ラバウル (Longer text)
Module name: Campaign history (All groups perspective)
This page was contributed by Dr John Moreman (translated by Hajime Marutani)
ニューギニア作戦は、ニューブリテンとニューアイルランドを巡る戦闘によって幕を開けた。太平洋における最初の一ヶ月間の戦いでは、日本軍の航空機がそれらの島々を偵察し、それに対してオーストラリア軍のハドソン爆撃機とカタリナ飛行艇が、キャロライン諸島の日本海軍の基地に対する偵察と爆撃のために出撃した。最初の損害は1942年1月4日、ラバウルへの空襲において三名のニューギニア人労務者が死亡した事で発生した。1月22日から23日にかけて、日本軍はラバウルとカビエンに侵攻した。 ラバウルは、ニューギニア委任統治領における行政の中心地であった。当地にあった戦前の住民は、約千名のヨーロッパ系と千名のアジア系(主に中国系)のみならず、わずかな日本人と約三千名のニューギニア人で構成されていた。集落とプランテーションはニューブリテンからニューアイルランドにわたって広がっていた。 1941年3月、「ラーク・フォース」がオーストラリアにおいて召集され、戦略的に重要なラバウルの港湾を守るため、同地に配備された。この部隊は、沿岸防衛、対戦車及び高射砲兵中隊(旧式火器を装備していた)を加えた第2/22歩兵大隊の他、補給・通信・衛生分遣隊、及びニューギニア・ボランティア・ライフルズ(NGVR)に所属していた八十名の民兵を含んでいた。加えて、ニューアイルランドに隣接するカビエンには、第一独立中隊(百三十名)が駐留していた。これらの部隊は、敵の侵攻に対して抵抗するには小さすぎると考えられていたが、『出来るだけ長い間、前方対空監視線を維持し、敵からの最初の脅威を受けた際、抗戦を放棄するよりはむしろ、この線において敵に戦わせるため』、同じ場所に配備されたままであった。 1941年12月7日(8日)、太平洋において戦争が勃発してからは、ラバウルにいた全ての日本人は拘束され、オーストラリアに輸送された。12月の終わり、当局はヨーロッパ系婦女子の脱出を通達した。中国系の男性は、この脱出計画からアジアの婦女子が除外されている事を苦々しく思っていたが、それでも一握りの者が志願して補助民兵として服した。 オーストラリア空軍は、十機のウィラウェイ『戦闘機』(軽武装練習機とほとんど変わらない)と四機のハドソン爆撃機を配備した。ハドソン爆撃機は、海からの侵入路を哨戒し、キャロライン諸島の日本軍占領区圏外にあたる地域を爆撃した。1942年1月4日に行われた最初の航空攻撃では、ラバウル基地が空襲され、十六名のニューギニア人が死亡した。その五日後、単機のハドソン爆撃機がトラック島のトールにある日本海軍の基地上空を飛行、同機の乗員が、日本軍の進撃が予定されている事を示す十三隻の軍艦と三隻の商船、及び一隻の病院船を発見した。 米軍からグアムを奪取していた堀井富太郎陸軍少将率いる南海支隊を運ぶ日本の主力艦隊は、1月14日に出港した。そしてそれは、カビエン攻略を命じられ、トラックから出撃した海軍機動部隊と連携していた。井上成美海軍中将指揮下にあったこの連合艦隊は、少なくとも巡洋艦七隻、航空母艦二隻、駆逐艦十四隻、及び、小型砲艦、掃海艇部隊、潜水艦群などで形成されていた。 1月21日、百九機に及ぶ日本軍機がラバウルを空襲した。『勇敢だが明らかに絶望的な戦い』の中で、ウィラウェイ戦闘機はそれらに抵抗したが、一機が墜落、三機が撃墜され、二機が不時着し、他の一機も損害を受けた。日本軍は爆撃機が一機、対空砲火によって撃墜された。一機のオーストラリア軍飛行艇がこの日本艦隊を探知し、その乗員たちは撃墜される前に警報を打電していた。 1月22日、カビエンは何の抵抗もなく陥落し、その夜、日本の主力艦隊はラバウルのシンプソン湾に入港した。沿岸砲兵は日本軍の空襲によって沈黙させられていた。午前2時45分、歩兵第四十四連隊が上陸を開始、同第3大隊はバルカン・ビーチにあったオーストラリア側の一個歩兵中隊と民兵達による頑強な抵抗に遭遇したが、他の大隊は抵抗を受ける事なく上陸し、直ちに前進した。夜明け直後、オーストラリア軍指揮官であるJ.J.スカンラン中佐は配下の将兵に、『自力で』脱出するように命じた。従って、掃討戦を除けば、日本軍はラバウルを一晩で占拠したわけである。そしてその港と航空基地は二日以内に作戦行動において使用可能な状態となった。 オーストラリア兵や現地警察、及び民間人らは南に後退していたが、日本軍はラバウルとその周辺で五百名以上のヨーロッパ系民間人と六名の従軍看護婦、及び複数の負傷兵(この内何名かは処刑された)を捕虜とした。これらの捕虜の中には、抑留される事となった三百五十名の宣教師や牧師、修道女らが含まれていた。 その中でもとりわけ中国系の捕虜たちは、日本軍が他の国々において中国人達を虐殺したという事もあって、恐怖に怯えていた。何名かはラバウル陥落直後に処刑されたが、大規模な虐殺は起こらなかった。その代わり、彼らはラバウルの外にある指定区域において居住する事を命じられた。男達は労務者として、その島に送られて来た中国人戦争捕虜らと共に働く事を強要された。数え切れない程の女性や少女たちは強姦され、最悪の場合、長期にわたって『慰安婦』として奉仕する事を強いられた。