Remembering the war in New Guinea - アイタペ・ウェワク

Remembering the war in New Guinea
アイタペ・ウェワク (Overview text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)


 19444月、アメリカ軍がアイタペに上陸し、それによってパプアニューギニア本島における日本軍の最後の基地であるウェワクを迂回した。194411月、オーストラリア軍第6師団がこの基地の攻略に乗り出した。

 日本の第十八軍は四個師団を保有していたが、各師団の兵力は連隊規模にまで落ち込んでいた。第二十師団はアイタペとウェワクの間の海岸線に、また第四十一師団はトリセリ山脈(Torricelli Range)に陣取っていた。他の二個師団はウェワクにあった。そのため、オーストラリア軍は二方向から平行に前進した。

 山中では、密林の中のでこぼこ道沿いを進んだり、ニューギニア人の運搬人を使って補給物資の輸送や犠牲者の搬出を行ったりする事に困難を来たした。沿岸部では、小型艦艇により物資の輸送ができたので、オーストラリア軍の移動はより容易であった。両戦線において、日本軍はしばしば玉砕覚悟の最後の抵抗を行ったので、犠牲者が増加した。攻撃開始前に日本軍の拠点を『弱体化(”Soften Up”)』させるため、オーストラリア軍はしばしばビューフォート爆撃機を使用した。

 ウェワクは19455月に陥落した。十ヶ月に及ぶ作戦で、オーストラリア軍は海岸線と山の中を七十マイル前進したが、その間に四百四十二名が戦死し、千百四十一名が負傷した。日本軍は捕虜となった二百六十九名の他、病気や飢えで死亡した者を含めて九千名を失った。しかしながら、多くの人々はこれを「不要な作戦」だったと考えていた。


Printed on 06/25/2025 03:12:18 PM