日本軍潜航艇2隻の艇体をシドニー湾海底より回収後、G. C. ミュアヘッド・グールド少将が1942年7月に2FCラジオ局で行った放送原稿の抜粋。
(ニューサウスウェールズ州立図書館、ミッチェル・ライブラリー蔵:ML AW102/1)
この攻撃実施に使われた艇は人間魚雷のようなもので、将兵たちが出撃した鋼鉄のシリンダーは、潜水艦としてというよりも魚雷のような設計でした。船体には普通の潜水艦の装置はあまり整備されていませんでした。バラスト・タンクもなく、加圧された船体でもなく、水中翼もなかったのですが、もちろん司令塔と潜望鏡、垂直・水平舵、そして防潜網切断機は備えていました。この艇のモーターでかなりの距離を進むことができ、そして前方部には本物で強力な魚雷を 2本搭載していました。作戦が成功裏に終われば、基地か母船に戻ろうとしただろうと考えられ、更にもし名誉ある脱出が可能ならば、そのための装置も備えられていました。繰り返しますが、「名誉ある」とは作戦が成功した場合であり、発見されたり、まだ魚雷を搭載したまま攻撃を受けた場合ではないのです。それゆえに、一隻の潜航艇は、攻撃される可能性があるだけで自爆しています。潜航艇は水中探知装置で探知するのが難しく、また潜望鏡を上げて潜水していると、水上船舶や飛行機から発見しにくいのです。しかし、夜間の潜航ではほとんど盲目のようなもので、おそらく方角測定のために一定間隔で水面に浮上せざるえなかったでしょう。
潜航艇の乗員はそれぞれ士官と水兵の2名で、特別に小柄な体格に違いないでしょう。数日間分の食料と飲み物が積み込まれており、それはサクランボの保存食、干しぶどう、海苔、みかん、そしてカニ入りチーズのような缶詰と思われます。また、それぞれの衣服には干しイカが縫いこまれていました。飲み物は、ポートワイン1本とウィスキーのような蒸留酒の小瓶があり、ソーダ水も数本積み込まれていました。暖房装置も空気浄化装置もありました。見学用に展示する際には、潜航艇を3つの部分に分けています。前方部には魚雷発射管とその関連機材、そして主要な蓄電池の半分が、中央部分には司令室、司令塔、そしてさらに蓄電池が搭載されており、後部は主モーターと舵機能が備わっています。それぞれの部分は別々に配置されるため、見学者は内部と各部品の配置がはっきりと見えます。今日は,この機械とメカニズムを詳細に説明する時でも場でもありませんが、皆が気付くのは、乗員たちが上り下りし、作業し、さらに一時的に居住し、そしてついには死亡した場所が非常に狭いことです。司令室と司令塔をあわせた空間は5フィート四方しかなく、ここに士官が座り、このような作戦では部下は指揮官がまことに信用する友人ですが、その部下が、彼らの柩となる空間を手と膝で這って前後に移動したのでしょう。
私はこの人々を火葬にするにあたって軍としての栄誉を与えましたが、それは本来ならば敵の手によって戦死したわが方にされるべき扱いであるとの批判をうけました。しかし私はあえて問いたいのです。このような勇敢な人々に対して、十分な栄誉を払うべきではないでしょうか。鉄の棺のようなものに乗り込んで出撃するには、最大の勇気を必要とするのです。私の順番が回ってきた時には臆病になりたくはないですが、平時でもあのようなものに乗ってシドニー湾を横切る勇気は私には無いと告白しなければなりません。彼らの勇気は、ある国のみに限られた所有物でもなければ伝統でもありません。われわれの国々の勇者たちにも、敵にも共通するものであり、戦争やその結果がどれほど悲惨であろうとも、認識され世界中で賛美される勇気です。彼らは最高の愛国者たちでした。彼らの千分の一の犠牲を払う準備がある者が、我々の中に幾人いるでしょうか。戦闘の煙や大砲や爆弾の轟音の真っ只中では、勇敢に従ったり、あるいは絶望的で希薄な可能性であっても勇敢に先導しながら、我々の生命を立派に奉げることはそれほど難しくないかもしれません。しかし彼らのように、最終の犠牲を払う何日も前、いや何週間も前から、作戦を冷静に実行に移すためには、非常に強い愛国心でした。
(このあと、ミュアヘッド–グールド少将は、ラジオ聴取者に戦争債権の購入をアピールした)
日本語訳:田村恵子
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