ミルン湾・ラビ (Overview text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
ミルン湾の戦いは、日本側では、日本軍が上陸した村の名前を取り、ラビの戦いという名で呼ばれている。 連合軍は1942年6月、ミルン湾における基地開発を開始した。これらの臨時滑走路は、ポートモレスビーへの進入路を警戒し、ラバウルを爆撃する航空機による使用を意図されていた。8月中旬までに、そのほとんどがオーストラリア人で構成された六千名強の部隊がこの基地に置かれる事となった。加えて、何百もの現地の村人が建設作業のために雇われた。 8月25日の夜から26日未明にかけて、日本艦隊が千二百名近くの海軍陸戦隊をミルン湾に揚陸した。これらに対する防衛を最初に担当したオーストラリア軍二個大隊は押し戻された。オーストラリア軍はまた、日本軍とその補給線に対して、キティホーク戦闘機による爆撃と機銃掃射を行った。 オーストラリア軍の二個大隊とアメリカ軍工兵は、第三臨時滑走路において抵抗していた。砲兵の支援の下、彼らは8月30日と31日の二日間で、日本軍の反復攻撃を撃退した。甚大な損害を蒙った日本軍は撤退を余儀なくされ、そこに新たに戦列に加わったオーストラリア軍二個大隊が反撃のために襲いかかった。9月5日、上陸部隊の約半数を喪失した日本軍の残りは船舶によって戦線から撤退した。 連合軍の次なる過酷な戦いの敵は、マラリアであった。守備隊のほとんど全員が、蚊を媒介とするこの病気に感染した。同地における戦闘の数週間後、マラリアは全階級に一気に蔓延した。 |
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