ミルン湾・ラビ (Longer text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
ミルン湾の戦いは、日本側では同時に、日本軍が上陸した付近に最も近い村の名前を取って、ラビの戦いという名で呼ばれている。 パプアの東の端に連合軍の基地を設けるという事は、珊瑚海海戦の直後に決定されていた。マッカーサー将軍は、航空機がポートモレスビーへの進入路を警戒できると同時に、オーエン・スタンレー山脈を飛び越えずにラバウルを襲撃できるという理由から、この地における基地建設を決定したのである。 1942年6月、オーストラリア側の斥候隊は、水深の深い入り江、平地の広がり、真水、珊瑚や砂利に木材などの建設資材、そして労務者として雇用可能な現地民などの存在から、ミルン湾が基地建設に必要なあらゆる重要な特色を有している事を報告した。 ミルン湾はとにかくひどい場所であった。この地は海と空からしか到達する手段を持たず、実質的に他のパプア地域から孤立していた。密林に覆われた山々が三方向の側面を圧迫し、湿地が沿岸地帯の縁に広がっていた。基地建設中の数ヶ月間、季節性の激しい雨が降り、苛酷な多湿環境となった。同地はまた、マラリアが最も多く検出された地であり、これは同地における村人の九割が罹患しているという事から、高度地方流行病と分類されていた。 戦前、オーストラリア人造園主がココナッツ農園を開設したが、これらの土地は1942年初頭には放棄されてしまっていた。数軒の家と小屋、桟橋、それに道路や小道はみすぼらしい状態であった。農園管理者らは、パプア人従業員に排水溝を掘らせるなどしてマラリア対策を実施したが、配水管は破損状態となってしまった。 オーストラリア・ニューギニア行政府(ANGAU)の係官は、飛行場建設予定地に生えるクナイ草を刈らせ、桟橋を建設させるために同地の村人を雇い入れた。6月下旬、アメリカ軍の一個工兵中隊が、オーストラリア民兵大隊及び高射砲兵中隊とともに同地に到着した。オーストラリア軍とパプア人が道路や橋梁、開けた野営地を建設・維持し、埠頭を建設している一方で、このアメリカ軍工兵らはパプア人男女の補助を得て飛行場を建設した。労働力、設備及び建設工具の不足に直面した連合軍は、いくつかのパプア式建設手法を取り入れた。例えば、桟橋の杭打ちを人海戦術で補い、ぬかるんだ道の上に丸太道を作るように縦通材を敷設した。 7月から8月にかけて、オーストラリア軍C.A.クローズ少将の指揮下にあった六千名を超える将兵がミルン・フォースに編入した。クローズ少将は、工兵とともに第7歩兵旅団及び北アフリカ戦線参戦組である第18歩兵旅団を指揮し、そのほとんどが道路建設や船荷の積み下ろし作業をして働いた。また、オーストラリア空軍の二個飛行戦隊、カーチスP-40キティホーク戦闘機を有する第75及び第76飛行戦隊も同地に進出してきた。 日本軍は、侵攻作戦の計画を立て始めた時点では、同地における基地について何も知らなかった。彼らが企図していたのは、陸軍分遣隊を上陸させ、ポートモレスビーに向かう第二次侵攻作戦を開始する事であった。日本軍がミルン湾における連合軍の基地建設活動を知った時、今度はそれを攻撃する事が必要となった。日本軍の諜報機関は、ミルン湾の連合軍基地が二十から三十の航空機の他、二個乃至三個歩兵中隊によって防衛されていると分析した。しかしながら、この作戦を担当する事となった陸軍分遣隊は当時まだフィリピンに展開しており、この事を受けた第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将は、ミルン湾に対して海軍部隊を上陸させる事を決定した。 第八艦隊は1942年8月24日、海軍第五特別陸戦隊及び第十六海軍設営隊の千百七十一名を乗せてラバウルを出航した。別の三百五十三名の将兵で構成される第二陣は、第二波の上陸を敢行するためにブナを出航したが、彼らがグッドイナフ島の浜に乗り上げた時、キティホーク戦闘機が上陸用舟艇を破壊し、兵らを立ち往生させた。 