1943年9月オーストラリア軍の攻撃によってラエが陥落した。日本軍はラエからサラワケット山を越えて撤退したが、その間に多くの兵士が死亡した。
オーストラリア軍のフォン半島における攻撃目標は、フィンシュハーヘンだった。そこは日本軍にとって、中継地点であり補給基地の機能を持っていた。この基地を海軍陸戦隊員や歩兵、砲兵など約1000名の日本兵が防御していた。
ラエを陥落させた後、オーストラリア軍の一部は海岸沿いを北上し、フィンシュハーヘンへ向かった。しかしフィンシュハーヘンへ向けての最大の攻撃は、1943年9月22日に決行された連合軍のスカーレットビーチ(フィンシュハーヘンより5マイル北)上陸作戦であった。ここの陣を敷いた日本軍はこの攻撃に対して頑強に防衛戦をした後、サテルベルグ方面へ退却した。またサテルベルグへは、片桐中将指揮下の1万2千人の第20師団が援軍として向かっていた。
オーストラリア軍はサテルベルグ攻撃と平行して、沿岸部を前進してフィンシュハーヘン攻略し、上陸後11日目にしてフィンシュハーヘンを占領した。サテルベルグでは、日本軍第20師団が10月16日から反撃を開始したものの、物資の欠乏に悩まされた。一方オーストラリア軍側は、戦車と火砲による攻撃力の増強だけではなく、物資補給はジープを駆使して行ない優勢を保った。
日本軍は頑強に抵抗したが、11月27日にはとうとう押し切られてしまった。日本軍はフォン半島の内陸部を通り、北部のラコナとシオへと撤退し、それをオーストラリア軍は追跡し北上した。この撤退の最中、数多くの日本軍傷病兵が取り残されたり、同僚によって殺害されたりした。
オーストラリア軍の前進は遅々としたものでであったが、ようやく1944年1月15日にシオに到着した。
その間、アメリカ軍がサイドル(グンビ岬)に上陸し、そこに前進基地を設営した。一方オーストラリア軍は撤退する片桐部隊を追跡するため、新たに一個旅団を派遣した。極度な消耗戦において、オーストラリア軍は1028名の戦死者を出した一方、日本軍は総力12600名のうちの3分の2を戦死、負傷、または病気によって失ったのだった。
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