒された。終戦時には、9470名のオーストラリア兵が日本軍との戦闘で戦死し、別に8031名のオーストラリア兵捕虜が収容中に死亡した。これに対して、1943年1月にこの地域で戦闘が始まって以後、33万人以上の日本兵が戦死、または戦傷か病気の結果、亡くなった。

このように多数の死者を出したにもかかわらず、終戦時には西のジャワとボルネオからオランダ領ニューギニア・イギリス領ニューギニア・ビスマルク諸島を経て東のブーゲンビルにかけて、オーストラリア北方の弧状の地域に軍属も含めて35万人以上の日本兵が駐留していた。これら日本軍の部隊名と人員数は以下の通りである。(注1)

日本時間の1945年8月15日正午、昭和天皇は「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え」という有名な言葉を述べ、帝国全土に向けて戦争の終結を布告した。玉音放送に耳を傾ける将兵の姿は日本本土と外地領土で繰り返された光景であり、第8方面軍司令官今村均将軍も高級将校たちとともにラバウルの陸軍司令部で玉音放送を聞き入った。空電と混信が天皇の言葉を聞き取りにくくしたが、戦争が終わり、停戦と武装解除の処置が取られることがまもなく明らかになった。この終戦処理の命令は8月17日に東京の大本営よりラバウルに発せられた。

オーストラリア軍は上の表にある西南太平洋各地区での日本軍の降伏を受理する任務を担当した。豪第1軍が英領ニューギニア・ニューブリテン・ニューアイルランド・ソロモン諸島、さらにオーシャン島とナウルの各日本軍を担当したのに対し、豪第1軍団は蘭領ニューギニアと蘭領東インド諸島から東方の小スンダ列島とボルネオまで降伏処理を監督した。各地域の日本軍はオーストラリア軍の接触を受け、降伏調印式に始まり、武装解除・防衛基地の撤去・日本兵の収容と食糧支給などの処置を経て、最終的に復員した。

終戦時に最も日本兵の収容規模が大きかったのは、ニューブリテンのラバウルを中心にしたガゼレ半島である。オーストラリア軍はこの地域の日本兵の数を著しく低く見積もっていたため、復員までに約10万人の日本兵をどのように養うのかという問題に直面した。その答えは、9月10日、オーストラリア軍守備隊の司令官スターディー将軍が発した命令に見出せる。つまり、日本軍は約10個所のキャンプをラバウル地域に作り、戦時の自給自足の努力を継続せよということである。スターディーは今村将軍を全日本軍の最高司令官に任命し、現存する命令系統を活用するようにした。

初め既存の耕地から移動することによる困難があったが、マラリアの高い罹患率と他の労務へ労力供給による労働力不足にもかかわらず、ラバウルの日本兵はかなり高い自給率を保った。今村将軍は、部下の日本兵が規律を維持し、戦後日本の復興に寄与できるよう、ラバウルで包括的な再教育制度を実施した。キャンプの日本軍将校が教科書を作成し、日本兵に必修科目と選択科目の授業を行った。これらの教科は、農耕と自活のための実用的な講習、数学・科学に関する専門的講義、職業訓練、さらに歴史や宗教についての一般的教育を含んでいる。

戦中と戦後の連合軍の調査の結果、924人の日本兵に戦争犯罪の容疑がかけられた。オーストラリア管轄の法廷がこれら地域で8個所開設されたが、大半の容疑者はラバウルで裁判を受けた。容疑者の四分の一近くが有罪判決を受け、絞首刑か銃殺刑に処せられ、他の容疑者は一月から無期の懲役刑を受けた。

西南太平洋地区からの日本兵の復員は、船舶の不足から最初遅々と進まなかった。また、1945年8月には約15万7千人のオーストラリア兵もまだこの地区に駐留していた。同年12月までにわずか7万6千人がオーストラリアの船と飛行機、そしてこの地域にいた3隻のイギリス軍空母で復員していた。1945年11月から1946年の3月にかけて第18軍全員がムシュ島から復員したように、比較的早く復員が行われた地域もあったが、ラバウルから最初の復員兵の一団が日本に向かう空母葛城に搭乗したのはようやく2月28日のことであった。1946年の中頃までにさらに37隻の船が復員兵を乗せて日本に向かい、約500人の戦犯を残すのみとなったため、ラバウルのオーストラリア軍守備隊基地も縮小した。

西南太平洋地区から復員した旧日本兵は、1946年末までに帰還した500万人を越える民間人と兵士の一部である。戦後の荒廃期に日本兵の復員は一般の注目を受けることなく行われたが、旧兵士は戦後の復興に大きな役割を果たした。しかし、戦中の日本兵の犠牲的行為を大衆が認知し、彼らを顕彰することは一層難しくなっている。そうした行為は、どうしても日本軍の侵略・残虐行為・日本の戦争による犠牲者といった議論に結び付けられるからである。

(注1)  これらの数字は原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典』(新人物往来社、1997年刊、494-495頁)と服部卓四郎著『大東亜戦争全史』(原書房、1965年刊、1006-1007頁)より取った。

スティーブ·ブラード記 (Haruki Yoshida訳)

Printed on 05/15/2024 02:24:53 AM