ラバウル (Overview text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
ニューギニア作戦は1942年1月、ニューブリテンとニューアイルランドを巡る戦闘によって開始された。1月22日から23日にかけて日本軍が侵攻した時、小規模であったオーストラリア軍守備隊はわずか数時間のうちに撃破された。 オーストラリア当局は、ヨーロッパ系の婦女子を脱出させたが、何百人ものヨーロッパ系男性や看護婦、宣教師らの他、当地に在住していた約千人の中国人及びインド人が日本軍によって捕らわれ、拘留された。本島からやって来た約八千人ものニューギニア人やブーゲンビル島の住民もまた捕らわれ、ニューブリテンからニューアイルランド全域の村人たちとともに、日本占領下で暮らし、働かなければならなかった。 オーストラリア兵たちも脱出を試みた。約百二十名の空軍兵士が飛行艇によって救出され、最終的には約四百名の兵士と六十名の民間人が無事小型艦艇に辿り着いた。約千名の兵士らとヨーロッパ系民間人の男性二百四十名ほどが捕虜となった。日本軍は少なくとも百五十名をトル・プランテーション(Tol Plantation)で虐殺した。他のほとんどの者も1942年7月、モンテビデオ丸にて日本に移送される途中に雷撃を受けて死亡した。 日本軍はラバウルにおいて、ニューギニア方面の主要基地の建設に着手した。十万人以上の陸海軍兵士がそこに駐屯する予定であった。連合軍は1942年3月に開始された空爆作戦によってこれに対抗した。 |
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