8月25日から26日になる夜半を過ぎてすぐ、第八艦隊の主力はミルン湾に侵入し、オーストラリア軍守備隊の左側面にあたる、ラビにほど近いK.B.ミッション(K. B. Mission)に兵を上陸させた。上陸した日本軍は、同区域を防衛していたオーストラリア軍民兵大隊を押し返した。 これは、ニューギニアにおける戦いで、連合軍が直接の圧倒的な航空支援を受ける事のできた最初の戦闘となった。密林に覆われている敵の目視に困難を伴ったにもかかわらず、夜明けになるとキティホーク戦闘機の操縦士らは日本軍部隊とその補給線に対する爆撃と掃射を行った。日本軍は、オーストラリア軍に大損害を与えた三輌の軽戦車が沼にはまって身動き出来なくなって以降、より深刻な痛手を負う事となった。 航空攻撃下にあるにもかかわらず、日本軍はオーストラリア軍第61大隊と、歴戦の第2/10大隊を押し戻していた。マッカーサーの総司令部では混乱が生じていたが、クローズ少将には、到着したばかりの四個大隊があった。クローズは、二個民兵大隊をアメリカ軍工兵部隊とともに日本軍に抗戦させるため、第三臨時滑走路に配置した。対戦車砲、高射砲及び野戦砲兵中隊の支援により、また射界を確保できる開けた土地に機関銃と迫撃砲を配置したせいで、この防衛線は日本軍にとって手強いものとなった。8月30日から31日にかけて、日本軍は再三に及ぶ攻撃を敢行したが、逆に大損害を蒙り、退却する事となった。 オーストラリア軍は、新たに到着したばかりの第2/9及び第2/12大隊をもって反撃を開始した。幾人かの、明らかに降伏後に拷問されて殺害されたと見られるオーストラリア兵の遺体の発見は、彼らの怒りに油を注ぐ事となった。その結果、日本兵は一人たりとも捕虜になる事はなかった。 オーストラリア軍の反撃が進めば進むほど、彼らに対する増援や弾薬、補給物資の供給が難しくなっていった。道路は粗末な状態にあり、従ってトラックは前方地域に到達する事ができなかった。村人自体も数が少ないせいで運搬人にも事欠いており、海岸に沿って兵と物資を移動させるための小型船舶もわずかしかなかった。 日本軍は、その上陸部隊の約半数が海路脱出した。9月5日の時点で同地に残っているのは落伍兵だけであり、彼らは以後数週間にわたってオーストラリア軍警備隊によって掃討された。この戦闘で、日本側は約六百名を失った。オーストラリア側は百二十三名が戦死、百九十八名が負傷、アメリカ兵も一名が戦死、二名が負傷した。 この基地を確保すると、連合軍はその開発を強化した。より多くの機械設備が到着するにつれて、工兵は常に他の部隊や地元民の協力を得ながら、港湾や道路、貯蔵施設や兵営の改善を行った。こうしてミルン湾は、既に予定されていた連合軍のブナ攻撃の際に、小型船舶を使用して軍需品を輸送するための主要基地となったのである。 しかしながら、彼らにはまだ、全く別の敵との戦いが残されていたのであった。ミルン・フォースが創設された時、連合軍はまだマラリアによってもたらされる脅威についての確かな知識を有していなかった。到着した兵たちは短パン姿で蚊帳を持たず、夜間には長袖のシャツを着るようにとの命令にも抵抗した。当初はキニーネもなく、野営地付近の水たまりは排水処理されることもなく、蚊を駆除するための石油の注入も行われていなかった。『マラリアへの意識』が強く主張されるようになった頃には、その被害は既に広まっており、部隊のほとんど全員が感染していた。潜伏期間があったので、日本軍の攻撃が行われる前とその間に発作に苦しんだ者は少数にとどまったが、やがてその流行が始まった。 常に数百名がマラリアの発作に苦しんでおり、病院のベッド数はそれらを治療するには足りず、多くの者がオーストラリアに引き揚げて行った。マラリアの流行は10月から11月にピークを迎えたが、それでも翌年の初めに至るまではそれを抑える事は出来なかった。このようにして、自然は日本軍と同じくらいに手強い敵である事が証明されたのである。 |
ミルン湾・ラビ: ![]() ![]()
|