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田村義一の日記

この日記は、兵士に配布されていた従軍手帳に書かれていた。日付は1943年4月から始まり同年12月で終わるが、この8ヶ月間に約160ページにわたって日誌が書き込まれている。記入の頻度は彼のおかれた状況によっているようだ。ニューギニアに到着してまもなくは、一日に10ページも書かれていたことがあった。一方、9月以降はまれになり、10月と11月は全く記入がない。最後の記入は1943年12月8日で、太平洋戦争開戦について触れられていた。

この日記には、所有者の姓名が書かれていなかったが、田村義一の所有物であったと後日確認された。彼の身長は158.5センチ、体重57キロと、当時の成人男子の平均で、胸囲84センチと、中肉中背の体格ではなかろうか。彼の視力は両眼ともよかった。1943年4月27日に、26歳になっていた。彼は独身で、家族は父と妹と弟だった。また2月6日の母親の命日も、彼の銃、刀そして時計の登録番号や貯金口座番号と共に記録されていた。

田村義一は栃木県出身である。第一回目の応召では、朝鮮半島北部と中国に派遣され、その当時の思い出をこの日記に書き留めている。彼は中国の寒く乾燥した気候や、小さな村が点在する荒涼とした風景を思い出して描写している。その記述によると、彼の部隊は中国で実戦には参加しなかったようだ。そして第一回目の応召後、彼は普通の生活に戻り、この時期に友人と行った富士山登山は、懐かしい思い出になっている。

田村は1943年1月に宇都宮で第2回目の応召をした。田村は1月5日に第41師団歩兵第239連隊(東都36部隊)に入隊し、宇都宮を1月12日に出発した。部隊は下関に移動し、そこから朝鮮に向けて船に乗り込んだが、その出発風景を彼は書き留めている。列車は冬景色の中を走り続け、一度目の応召の際にはたくさんの人がにぎやかに見送ったのに、今回はほとんど誰も駅のプラットホームにいなかった。

田村のニューギニア日記は、1943年4月のウエワクのテント兵舎での記入によって始まる。従軍して3ヶ月が過ぎたが、故郷の家族や友人からの便りをまだ受け取っていなかった。そして日記は1943年12月8日で終っている。

この日記の特徴は、兵士の日常行動の記録だけではないところにある。彼は日記を通して、軍隊生活についてや、個人として、また国のために戦う兵士としての生きる目的を考えている。彼は友人や家族に出した手紙を、手帳の中に書き写し、また、実家や、一回目の応召で行った中国などの、過去の思い出も書き留めている。日本に思いをはせながらも、国からの便りは何ヶ月も届かず、彼はジャングルでのテント生活を続けた。またこの日記を読むと、連合軍の空襲の最中の兵士たちの行動や気持ちがよくわかる。さらに、死を直視しながら、名誉をどう保つかがありありと表現されている。

この日記では、散文と短歌の2種類の文体が使われ、百首以上の短歌が書き留められている。彼の記入のしかたは、まずその日に起こったことを記録し、それについての感想を書き、そして4首から5首の短歌を記すというものである。つまり、短歌は出来事についての彼の考えや気持ちを要約する役割をしている。

戦後、この日記はメルボルンのアラン・コネル氏の手元にあった。彼は1941年10月に19歳で57/60豪歩兵大隊に入隊し、1946年1月に除隊している。彼の死後、子息のジェフ・コネル氏と彼の妻ケイさんが、父親の遺品の整理中に日記を発見した。故コネル氏は日記について一言も家族には話さなかったので、入手の経過は定かではない。

しかし、日記のたどった運命を想像することはできる。コネル氏の従軍記録によると、彼は1943年の末、ニューギニアにおいて情報部門で働いていた。当時、捕獲された日本軍兵士の日記は、まず戦場の情報収集部門に集められた後、連合軍翻訳通訳部門(ATIS)に送られ、そこで作戦的価値があるかどうかのチェックを受けた。そのような資料を取り扱う機会があったアラン・コネル氏が、この日記に対日戦で軍事的に利用できる情報が含まれていないことを知ると、それを手元に置くことにしたのではなかろうか。そのような種類の日記は、いずれ破棄されることを予想していたのかもしれない。手元に置くことは、本来は認められていなかったももの、そのような行為は現場では行われていたとの報告がある。

