Remembering the war in New Guinea
ニューブリテン (Longer text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
1942年1月のニューブリテン侵攻後、日本軍は海軍基地と兵站用基地をラバウルで整備した。日本軍の小部隊もまた、ニューブリテン島とニューアイルランド島の北部及び南部海岸沿いの拠点に上陸した。ラバウルは、これらの島の中に建設された唯一の主要基地であったが、ニューアイルランド島のカビエンでは守備隊が一万人に増強され、ニューブリテン島の南岸にあるガスマタには前進基地が建設された。
1942年初頭から、ラバウルは、ニューギニア本島と後にブーゲンビル島にも拠点を置く事となった連合軍爆撃飛行隊による、長期に及ぶ爆撃作戦の対象となった。日本軍の輸送網も攻撃を受けた。この戦域では、ラバウル基地が最も堅固に守られた攻撃目標であり、一回の空襲で三機から四機の航空機を失うなど、時にその損害は相対的に大きなものとなった。
攻撃目標はしばしば、オーストラリア人の沿岸監視員によって特定されたが、彼らは、日本軍の侵攻の後、敵の後方に残ってその活動を監視する事を志願した、オーストラリア海軍によって委任された民間人たちであった。日本軍は地元の情報網を通じてこの沿岸監視員の存在を知っており、しばしば現地民の協力の下に彼らを追跡してその何名かを捕らえたが、他の沿岸監視員らは、日本軍の動きに関する警報を出したり、彼らの島中での移動を助けたりしたニューギニア人らの助けによって生き延びる事が出来た。
日本軍は自らの沿岸監視哨を、ダンピール岬に近い、南岸沿い西方のアウル(Awul)に持っていた。各監視哨には、連合軍の襲撃に際して空襲警報を出すため、二十五名の将兵が配備されていた。彼らはまた、ラバウル上空で被弾して不時着を余儀なくされた連合軍の航空兵を捕らえるための警備活動をも行っていた。
1943年、オーストラリア人とニューギニア人の将兵から成る連合軍情報局(AIB)斥候隊は、情報収集と島におけるオーストラリアの存在感の回復、及び撃墜された航空兵の救出任務のため、ニューブリテン島に派遣された。現地民らは往々にして、これら斥候隊を支援した廉で報復を受けた。例えば1943年の終わりごろ、日本軍は、AIBの斥候隊が支援を受けていたナカナイ地区(Nakanai area)での支配力を回復しようと努め、そのために村の関係者数人を拷問して処刑し、他の事例では住民は殺害されるか殴打され、または強姦された。オーストラリア軍は友好的な住民をゲリラとして訓練し、1944年2月から3月にかけて、ゲリラたちはわずか二名の戦死を出す間に、二百八十六名もの日本兵を殺害した。ゲリラたちが、日本軍に協力したラバウルの近くの村人に対する報復をしようとした事で、部族間の抗争もまた勃発した。
1944年初頭から中期にかけて、アメリカ第1海兵師団は、ニューブリテン島の西の端にあるグロセスター岬、南西沿岸部のアイタペ、及びラバウルに向かう北部海岸沿いの中間に位置するタラセアに対する上陸作戦を敢行した。それらの新しい基地は事実上、前進基地として作られたアメリカ人の居留地であった。日本軍は海兵隊を撃退しようとはせず、アメリカ兵らは各基地周辺の防衛線を維持するだけで満足していた。
ニューブリテン島におけるAIBの勢力は、いまやオーストラリア人将校五名と下士官十名、それに約百四十名のニューギニア人で構成されていた。彼らの偵察活動は南北両海岸線沿いで強化された。タラセア近郊のナカナイ地区から撤退する際、数百の日本兵らが飢えと病に斃れ、南部海岸ではAIBが三つの監視哨を蹂躙し、日本軍をワイド湾にまで押し戻した。日本軍は、約八百の兵をもって同湾の基地を維持した。北部海岸では、AIB斥候隊がラバウルのあるガゼル半島に潜入したが、日本軍によって押し戻された。オーストラリア軍に協力した地元民約四百名が、AIB斥候隊とともに脱出した。
