Remembering the war in New Guinea
ニューギニア北部沿岸1942年 (Longer text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
ニューギニア北部沿岸地域には、戦争が勃発した時点において、繁栄したヨーロッパ系の経済圏が存在した。ラエ、サラモア及びワウ地区は、ワウ-ブロロ峡谷における金鉱の発見によって繁栄を築いていた。多くのオーストラリア人及びニューギニア人らが同地区内やその周辺で働き、中国系の商人らが郊外で店を開いていた。
その沿岸の先にはマダンというプランテーションの町があったが、その地域経済は1930年代のココア価格崩壊によって弱体化していた。幾つかの伝道所も存在していた。ほとんどの宣教師らはローマ・カトリック派か、ドイツやオランダからやって来たルター派に属しており(1914年以前からニューギニアに滞在している者もいた)、彼らは断固として親ドイツ派、つまりは反オーストラリア派であった。オーストラリア居留民らは、それらの宣教師たちの影響を受けた現地ニューギニアのいくつかの村の中から、オーストラリアを裏切る者が出て来るのではないかという事を恐れていた。
1921年、国際連盟の委任統治下にあったかつてのドイツ植民地の支配を正式に引き受けた時、オーストラリアは同地の防衛活動をその領域内に制限する事に同意していた。しかしながら、1930年代になって、同領域内に居住していた元軍人らが、現地における民兵部隊の創設を主張し始めた。1939年9月4日、ドイツとの戦争が勃発した翌日、メルボルンの軍司令部は同地における一個志願兵部隊の招集を認めた。
ニューギニア・ボランティア・ライフルズ(NGVR)の兵力は、二十一名の将校とその他の階級四百五十名、及び二名の軍医将校と三十二名の衛生兵で構成されており、全員ヨーロッパ系人種によるものとされていた。しかしながら、海外における兵役を志願する者たちが現れたせいで、部隊の兵力は三百五十名前後で推移した。彼らの中には、年齢のせいで現役服務は難しくなりつつあった、第一次世界大戦からの古参兵が含まれていた。小隊は北部沿岸からニューブリテンにまで分散しており、その結果訓練は限られたものとなり、近代兵器もほとんど支給されていなかった。
1941年、ポートモレスビーの第8軍管区司令部がパプアとニューギニアにある全部隊の統括を引き受ける事となった。同軍管区司令官であったバシル・モリス(Basil Morris)陸軍准将は、北部沿岸地域の防衛に関してほとんど期待を抱いていなかった。それは、この地域が地理的に孤立しており、密林に覆われた山岳地帯を越えて陸路ポートモレスビーから部隊を移動させる道が存在しない以上、前線部隊への支援を行うのは事実上不可能であるという理由からだった。彼には輸送船を護衛する海軍部隊も、輸送機を護衛するための戦闘機隊もなかったのである。
NGVRは1941年12月8日、日本が開戦に踏み切ったその日に召集された。一週間後、ヨーロッパ系の婦女子に退去命令が出た。そのほとんどが空路ポートモレスビーに送られ、そこから海路オーストラリアに向かった。女性宣教師及び看護婦のみが引き続きの滞在を認められた。
1942年1月21日、ラバウルとカビエンに集中していた日本海軍第四艦隊所属の戦爆連合が、ラエ、サラモア及びブロロを襲撃した。攻撃隊の搭乗員らは何ら損害を受けることなく、町と航空基地に対して爆撃と機銃掃射を実施した。この攻撃で、少なくとも二十一機の民間機と一機のハドソン爆撃機が破壊され、一名の民間人パイロットが死亡した。商業ビルや格納庫、工場や家屋が破壊され、もしくは被害を受けた。地元では中国人街として知られていた、ラエ郊外にあるケラ(Kela)村もまた機銃掃射を受けた。
その結果、その地域にいたほとんどのニューギニア人は「行方をくらました」。オーストラリアの統治が終わりを告げたという噂が広がり(残っていた権威ある地区事務官らを含む政府高官の慌しい避難によって、この噂は一層強められた)、村人たちはヨーロッパ人の商店で略奪を行った。また多くの者が、NGVRの給与支払い能力に疑いを抱いていたので、労働や補給物資の輸送に従事しようとする人手が不足した。当局は、元地区事務官らも参加して新たに設立されたオーストラリア・ニューギニア行政府(ANGAU)によって権威を回復するのに数日を要した。
ヨーロッパ系民間人と多くの中国人が避難した。ほとんどの者がポートモレスビーへの航空輸送を望み、そのためにワウへ長く苦しい旅をしたが、そこには(彼らの希望を満たす)十分な数の航空機が存在しなかった。追い立てられたヨーロッパ系や中国系民間人、及びニューギニア人らを留め置くため、難民収容所が開設された。後者のうちの多くの者は、日本軍の爆撃の結果として職を失った、他の地区出身の労務者たちであった。ヨーロッパ系及び中国系の者の中には、パプア南岸に出るためにオーエン・スタンレー山脈を越える決意をした者もいた。彼らの辿った、ほとんど使われていなかったその「ブルドック街道(Bulldog Track)」は、可能性のある補給路として陸軍をして注目させたのである。
