Remembering the war in New Guinea
Japanese occupation of New Guinea: Japanese (General page)
Module name: Campaign history (Japanese perspective)
This page was contributed by Dr Arakawa Ken'ichi (National Institute of Defense Studies)
日本陸軍へのニューギニア作戦
荒川さんの提出
Japanese occupation of Papua and New Guinea, 1942
1942年、日本軍は海軍主導の下、陸軍がこれに協力する形でパプア・ニューギニア占領作戦を行った。作戦は1月のラバウル占領から始まり、もっとも日本軍がこの地域の占領地域を拡大したのが9月中旬ポートモレスビー攻略戦でスタンレー山系の頂上を越えて南側斜面のイオリバイワを占領した時である。ソロモン方面は、7月にガダルカナル島に飛行場を建設するための設営隊が上陸し、8月5日800mの滑走路を建設した。ニューギニア正面のブナに日本軍のポートモレスビー攻略隊の主力が上陸を計画した8月7日、日本側が予想だにしなかった米海兵隊によるツラギ・ガダルカナル上陸作戦が行われた。日本軍のポートモレスビー陸路攻略作戦と米軍によるガダルカナル反攻作戦が同時に展開されたことになる。日本側は連合軍の本格的反攻は1943年半ば以降と見積もっており、最初、この米軍のガダルカナル攻撃を重視せず、一木支隊(軽武装の増強1個歩兵大隊基幹約1000名弱)で十分奪還可能と判断した。しかし、この一木支隊は損害なく上陸したものの、攻撃は失敗に終わり、支隊は全滅した。
このガダルカナルの攻防戦は、ポ-トモレスビー攻略作戦に大きな影響を与えた。ポートモレスビー攻略部隊である南海支隊(増強1個歩兵連隊基幹約5000名)主力は8月17~18日ブナに上陸、スタンレー山系の峻険を、豪州軍の抵抗を排除し、1ヶ月余りで前述のイオリバイワまで進出、パプア湾やポートモレスビーの灯を確認できた。その時、ガダルカナル攻防戦では一木支隊に引き続く川口支隊(増強1個歩兵連隊約4000名)の奪回作戦が失敗に終わり、両正面を指揮する第17軍司令官は、ポートモレスビー攻略部隊に、進撃を停止し守勢に転ずることを命じたのである。川口支隊の作戦失敗の原因は、支隊のガダルカナルまでの輸送にあった。
輸送間、米航空機の空襲により、十分な戦力をガダルカナルに上陸させることができなかったのである。爾後、年末までパプア・ニューギニア正面の戦いの焦点はガダルカナル攻防戦であり、ポートモレスビー攻略作戦は、攻勢を中止、守勢作戦でブナまで後退することになった。1942年12月、ニューギニア正面ブナ守備隊は玉砕し、ガダルカナル正面では作戦中止、撤退が決定した。翌1943年1月、ガダルカナル撤退作戦が行われ、2月初め日本軍ブナ支隊はラエ、サラモアに後退した。こうして1942年の日本軍によるパプア・ニューギニア占領作戦は終わった
。これ以後日本軍はこの地域で攻勢に転ずることはなかった。
073669 1941年2月、ドイツ、ベルリン。ウオルター・フォン・ブローキト独陸軍元帥に日本刀の銘を翻訳する山下将軍。山下はドイツの戦略を研究するために派遣された日本陸海軍の使節団の一員であった。8ヶ月後の1941年12月8日、山下は日本陸軍を率い、マラヤに進攻し、1942年2月15日のシンガポール陥落まで戦闘は継続した。
005456 1941年2月、ニューサウスウエールズ州シドニー。シドニーの船着き場に到着する第2豪帝国軍所属2の18中隊兵士達。2の18中隊は第8師団第22旅団の一部で、万一の敵の攻撃に備えて英植民地の防衛を補強するようマラヤへの移動を命ぜられていた。2の18中隊は2月4日「クイーン・メリー号」に搭乗し、シドニーからシンガポールに向かった。中隊は1941年1月に南マラヤで日本軍と戦闘し、2月にシンガポールの防衛戦に従事することになる。
007748 1942年9月、シンガポール島英海軍基地。基地内の浮きドックで修理中の英戦艦。シンガポールの海軍基地は極東に置ける英国海軍力の象徴であった。1941年当時のオーストラリア人にとっては、同基地は、オーストラリアに接する北方海域が万一アジアの軍船に脅かされた場合、豪王立海軍が防衛に使う楯としての存在意義があった。