Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
シオ・マダン

オーストラリア軍第9及び第7師団による、フォン半島とラム渓谷での作戦完了に伴い、ニューギニアにおける戦いは1944年初頭に新しい局面を迎えていた。かつて日本軍は、ニューギニア沿岸部に沿った各基地での頑強な防衛を試みていたが、オーストラリア軍第7及び第9師団に遭遇した日本軍第十八軍の残存将兵らは、いまやマダンに向けてひたすら撤退し続けていた。サイドーに建設したアメリカ軍の新しい基地が彼らの退路にまたがっていたが、撤退する日本軍部隊を追撃するためのオーストラリア軍部隊が新たに配備された。

シオから撤退を続けている日本軍主力は、ライ海岸に沿って西に移動していた。フェニストル山脈を越えて第7師団の追撃から逃れていた別の集団も、マダンに向かっていた。

ライ海岸では、第五十一及び第二十師団の残存将兵が疲れきり、物資の欠乏にあえいでいた。路傍に斃れた多くの者は傷病兵らであった。サイドーまで半分の行程にあるタリクンガン(Tarikngan)で、中井松太郎陸軍少将率いる約二千の援護部隊が待機していたが、それらには連合軍の進撃を食い止めることは期待されていなかった。

ラムジー陸軍少将指揮下のオーストラリア陸軍第5師団は、海岸部におけるオーストラリア軍の攻勢を引き継いでいた。アメリカ陸軍第32師団が日本軍の退路をサイドーで遮断する事を見越して、ラムジー少将はそこまで日本軍を追い詰める任務を、民兵で構成される第8旅団に割り当てた。ラムジー少将は、約三千の日本兵がその退路を西方に取ると見積もっており、またある程度の遅滞活動が行われる事をも予想していた。ニューギニアの連合軍の中では、恐らく追跡者としては最適であるパプア人の一個中隊が、砲兵、工兵及び野外救急車とともにオーストラリア軍に同行した。補給はその大部分を、増援部隊や貯蔵品を浜に揚陸するために使われる予定だった、アメリカ陸軍第2特別工兵旅団の上陸用舟艇によって提供されていた。

ライ海岸沿いにおける、パプア人に先導されたオーストラリア軍の進撃は、1944年1月25日に開始された。クワマ河(Kwama River)には、いまや多くの日本兵が、戦闘によってというよりはむしろ病気や疲労によって死につつある事を証明する何人かの死体が浮いていた。その他の者は同僚に殺されるか、自決する事を選んだ。しかしながら、これ以上行軍できないと考えた者たちは、別の方法を選んだ。つまり、隠密行動を取りながら、連合軍の部隊に攻撃を加える事である。この手段を選んだある兵士はクワマ河にいて、パプア人斥候隊を攻撃して逆に殺害された。

日本軍は完全に打ち負かされ、撤退していたが、オーストラリア軍とパプア人部隊は待ち伏せを警戒してゆっくりかつ慎重に進まなければならなかった。この前進の『目』となったのは、低空飛行によって敵の兆候を探し、待ち伏せ地点または敗残兵の所在位置の特定を行った、オーストラリア空軍第4飛行戦隊(戦術偵察)のパイロットたちであった。伝えられるところによれば、彼らは日本兵の死体の表情がわかるくらいの低高度で飛行したという事である。進撃を妨げるもう一つの要因は、火砲を密林の狭い道に通し、沿岸部の川を越えて移動させる際に生じる困難であった。日本側の抵抗が非常に軽微である事から、ラムジー少将は最終的に、部隊を火砲の支援なしに前進させる事に同意した。

彼ら追跡者はしばしば、飢えや疲労で死亡した日本兵に遭遇した。例えば、第30大隊は2月7日、日本軍の殿部隊まで24時間から48時間で到達できる地点において、六十の日本軍将兵の死体のそばを通過した。日本兵らは昆虫やカタツムリ、小鳥や雑草を食べる事によって飢えを凌いでいたが、これらでは僅かな栄養を補給するのがやっとであった。彼らは時に、周辺地域に軍がいる事で人々が逃げ出した後の村にある農園に侵入したが、これは彼らにとっても危険な行為であった。何故なら、その事でニューギニア人は日本軍が敗退している事を知り、またそれらぼろぼろで弱った敗残兵を殺害する事は、彼らにとっても比較的容易な事であったからである。

1944年2月22日から、ライ海岸における日本軍の追跡任務の大部分は、パプア人部隊に委ねられる事となった。これは、彼らパプア人の方が密林の中をより迅速に移動し、より首尾よく敗残兵を追跡する事が出来るからであった。今回の作戦のこの段階における日本軍の戦闘力の低下は、1月20日から2月28日までの間、第8旅団が日本兵七百三十四名を殺害し、千七百九十三名の死体を見つけ、また四十八名の捕虜をとった事で明らかとなった。この間、パプア兵とオーストラリア兵は合わせてわずかに三名が死亡、五名が負傷したに過ぎなかった。しかしながら、アメリカ軍が、彼らの拠点を避けて通ろうとするぼろぼろの日本の敗残兵の退路を一切塞ごうとしなかったため、オーストラリア軍の上級将校らが望んだような、日本兵がサイドーから完全掃討されるという事はなかった。ラエとフィンシュハーヘン地区での戦いで生き残った最大八千の日本兵がアメリカ軍のそばを通り抜けていた。

山岳地帯では、第7師団がラム渓谷において日本軍を打ち破ったが、生き残った兵らは、フェニストル山脈から海岸線にかけて後退していった。濃い密林に覆われたその山々は、驚くべき、また同時に気の滅入るでこぼこで急勾配、かつ断崖絶壁の景観を呈していた。移動は困難かつ消耗させるものであった。第7師団長、ジョージ・ベイシー少将は民兵第15旅団に対し、フェニストル山脈での日本軍追撃の任を与えた。第15旅団は、山脈に向かって曲がりくねった街道が続くボガジム道で日本軍を追撃したが、その間、散発的な抵抗に遭遇しただけであった。

オーストラリア軍の斥候隊は1944年4月13日、ついにボガジムに入った。周辺にまだ多くのトラックが放置され、工兵の資材集積所や通信隊本部があった事などから、ボガジムが日本軍にとって重要な基地であった事が証明された。オーストラリア軍に対してあまり友好的でなかった地元民も、オーストラリア軍の将校らに対して、日本軍がすでに同地を離れたのは確実だと述べた。

第15旅団は引き続き、サイドーを越えてマダンまで日本軍を追撃し、第8旅団の先導隊と合流した。敗残兵からの銃撃以外は抵抗もほとんどなく、あたかも日本軍はマダンを防衛するつもりがないかのように見えた。1944年4月24日、第57、第60及び第30大隊の斥候隊が、1942年からずっと日本軍の占領下にあり、基地として機能していたマダンに入った。彼らは、連合軍の爆撃機がマダンに猛烈な打撃を加えた結果、それに伴う軍需品集積所や建物の破壊によって、撤退する日本軍がより深刻な損害を蒙っていた事を知った。

日本の第十八軍は、まともに戦うことなくマダンを放棄した。ぼろぼろの敗残兵らは、海岸線沿いをウェワクに向かって引き続き移動した。オーストラリア軍によるマダン攻略は事実上、フォン半島とラム渓谷における作戦に終止符を打つ事となった。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)


Printed on 05/14/2024 08:38:54 AM