ラエ、サラモア及びマダンにあった複数の小隊は、予想される日本軍の進撃を待ち構えていた。ANGAUの職員、及びサラモアに通信局を配備していた六名の空軍兵士らと共に、これらの小隊は日本軍の上陸を監視・報告し、彼らの建物や軍需物資を破壊すると共に、ゲリラとしての軍事作戦を行うために撤退した。部隊は脱出のための道筋を決め、緊急時のための物資集積所を備えた。
井上成美海軍中将指揮下の侵攻艦隊は3月5日にラバウルを出航した。3月8日の夜半過ぎ、ラバウルで戦闘を実施した歩兵第百四十四連隊第二大隊がサラモアに上陸を敢行、舞鶴の海軍特別陸戦隊もラエに上陸した。これらの部隊は一切の反撃にも遭遇する事はなかった。
約千五百名の海軍設営隊が、ポートモレスビー空襲に参加する戦闘機及び爆撃機の基地と飛行場建設のために上陸した。陸軍部隊は3月15日には撤退し、代わって海軍司令部がこの地域の責任を担う事となった。3月18日、四名のニューギニア人によって先導された六十名の海軍陸戦隊がコミアタム(Komiatum)まで進出し、NGVRの軍需品集積所を破壊して基地に帰還した事が、サラモアの外側における最初の大規模な掃討活動となった。
多くのニューギニア人にとって日本軍は、(ドイツ人、そしてオーストラリア人の後に続く)単なるまた別の外国人占領者に過ぎなかった。日本軍に対して行政権を行使する機会を与えるという意思を固めた村もあったが、同時に自分たちの土地に住みたいと願う以上、彼らにはそれ以外には選択肢もなかったという側面もあった。殺人や強姦事件が報告される事もあったが、一般的に状態は悪くはなかった。日本軍は労務者や荷物運搬人を雇い、しばしば彼らをして、ルター派宣教師らによって教育された(そして影響された)ニューギニア人らの監視に当たらせた。
ゲリラ兵らは、沿岸部を見渡せる監視所を山中に建設した。その部隊のほとんどはオーストラリア兵であったが、現地の中国系民間人も何人かが在籍していた。日本軍が斥候隊を派遣した時などは危険になり得たが、これら監視所の生活は、敵の活動の兆候を見守っている時は単調なものであった。ニューギニア人らは前哨基地に物資を運ぶと同時に、日本軍の守備陣地や軍需品集積所、及び高角砲陣地の位置を特定する偵察員やスパイとして活動するために雇われた。これらの情報は、空襲計画の立案に利用された。
最初の大規模な空襲は1942年3月10日に実施された。パプア湾に在ったアメリカ海軍航空母艦から発艦した百四機の艦載機は山々を飛び越え、サラモアとラエ周辺の目標に対する爆撃を行ったのである。三隻の艦船が撃沈され、四隻が損害を受けると共に、兵員百三十名が戦死、他の二百四十五名も負傷した。以後、連合軍機は定期的にこれらの基地を爆撃するようになった。これらの航空機はしばしば撃墜され、捕らえられた航空兵は処刑された。何人かはニューギニア人の裏切りのせいで捕らわれたが、他の者達は、ゲリラの前哨基地に到達するまで、厳しい密林を抜けて(しばしば負傷した)航空兵を導くためにただならない危険を冒した友好的な村人によって救出された。
5月23日、ゲリラ戦訓練を受けた第2/5独立中隊がポートモレスビーからワウに空輸された。この増強された部隊は、カンガ・フォースという名で知られていた。同部隊には四百五十名の実戦向きの兵士を含む、約七百名が在籍していた。この新しい部隊は民兵達とともに作戦活動を行うために前進した。日本軍は約二千の将兵がラエに展開しており、そのほとんどは、基地設営隊や幕僚、そして航空機搭乗員や航空隊の地上作業員たちであった。サラモアには約二百五十名が駐留していた。
オーストラリア軍は引き続き日本軍を監視し、悩ませ続けた。6月29日、彼らはサラモアと隣接するケラ地区の信号局を急襲し、この周到に計画された襲撃において何十もの犠牲者を敵に与えた。しかしながら、この時から舞鶴特別陸戦隊は警戒を厳にし、山中への補給路を確保するためにニューギニア人を雇うようになった。数度の衝突の後、ゲリラ部隊は後退した。彼らは補給の欠如に悩まされ、多くの者が何ヶ月にも及ぶ斥候活動のせいで今や罹病するか疲労困憊していた。また、多くの者がオーストラリア側の勝利を疑い始めるにつれて、ニューギニア人を荷物運搬人として雇う事もより困難になっていた。
ゲリラ戦は何ヶ月間か継続されたが、日本軍はゲリラ部隊をそのほとんどの監視所から駆逐した。8月30日、オーストラリア軍は日本軍が大挙してまさに攻撃を実施しつつあると考え、ワウにある日本軍の基地を壊滅させたが、陸戦隊の方では単にムボ近郊に前哨線を構築していただけであった。最初の主要な攻撃は、それまで中国戦線での作戦に従事していた第五十一師団の最初の部隊がラエに上陸した、1943年1月に行われた。岡部通陸軍少将率いる歩兵第百二連隊はワウに向けて前進を開始した。