Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
金本林造

東部ニューギニアという比較的未知の地域で行われた戦闘は、補給の維持という大きな難題を日本軍につきつけた。海岸から内陸にのびる既存の自動車道路の状態と車両の通行可能距離を、1942年7月の先遣隊上陸以前に把握することは、南海支隊司令部が直面した大きな問題であった。

当初の調査によって、マンバレー河谷とクムシ河谷に沿って現地住民の使う小径がココダまで存在し、ブナからココダまでは駄馬道が存在するとわかった。7月27日と30日に、ラバウルに本拠地を置いていた第25飛行戦隊の飛行機が空中偵察を行った結果、ブナとココダの間に自動車道路のようなものが発見された。その結果、次のような報告が関連部隊に電報で伝えられた。

1. マンバレー河及びクムシ河に沿い海岸より内陸へ約5浬[9キロメートル]道路幅2乃至3メートル、さらに内陸へ10浬[18キロメートル]道路幅1メートル、それより密林にて道路を認めず。 2. ブナ、ココダ間自動車通行可能道路一本あり。パパキ東方クムシ河には自動車通行可能と認むる橋梁あり。本道路は全般に地形平坦にして渓谷なし。 3. ココダよりファダ(原著者注 イスラバ北側の山地)付近の険峻なる渓谷の中腹を縫う顕著なる道路を認む。或者は自動車通行可能と見、或者はやや困難と認めたり。この道路はファダ付近より山頂に出て、ワウメクリーク、ナオヴァ河(原著者注 どちらもブラウン河上流と推定する)に沿い西走するも雲の為不明。概ねこれより先はモレスビーに至る自動車通行可能程度の道路ありと判断される。
4. これ以外に道路の顕著なるものを認めず。

南海支隊の車両供給を担当したのは、輜重兵第55連隊第2中隊だった。輜重隊の小隊長だった金本林造少尉は、2度目の偵察飛行に搭乗するために派遣された。しかし、彼が飛行機に搭乗したのは初めてだったため、ギルワ上空を何度か旋回するうちに方向感覚を全く失ってしまった。1千から2千メートルの高度からでは、上陸予定地点から南に伸び、ジャングルの中を蛇のように曲がりくねる道路の幅がいったいどれだけあるのか、そしてその道路状態はどうなっているのかを判断するのは不可能だった。ゼロ戦5機の護衛があったものの、連合軍のP-38型戦闘機の来襲によって金本はますます混乱した。

それゆえ、彼は堀井司令官に次のような非常に不満足な報告しかできなかった。
「残念ながら自信をもってお答えできませんが、たしかにギルワから道はあります。確認できたのはこれだけであります。自動車が通れるかどうかは、上陸してみないとわかりません。」

さらに空中偵察が行われ、自動車道路に関しての調査を進め、道路整備の必要はあるものの、陸路攻撃の部隊への補給は可能であると第17軍司令部は判断した。

スティーブ・ブラード記 (田村恵子訳)

参考資料
防衛研究所戦史室編『戦史叢書南太平洋陸軍作戦1:ポートモレスビー-ガ島初期作戦』東京:朝雲新聞社刊、1968年、172頁。
金本林造『ニューギニア戦記』東京:河出書房、1968年、92-101頁。

Printed on 11/25/2024 01:40:41 AM