日記が発見された後、2001年にコネル夫妻の友人であるジェフ・クリップ氏が、この従軍手帳の内容を知るために豪日研究プロジェクトに連絡をとった。その際送られてきた1ページには、ニューギニアのジャングル生活を生き生きと詠ったいくつかの短歌が含まれており、そこでは異質な自然や植物が文学的な繊細さで表現されていた。その後、コネル夫妻が日記の全頁コピーを当プロジェクトに提供し、ようやく日記の全体像を知り、翻訳作業を始めることができたのだった。

第41師団歩兵第239連隊の行動と作戦
日本の公刊戦史である『戦史叢書』によると、第41師団歩兵第239連隊は、1939年9月に宇都宮で編成された。田村兵士が従軍した作戦に、師団は約19000人の兵士を送り込んだ。戦史叢書は、1943年1月29日に連隊はチンタオに移動し、ウエワクには2月20日から24日の間に上陸したと書いている。

1943年3月から4月にかけて、連隊はウエワクとブーツで飛行場建設に従事した。4月から6月には、ダグアでの飛行場建設と、海辺のダグアから、内陸部のマプリクへの道路建設にかかわった。そして1943年7月から9月にかけて、連隊はウエワクに戻り、再び飛行場建設に従事した。

田村兵士の日記にも書かれているように、ウエワク地域は飛行場建設の最中に爆撃を受けたものの、日中は偵察機の接近だけで、爆撃は夜間の単機爆撃機による攻撃のみであった。そのため、建設に遅れが出たものの作業は継続され、ようやく飛行場が完成し、この地域で日本軍機の発着が可能になった。オーストラリア公刊戦史によると、1943年8月までに、陸軍第6飛行師団の5個の戦闘機戦隊と3個の爆撃機戦隊がウエワクに配置され、総力は航空機324機であったという。

しかし日本の戦意は、1943年8月17日に完全に打ちのめされた。連合軍は日本軍航空機がこの地域に集中していることに気付き、それに攻撃をかけることを決定した。8月17日と18日に、連合軍爆撃機編隊がウエワク地域の日本軍飛行場の4ヶ所を集中攻撃し、日本軍は一度に軽爆撃機、戦闘機、偵察機など100機を失うという、大きな損害をこうむった。(この攻撃と影響に関しては、進藤論文に詳しい)1943年10月から1944年2月にかけて、連隊は中井支隊長のもと、フェニステルとサイドル作戦に参加するためにマダンへと向かい、1944年3月と4月にはマダンにおいて第41師団の指揮下に置かれた。

第41師団の参謀将校だった星野一雄の著書『ニューギニア戦追憶記』によると、当初約2万人いた第41師団の兵力のうち、終戦時に生き残っていたのはたったの600人だったという。さらに、ニューギニア東部と中央部に送られた20万人の兵士のうち、生き残ったのは1万人のみであったと書いている。死亡率がこのように極端に高かったのは、戦争末期の日本軍の悲壮な戦いによるものだけではなく、退却の際の兵士の病気と飢餓に原因していたのだった。

エピローグ
上記のエッセーが、豪日研究プロジェクトのウェッブサイトに2002年に掲載されて約1年が過ぎた頃、NHKから日本人兵士の遺書や日記についての取材をしたいという依頼があり、田村日記の存在を知らせた。偶然、同じ頃に時事通信社からも、田村日記についての取材依頼が入り、新聞記事は2003年8月に日本各地の新聞に掲載された。NHKのドキュメンタリー番組は「最後の言葉」と題して同年8月15日に放映された。

それぞれの報道機関の調査の結果、ご遺族が栃木県小山市で見つかった。田村義一が生まれ育った実家は、弟の田村貞宣氏が継ぎ、妹さん二人も健在だった。家族が受け取った戦死公報には、「1944年3月ニューギニアのビリアウにて戦死」と書かれていたという。ビリアウは、連合軍が1944年1月下旬に上陸したグンビ岬に近く、日本軍と連合軍の間で激しい戦闘があった場所である。田村氏の遺品はニューギニアから何も戻ってこず、この日記が唯一の形見だという。遺族の強い希望に応えて、オーストラリア戦争記念館は日記を日本の家族に返還することを決定した。亡くなってから約60年たってようやく、田村義一は日記と共に、家族が待つ故郷に帰ることができたのだった。

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田村日記の概要
日記原文 1–30ページ
日記原文 31–60ページ
日記原文 61–90ページ
日記原文 91–120ページ
日記原文 121–143ページ



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