1944年4月、アメリカ軍はウエワクを迂回して、アイタペとオランダ領ニューギニアのホランジアに上陸した。そして、安達二十三司令官に率いられた第18軍のアイタペへの反撃は、失敗に終わった。第18軍下の4個師団は、すでに兵力が減少していたが、1944年10月にそれぞれウエワクを中心として、西部および南部のトリセリ山脈に配備された。食糧や医療品の不足のよって病気になる兵士も多く、さらに戦闘よりも農作業などの食糧確保に兵を回す必要があった。
日本軍は地元住民を農作業や運搬作業のために雇い、彼らの助力なしには生き延びれないことを知っていた。現地民の中には日本軍に協力する者もおり、オーストラリア軍側も現地住民を情報収集などに使った。
1944年中期にアイタペをアメリカ軍から引き継ぎいた後、オーストラリア軍は周辺地域への積極的なパトロールを開始した。1944年11月下旬には、オーストラリア軍は、アイタペから海岸沿いに東へ前進を開始し、また南部山岳地域に潜む日本軍に対しても攻撃を始めた。しかしこの戦いは双方にとって厳しいものだった。日本人傷病兵のほとんどは手当てを受けることができず死亡したが、オーストラリア人傷病兵も後方の病院へ送られるまで長い時間がかかり、その間に死亡する兵士もいた。この問題は、ようやくマプリックに飛行場が建設されて解決した。
この時期のオーストラリア軍は食糧補給不足を経験し、航空機による物資投下に頼ったり、船での海岸線への物資輸送に頼るしかなかった。一方日本軍は深刻な食糧不足に悩まされていた。1945年5月には連合軍によるウエワク上陸作戦が敢行され、安達司令官の部隊はさらに内陸部に後退して行った。
当作戦は、終戦とともに幕を下ろした。10ヶ月の作戦期間中、オーストラリア軍は海岸部と山岳地域で日本軍を執拗に追撃した。オーストラリア側の被害は、日本軍と比較してずっと少なかったものの、作戦自体が戦争の勝敗とは関係のない掃討作戦であったため、[不要な作戦]と後日考えられ、それらの戦闘での戦死者の戦友にとっては、後味の悪い体験だった。
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アイタペ・ウェワク
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