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戦争の人間像
ブナの守備作戦

パプア領域内で行われた最後の戦いは、ブナ作戦の前後において、ブナ、サナナンダ及びゴナという日本軍が橋頭堡を築いた北部沿岸地域で行われた。連合軍の上級将校たちは、この戦闘は比較的容易に勝てるであろうと考えていたが、実際のそれはニューギニアでの戦い全般を通じて、最も過酷かつ犠牲の大きい戦いの一つとなった。

連合軍情報部は、日本軍の橋頭堡は約四千名を収容しており、そのほとんどはオーエン・スタンレー山脈における戦闘でぼろぼろになった敗残兵たちであろう、と見ていた。オイビゴラリにおいて、歩兵第百四十四連隊がオーストラリア軍の前進を阻止しようと試みた後、歩兵第四十一連隊の生き残りは実にブナにまで到達していたが、他の数千もの陸海軍将兵は、前進基地建設と防衛支援のためにブナに送られていた。山脈からブナに辿り着く事のできた重傷者と病人のほとんどは船で後送され、最大九千名にも上る残留将兵は、背水の陣を敷いて粘り強く戦う覚悟を決めており、いざとなれば死ぬ覚悟を決めていた。

ゴナへの最初の上陸から四ヶ月で、日本軍工兵はココヤシの木と固い地面を利用して、小型兵器の攻撃やある程度の砲撃に耐えられる塹壕を、橋頭堡の境界線沿いに何百も建設していた。多くが重機関銃を備えたそれらの塹壕は、成長の早い草木によって自然に擬装され、航空偵察による発見を逃れていた。

1942年11月14日、マッカーサー将軍は連合軍に対し、これら日本軍橋頭堡を攻略し、パプアにおける作戦を終了させるように命じた。オーエン・スタンレー山脈を越えて戦い続けたマルーブラ・フォースのオーストラリア兵らは疲労困憊しており、兵力も通常の三分の一までに落ち込んでいた。にもかかわらず、彼らは増援なしでサナナンダとゴナを攻撃し、陥落させる事を命じられていたが、抵抗を受けずにジャウレ街道をわたる事の出来たアメリカ軍大隊が、サナナンダ街道における第一次攻撃の手助けをした。一方で、海岸線に沿って抵抗を受けずに前進していたアメリカ陸軍第32歩兵師団所属の二個連隊が、ブナを攻撃する事になっていた。

11月16日、連合軍が攻撃を開始する三日前、日本軍は最初の深刻な一撃を与えて来た。大砲と補給物資を輸送していたアメリカ海軍の小型艦艇の一団が日本軍の爆撃機に探知され、五隻全てが大破したのである。その後数日でさらに数隻が撃沈され、または暗礁か砂洲に乗り上げて座礁した。

11月19日、アメリカ陸軍第128連隊がブナ及び近郊のエンダイアデレ岬(Cape Endaiadere)を攻撃した。沼地や密林を抜けて進んできた事で、この『戦闘未経験』の将兵らは自信に溢れていたが、彼らは待ち伏せに遭い、多くの犠牲を出した。オーストラリア軍もまた日本軍の塹壕に遭遇したが、海岸線の暑い平野を横切って歩き続けた将兵らは疲労困憊しており、補給物資も足りなかったせいで、攻撃開始が遅れてしまっていた。ゴナを攻撃中の第25旅団、及び中央サナナンダ街道へと進軍中の第16旅団は翌日、輸送機によって補給物資が空中投下された直後に攻撃を行ったが、多くの者がほとんど成果を挙げぬまま戦死、または負傷した。

ニューギニア・フォースは、これら攻撃部隊に対して小型船舶や航空機を使った物資の補給を計画したが、これらの小型船舶が攻撃を受けて以降、航空機に対する需要は急増した。11月21日までに、二つの飛行場が戦線の背後に開かれ、ポートモレスビーから大量の物資と装備、及び将兵を空輸投入する『航空輸送連絡航路』も一本開かれた。アメリカ軍航空部隊指揮官のジョージ・C・ケニー中将は、前線と後方を往復中の、また地上に駐機中の輸送機を守るため、橋頭堡上空を戦闘機による『傘』で包むよう命じた。日本軍守備隊にとって非常に不利であったことの一つは、補給と増援についてこれらに類似した手段を彼らが持たなかった事である。

橋頭堡の内側では、日本軍将兵がマラリアの流行に悩まされていた。『雨季』のため、湿地帯の水かさは増し、医療物資は底を突き始めていた。残存将兵らは陣地を死守する決意で弾薬を備蓄していたが、彼らも恐ろしい「マハダラ蚊」には対抗できなかった。彼らは食料にも事欠いていた。状況視察に訪れた第十八軍参謀は、彼に食料や薬、タバコなどをねだる病気でやつれた兵士ら数名に会い、愕然としていた。