もし日本人、朝鮮人及び中国人の『慰安婦』を日本軍が送り込み始めていなければ、状況はこれよりさらにひどいものになっていたかも知れない。 多くの村人達は断固として親オーストラリア派であったが、新しい体制下において生き延びる事を確実なものにするため、もしくは(時に)ライバルの部族に対する『仕返し』のため、いくつかの村は親日派に寝返った。日本軍の幸運であったのは、オーストラリア側の行政手法について助言できる、戦前に同地に居住していた日本人が少なくとも一名、攻撃部隊と共に到着したという事であった。日本軍はルルライ(Lululais)とトゥルトゥル(Tul Tuls)(村長達)に委譲するというシステムを採用したが、服従を拒んだ何名かの者たちは過酷に罰せられ、時に殺害された。 ラバウル周辺で雇われていた、約八千名のニューギニア本島出身者たち、及び若干のブーゲンビル島出身者は、そのまま島に閉じ込められていた。現地ラバウルの住民たちが彼らの滞在を歓迎しなかったせいで、それらほとんどの者は、最終的には自活して生き延びるか、もしくは日本のために働いた。これは一面では民族的背景のせいでもあり、また同時に島全体の干ばつのせいで、現地住民らが外部から来た人間たちの食料の面倒まで見きれなかった事にも起因していた。日本軍は、後に彼らを荷物運搬人や労務者として働かせるために本島に輸送する一方で、そのうちの何名かを現地ラバウルの警察官に任命した。 ラバウルの外では、オーストラリア兵やオーストラリアに任命された現地警察官らのほとんどが、日本軍から逃れるためにグループごとに分かれていた。スカンラン中佐は、ゲリラ戦の展開も可能かと考えたが、しかしながらその準備は出来ていなかった。兵はゲリラ戦や密林における戦術訓練を受けていなかったばかりか、緊急補充物資の軍需品集積場も設置されておらず、また自活にすら苦しんでいる現地住民に、指揮下のゲリラ部隊に対する食料支援を期待する事も出来なかったのである。ほとんどの者が島からの脱出を望んでいたが、脱出路は一切割り出されておらず、集合地点も特定されないままであった。唯一空軍のみが人員脱出の計画を立案し、予定された脱出地点で百二十名を拾い上げるために飛行艇を差し向けた。 ある者は密林に覆われた地形を急速に移動しようとしたせいで激しく疲労し、数人が行方不明となった。多くの者が熱帯病で倒れ、ある者はただ落伍していった。日本軍警備隊や航空機から撒かれた伝単には、「諸君らはこの島において、食料はおろか脱出路すら見つけられないであろう。降伏しない限り、諸君らを待つのは死のみである」と書かれていた。二週間の内に、三分の二のオーストラリア兵が降伏するか、もしくは捕らえられた(ニューギニア人の裏切りによるものもあった)。それらのほとんどの者はラバウルに送られたが、日本軍はトル・プランテーションにおいて百五十名を、また、幾つかの小さなグループを他の場所で虐殺した。 残りの約五百名は引き続き、島の北岸及び南岸沿いに移動した。2月9日、日本軍の一部隊がガスマタに上陸、彼らの退路を効率的に遮断した。オーストラリア人の何名かは病気で死亡し、他の者たちは希望を失っていた。公式の救出計画は存在しなかったが、若干の現地民間人と、オーストラリア・ニューギニア行政府の役人が独自の救出作戦を準備していた。3月から5月の間、何週間にもわたる逃避行で疲れ果てた約四百名の兵士と六十の民間人が、艦艇に乗り込んで脱出した。 「ラーク・フォース」隊員である、約九百名の兵士と六名の従軍看護婦及び第一独立中隊は、シンプソン湾で船を撃沈されたノルウェー人や、メソジスト派及び七日再臨派の宣教師らを含む、二百名以上の民間人と共に監禁された。1942年6月に八百四十九名の兵士と二百八名の民間人が日本に向けて船出するまでの間、それら捕虜たちは過酷に扱われ、労務者として酷使された。七月一日、彼らの乗ったモンテビデオ丸はアメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、その全員が死亡した。六十名の将校と六名の看護婦、十七名の民間人看護婦と女性宣教師らは別の船に乗せられ、日本に辿り着く事が出来た。四名のオーストラリアの民間人男性は、機械操作のためにラバウルに残された。 中立国(スウェーデンのような)の出身であるローマ・カトリック教会の宣教師と他数名の民間人らは、ラバウルの外にあるバヌアポープ(Vanuapope)に抑留された。彼らは農園を開き、比較的良い暮らしをしていたが、1944年、彼らの施設は連合軍の航空機による誤爆を受けた。その空襲によって何名かの抑留者が死亡し、他の者は病気で死亡した。百五十八名の生存者たちは、終戦時において彼らが解放される事となったラメール(Ramale) に移動した。 日本軍はラバウルを、ニューギニアにおける主要基地として整備した。十万以上の陸海軍兵士らが最終的にそこに駐留する予定であった。労働力は現地の中国系住民とニューギニア人によって、1942年中頃からは、何千もの中国系及びインド系住民と、ニューブリテン島に輸送されたイギリス人捕虜らによって強化された。1942年3月から連合軍は、空爆作戦及びラバウル上空における激しい航空戦によって対抗した。 |
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