日本軍占領期間中に、住民らが分かれてどちらか一方の側についた事から、ワイド湾地区で部族間の抗争が発生した。ラバウルに最も近いところにいた部族は、そろって日本側につく傾向が強かった。1944年5月、オーストラリア人に訓練された八十名のゲリラが、日本兵十四名と日本軍についたニューギニア人十四名を殺害し、このようにしてゲリラ戦は以後数ヶ月間続いた。日本軍はワイド湾後背地における警戒を厳にし、連合軍に加担した疑いのある住民を処罰した。報復を恐れるAIBは、住民らに、より離れた地域へ移り住むよう説得した。この活動は同時に、日本軍にとっての潜在的労働力を殺ぐ事にもなった。
1944年10月、アラン・ラムジー陸軍少将に率いられたオーストラリア陸軍第5師団は、アメリカ軍の基地を引き継ぎ、ここからラバウルへの新たな攻勢が開始された。11月には第6旅団(一個大隊少なくなっていた)が南部海岸のジャクイノット湾(Jacquinot Bay)に上陸し、北部海岸を進撃する別働隊と連携して、南部海岸沿いに前進を開始した。これに対する抵抗は比較的軽微であり、何度か海岸線沿いに小規模な上陸作戦を重ねた後、1945年2月までに日本軍はガゼル半島に追い込まれた。
約九万三千の日本兵がガゼル半島内に閉じ込められていた。日本軍の防衛隊は、第十七及び第三十八師団と、歩兵第六十五旅団、それに他師団からの分遣隊によって構成されていた。これに加えて、二万二千の基地部隊と後方連絡部隊、及び二千五百の海軍兵士がこの基地に存在した。湾内に浮かんでいる艦艇は一隻もなく、残存する航空機も三十機に満たなかったが、基地施設や日本兵の生活の場として使われていた洞窟に対する連合軍の空襲は続けられた。
中国系やインド系、イギリス人戦争捕虜は、労務者として働くためにラバウルに移送されていた。五百名のイギリス人捕虜のうちのほとんどが、彼らが命を落とす事となったソロモン諸島に移されていたが、多くの中国系とインド系は取り残された。相当数が空襲によって、または虐待や貧しい食事のせいで死亡した。撃墜されたアメリカ軍とオーストラリア軍の航空兵らは監禁されたままだったが、彼らのほとんどは処刑されるか、または別の理由で死亡し、終戦時に生存していたのはわずか六名に過ぎなかった。その多くが宣教師か修道女であった、百名以上のヨーロッパ系民間人抑留者ら及び、三百名以上の現地居住の中国系はラバウルの郊外で拘禁された。
これより前の作戦では、オーストラリア軍は迅速な近接航空支援に恵まれていたが、ニューブリテン島ではそうはいかなかった。1944年12月、ミッチェル爆撃機の一個航空団(二個オランダ軍飛行隊を含む)はジャクイノット湾に対して展開するよう命じられたが、オランダ軍が同航空団をオランダ領東インド戦線に差し向けるよう要求してきたため、同航空団はジャクノイット湾から再び配置換えされることとなった。これにより、オーストラリア軍には、ホスキンス岬に展開するブーメラン戦術偵察機や数機のアウスター軽連絡機、及びニューギニア本島に展開するビューフォート機による時折の爆撃以外、専属の航空支援がなくなった。
今村均陸軍大将は、指揮下にある日本守備隊が大勢力であり、オーストラリア軍の師団はこれを打ち破れないという事を知っていたので、ガゼラ半島に設けられたラバウル境界線を守ることに自信を持っていた。両軍とも、全般的にあまり動きのなかったこの作戦中、密林地帯の偵察活動を行ったが、戦闘における犠牲者は比較的少なかった。事実、日本の陸海軍将兵らの大部分は食糧生産に従事しており、ラバウルとその周辺には大規模な農園が設けられた。結局日本守備隊は、ラバウルにおいて九万七千名以上、またニューアイルランド島付近でさらに一万二千名が降伏した終戦の日まで持ちこたえたのである。