ラエ及びサラモアに進駐していた日本軍の戦闘機と爆撃機は同区域の哨戒を継続しており、時折連合軍の拠点に対する銃爆撃を実施した。アメリカ軍は、敵機が上空にいる間は味方輸送機を圏外に退避させておける早期警戒システムを有しており、アメリカ軍の戦闘機(ほとんどは双発のロッキードP-38戦闘機)は三菱零式艦上戦闘機A6M(ゼロ)や、中島一式戦闘機「隼」(オスカー)などに対して互角以上の性能を有していた。連合軍はブナ上空における制空権を確保した。

11月25日にもなると、頑強な日本軍の抵抗が明らかに連合軍の攻撃を行き詰らせていた。オーストラリア軍砲兵隊が空路及び海上から投入されたが、将兵たちは疲弊し、場合によっては突進する意志さえ欠いていた。アメリカ軍負傷兵の中には自傷行為を行う者も現れていた。日本兵と同じように、マラリアの流行に苦しむ連合軍将兵にとっても、熱帯性の病気が深刻な問題として浮上してきていた。連合軍の科学者と軍医官はその脅威について警告していたにもかかわらず、将兵らは抗マラリア薬を十分に持たず、長袖や長ズボンを履くなど最善のマラリア対策を採らなかった。また両軍にとって、砲撃によって出来た漏斗孔に水がたまる(理想的な蚊の幼虫の棲み処である)戦場にでは、この病気の抑制を図る事は困難であり、前線の将兵らは敵襲に備えて、蚊帳の下で寝る事も出来なかった。

連合軍は増援を要請できるという点において有利であった。ニューギニア・フォースは消耗した第16及び第25両旅団と交代させるため、ニューギニア作戦初期においてココダ街道での任務に従事したオーストラリア軍第21及び第30旅団を後任として手配していた。後に、第18旅団がブナを攻撃していたアメリカ軍の任務を引き継ぐために、ミルン湾から送られてきた。

犠牲者の増大にもかかわらず、日本軍の将兵はそれぞれの塹壕を頑強に防衛しており、退却に際しても攻撃側に必ず多大な損害を蒙らせていた。連合軍は、複数の地上目標を定め、それに対して的確に爆撃や銃撃を敢行する事がパイロット達にとって困難であった事から、攻撃時の近接航空支援は効果が薄く、砲兵隊もその明確な優位性を保っていないと判断した。12月9日、第21旅団は砲兵の支援の下にゴナを攻略したが、攻撃参加将兵全般の死傷率が大きすぎたせいでそれ以上持ち堪えられなかった。ニューギニア・フォースは、軽戦車を投入する事でこの行き詰まった状態を打開する事を期待した。

戦車を伴った最初の攻撃は効果的であったが、この方法が奇襲の要素を失った途端、日本軍の射手が一度の戦闘に使用される三輌から四輌の戦車を標的にし始めた事で、彼らは多くの死傷者を出し始めた。それにもかかわらず、1943年1月3日までには、ブナ周辺における日本の最後の拠点群が第18旅団の手中に落ちた。この戦闘では僅か五十名の日本兵が生き残っただけで、そのほとんどは投降兵であった。

守るべき最後の防衛拠点はサナナンダであった。日本軍は、この地域で唯一乾いている地面の上に塹壕と機関銃の位置を巧みに定めていたため、この区域を担当したオーストラリア軍とアメリカ軍は湿地帯を前進し、またその中で過ごさなければならなかった。組織が分散し、酷い状態にあった日本軍だったが、それでも彼らは連合軍の全ての攻撃に抵抗し続けた。まともな戦闘訓練を受けていない第30旅団所属のオーストラリア軍将兵は、自らの最初の攻撃において五割以上を失う損害を蒙った。ブナから第18旅団が投入され、ある程度の進展を見せたが、再び戦闘は行き詰まりを見せる事となった。

1943年1月12日、第18軍司令官安達中将は、サナナンダからの撤退を命じた。戦闘終結までに約二千名の日本軍将兵が海路及び徒歩にて脱出した。日本軍の大半が去った事が明らかになった時、連合軍の方でもブナ攻略の期待をほとんど捨てかけていたところであった。1月22日、第18旅団は掃討活動を終え、パプア作戦はその翌日、正式にその幕を閉じた。

ジョン·モーマン記 (丸谷元訳)

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マラリア
玉砕
小田健作
ブナ、ゴナ、サナナンダ(豪軍)



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